第110話 ドナドナ 3

『はー、怖かった!!』


 紫苑は、帝がどこに消えたか、なにを話していたかなんて頭にはなく、心臓をバクバクさせながら、ひたすら自分の上にある嵐が、なにごともなく過ぎ去るのを、うつむいたまま、じっと待っていた。


 やがて帝が立ち去ると、平然とした顔の関白を見上げ、このあとの朝議への参加を大納言が関白の元に、うかがいにやってきたのを、ボンヤリとながめていた。


 そんな彼女は、せっかくきたのだからと、御園命婦みそのみょうぶに、出仕後の姫君の殿舎(御殿)になる登華殿とうかでんに寄っていきなさいと声をかけられて、丁度、手土産もあることだしと、関白に了承を得てから清涼殿をあとに、後宮へと足を延ばす。


 承香殿じょうきょうでんを通りすぎ、次に見えたのが弘徽殿こきでん


『本当に渡殿(廊下)ぞいに殿舎(御殿)が並んでる。ここが弘徽殿こきでん……』


 なにかとうわさの弘徽殿女御こきでんのにょうごの豪華な殿舎の前を彼女はとおる。普通の女房であれば、見ただけで気が引けたであろうが、そこは貴族の筆頭である摂関家に仕える身。


 幼い頃から、贅沢な寝殿造りのやかたで働いている紫苑は、まったく臆することもなく、「たまに檜扇が飛んでくるって本当かな?」などとうわさを思い出し、御簾の向こうを、チラチラ見ながら歩く。


 右大臣家と左大臣家は、蔵人少将くろうどのしょうしょうと四の君とのご縁もあり、両者の仲はいまのところは、なんの問題もなく、弘徽殿女御こきでんのにょうごに仕える女房たちも、御園命婦みそのみょうぶと一緒に歩いている紫苑を見て、「あらとても幼くて可愛い女房ね」などと、気軽に挨拶をしながら話しかけてくる。命婦みょうぶが上品に挨拶を返すうしろで、紫苑はひたすら笑顔を作っていた。


『一応は隣なんだ……』


 弘徽殿こきでん登華殿とうかでんの並びに、紫苑が気づいたのは、かなり歩いて登華殿とうかでんにたどりついた頃だった。


 その更に奥の渡殿(廊下)を曲がった先に、葵の君が所属する予定の皇后宮職こうごうぐうしきのある貞観殿じょうがんでん。角から少し首を伸ばすと、忙しく人が出入りするのが見えた。


登華殿とうかでんは、結構狭いんですね」

「そうなのよ、後宮をご存じの大宮はともかく、葵の君は、しばらく戸惑いなさるでしょうね」


 狭いと言っても登華殿とうかでんは、後宮では弘徽殿こきでんと並び、格式も高く、大きな殿舎のひとつに挙げられるのだが、広々として豪華な左大臣家で育った葵の君が驚かないように結構狭いからって、伝えておいてねと命婦みょうぶに言われ、自分で言いにくいから、わたしを誘ったんだなと紫苑は思いながら、左大臣家からの差し入れの、“特別な蒸し菓子(プリン)”を女房たちに手渡して、自分も一緒に口にしていた。


「狭いと言っても、まだ広い方なのよ」

「そうなんですか?」


 紫苑は広い左大臣家と、質素ながらも、田舎なので無駄に広い自分の実家しか、ほとんど知らないので、命婦みょうぶにもらった、後宮の案内図を見ながら、やっぱり興味本位で桐壷更衣きりつぼのこういが住んでいる淑景舎しげいしゃ(桐壷)を目で探してみる。


貞観殿じょうがんでんをとおり過ぎて、二個目にある。あれ? ここよりも随分ちっちゃい!』


 登華殿とうかでん母屋おもや九間(一間=約3m)に、ひさし四面+αに対し、淑景舎しげいしゃ(桐壷)は母屋おもや五間に、ひさし四面。その上、帝が住む清涼殿からもっとも遠く、どの渡殿を選んでも、他の后妃の殿舎の前を通らねば、絶対に清涼殿までたどりつけない。


 もし来世、不動産の営業マンになった皇后宮職こうごうぐうしきの別当が、淑景舎しげいしゃを紹介するとすれば、こぢんまりとして人通りも少なく、落ちついたプライベートスペースを確保して暮らせる、素敵な殿舎(御殿)とでも紹介したであろう。


 が、平たく言ってしまえば、清涼殿から一番遠くて狭い上に、帝に呼び出されても、桐壷更衣きりつぼのこういは、后妃の中でもくらいが低いため、あちらこちらの后妃に頭を下げて、長い渡殿を歩かねばならない。彼女にとっては、最悪の立地としか言いようがない殿舎であった。


「もっぱらのうわさによると、帝は桐壷更衣きりつぼのこういを、第二皇子の母なのだからと“御息所みやすどころ”の称号を、差し上げたいそうだけれど……」

「だめなんですか?」


御息所みやすどころ”ともなれば、女御にょうごとはいかなくても、更衣からは、ちょっと出世する。


 紫苑の視線の先に、淑景舎しげいしゃ(桐壷)をみつけた命婦みょうぶは、苦笑しながら、秘密の話を教えてあげる。紫苑は二、三歳の女童めわらの頃から、実の娘のように可愛いがっている子だ。


弘徽殿女御こきでんのにょうごが怒りのあまり、生霊にでもなりそうだから、帝は様子見というのが、もっぱらのうわさよ」


『一体、どんな恐ろしい女御にょうごなんだろう?』


 生まれてこの方、左大臣家に仕え、大宮や葵の君といった、美しくて優しい女主人に恵まれている紫苑には、想像もつかなかった。


 女房の長門ながとが、紫苑が帰りに淑景舎しげいしゃ(桐壷)を、わざわざ見物に行ったりしないようにと、まっすぐ左大臣家に送り返すべく、一緒に殿舎の前に出るが、間が悪いことに、女房をひとり連れた第二皇子がとおりかかった。


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