第113話 霍乱

 帝が姿を消し、紫苑も内裏を退出してから数刻後、朝議を終えた関白は、右大臣を自分の曹司に呼んでいた。やってきた右大臣は畳の上に座るなり、女房から小さなつぼを差し出された。


「これは一体……?」

「卵のカラを洗って乾燥させ砕いてから、うすでひいた品だそうだ」

「はあ……」


 なにゆえそんなものを? 右大臣は首をひねる。


「畑の土に混ぜて作物を育てると、よく育つそうだ。葵の君が当家の図書蔵ずしょぐらで見た、土地改良の方法のひとつらしい。右大臣家の領地は農耕地も多いので、試してもらってはどうかと、姫君が申しておったゆえ持参した。あとは好きにせよ」

「好きにせよ……」

「すべて右大臣家で、取り仕切ってよいぞ」


 卵の殻にはアルカリ成分が含まれ、基本的に酸性である日本の土壌を中性へと傾ける効果があり、現代では家庭菜園でも大規模農業でも、使用されていることもあるナチュラルな原料で、葵の君も前世では自分の花の鉢植えに混ぜていた。


 初めは頻発している飢饉に対して、なんとか国で大規模に研究と開発ができないかと考えたが、どうも国まかせでは時間がかかりそうなので、右大臣に頼んだ方が恩も売れる上に、手っ取り早いと、御祖父君に仲介を頼んでいた。


 関白のいまの発言は、この肥料の販売権利を右大臣家に譲るとの意味を含んでいた。右大臣家の農作物の生産量の向上はもちろんのこと、詳細に配合を調べ、これを事業とすることができれば、大きな収入源となることは明らかである。


 頭の中で素早く、そう算段した右大臣は、先日の件と言い、これは関白が葵の君を手放さぬはずだと得心する。


「ありがたきお申し出、姫君にはいずれ、恩を返させていただきます」

「兄である蔵人少将くろうどのしょうしょうを、自分の病で実家に引き留めた詫びだとの伝言である」

「それは仕方のないことであり、当家にはなんの不満もないことでございます。そして、蔵人少将くろうどのしょうしょうは、もとより我が家には、過ぎた婿君でございます」


 右大臣は調子よくそう言うと、やかたに余っている卵のカラは、勝手に持ってゆけという関白に礼を述べ、大切そうにつぼを抱えて「弘徽殿女御こきでんのにょうごのところに寄る約束なので」と、席を立とうとするが、関白に思いもよらぬことを告げられた。


「第一皇子の東宮位、帝は無事ご了承くださった上に、式典の準備も引き受けてまいった。そのことを弘徽殿女御こきでんのにょうごにもお伝えのほど。しかし、しばらく帝を刺激せぬように。正式に儀式が終わるまでは、話が引っ繰り返りかねん。意味は分かるな?」

「は! 弘徽殿女御こきでんのにょうごには、くれぐれも……ありがとうございます、ありがとうございます……さすがは関白! 本当にありが……」

「さっさと行った方がよかろう。わたしはもう帰りたいのだが?」


 手に入れた手札は、すべて自分の手柄にするのが、この関白という男であった。


 壊れたからくり人形のように、関白に礼を述べて、頭の中を花で満開にした右大臣は、小さなつぼを持ったまま後宮を訪れ、娘である弘徽殿女御こきでんのにょうごに人払いを願うと、静まり返った御簾みすの中で、おもむろに口を開く。


 帝は弘徽殿こきでんの前を避けて、淑景舎しげいしゃ(桐壷)に向かったため、帝の情報は彼女の耳には入ってはいなかった。


「良い話と悪い話がございます」

「なんですかそれは?」

「どちらから先に、お話しをいたしましょうか?」

「……悪い話」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、いぶかしげに右大臣の顔を見ていたが、かなり機嫌がよさそうなので、「きっと、とてもよい話なのだろう」そう思うと、先に悪い話を聞くことにした。


 右大臣は、これから話すことは、わたしがよいと言うまで絶対に内密にと、女御にょうごに言い置いてから話しはじめる。


「左大臣家の“葵の君”を、第一皇子の妃にする話は、なくなりました」

「え……いまなんと?」


 女御にょうごは思わず檜扇を取り落とす。父君は、あまりの衝撃で頭がどうにかなったのだろうか?


 姫君の入内は、右大臣家にとって、第一皇子にとって、今後の未来がかかっている。そんな重大な案件が失敗したというのに、彼はピンピンしていた。その上なぜか機嫌もよい。


 不気味に思った女御にょうごは、いつもの威勢のよい怒鳴り声も出さず、恐る々々よい話をたずねた。一族を束ねている父君が、どうにかなってしまったら、大変なことになる。


「大丈夫ですか父君? あの……で、よい話というのは?」


 久しぶりに父君と右大臣に呼びかけた女御にょうごは、困惑した顔で右大臣を見つめた。彼は周囲を見回すと、小さな声でよい話をはじめた。


「少し先のことながら、摂関家から姫君が二人、第一皇子に入内して下さることになり、その上、関白が正式に第一皇子を“東宮位”に推挙して下さり“東宮位”が決定しました!」

「………」


『もうおしまいだわ!』


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、涙が頬を伝うのを止められなかった。左大臣家の姫君に入内を断られた悲劇に、ついに父君の頭は、なってしまったらしい。


 彼の顔には、一片の曇りも迷いもなく、その上なぜか嬉しそうに、小さなつぼを抱えている。


「そのつぼは?」

「卵の殻」

「………」


 思い返してみれば、心を砕いて自分と第一皇子のために、奔走し続けてくれる父君に、自分は不平不満をぶつけてばかりであったと、女御にょうごは後悔するが、それももう遅いようであった。


「父君しっかりなさって下さい……。摂関家の、左大臣家の姫君は、ひとりしかおりませぬ……」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは涙をこぼしつつ、それでも父君がこうなった以上、自分が右大臣家を支えねばと、悲壮な思いに囚われていたが、右大臣から詳しい真相を聞いたあと安堵と共に、しばらく寝込んでしまわれたのであった。


『鬼の霍乱かくらん……』


 母君が寝込んでいるという話を聞いた、第一皇子の頭に浮かんだ言葉は、後宮に出入りする全員の頭の中に、一瞬、点滅した言葉であった。


淑景舎しげいしゃ(桐壷)のことは耳に入れぬように」


 委細を右大臣に聞いて驚いた朱雀の君は、弘徽殿こきでんを取り仕切る女房に強く命じると、ご自分の殿舎に戻り少し残念そうに、葵の君からいただいていたふみを取り出してながめていた。

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