第112話 執着

 紫苑と出会った翌日の夜、早くも左大臣家の姫君の騒動を耳にした刈安守かりやすのかみは、あたらしいやかたに設えた自分の曹司で、こんなことなら左大臣家に呼ばれた時に、もっと探りを入れておけばよかったと、残念に思っていた。


「可愛らしい女房殿のあの慌てよう、本当は怪我のひとつもなかったのだろうね」


 けれど左大臣家の姫君は、女房殿と関白が見た御仏の御告げによって、当然と思われていた后妃のくらいを辞退した……なんのための、誰のための“嘘”なのだろう? 世間のことに珍しく興味が湧いた。


「おもしろい……」


 刈安守かりやすのかみの周囲では、彼に殺された小さな亡霊たちが、忌々いまいまし気な顔で奇妙な叫びを上げながら、彼の喉笛に食いつこうと押し寄せていたが、まるで陰陽師おんみょうじの張る結界でもあるように、くやしそうな顔で彼の周囲をいわしの群れのように、グルグルと取り巻いているだけだった。


「人格はともかく、破戒僧の腕前だけは確かだな」


 自分のことを棚に上げた彼は、煤竹法師すすたけほうしに背中に刻ませた悪霊を払う経文と、部屋に貼ってある封じの札を思い出して、怨霊たちを一瞥いちべつしてから、平然とそんなひとり言を呟く。


 彼によって命を奪われた幼い女童めわらたちは、怨霊となって彼に取り憑いたものの、法師ほうしの法力によってなすすべもなく、彼の部屋に閉じ込められ、漂っていた。


 大切に取り置いている一冊の本を手に取る。


 それは未だ存在すら伝わらぬ、ヨーロッパでも極少数の者だけが知る『ラテン語』で書かれた、イスラム圏から伝わった“外科手術”の元ともいえる、医学を書き示した『元祖解体新書』で、なんの因果か星の導きか、彼が遣唐使から偶然手に入れた、この時代における『奇書』であった。


 もちろんイスラムもヨーロッパも存在すら知らぬ、極東の国で暮らす彼に、内容はまったく分からぬ本であったが、描かれている挿絵は、彼が見た“実物の人体”と変わらぬものであり、そこから想像するに、これは医学の神がもたらした“宝の山”だとアタリはつけていたが、残念ながら一言も読み解けず、殺生事を極端に嫌う世の中ゆえ、大々的に取り上げる訳にもゆかず、打つ手はなかった。


 しかし、コレを読みとく手がかりを、手に入れたかもしれない彼は、嬉し気な笑みを浮かべ、本の表紙に頬を当てる。


 手がかりは左大臣家の姫君。


 思い出しているのは、今朝、畑に蜜柑みかんの木を見にきた陰陽師おんみょうじを、疎ましいながらも無下にもできぬと、面倒に思いながら、世間話をしていた時の出来事。


「左大臣家の姫君は、語学にも秀でていらっしゃると言ううわさは本当でしょうか?」


 刈安守かりやすのかみは、左大臣家の姫君は病が平癒したあとも、左大臣の北の方である、三条の大宮が心配のあまり、中務卿なかつかさきょうに頼んで、頻繁に真白の陰陽師を呼んで、姫君の守護を頼んでいるとのうわさを知っていたので、姫君にまつわるうわさ話のひとつを振ってみたのだ。


 熱心に蜜柑みかんの木を見ていた『四』と背中に入った真白の陰陽師は、いつものように無視を決め込むかと思ったが、木の剪定せんていを終えて、機嫌がよかったのか、珍しく返事が返ってきた。


「あれは、秀でると言った言葉では表せない。まるで……」

「まるで?」

「すべての言葉を会得して生まれた気がする」

「それはそれは、陰陽師殿がそうおっしゃるのであれば、確かなことにございましょうね」

「ただのうわさだ……」

「そうですか……」


“四”は、肩をすくめて、そう言い置くと、刈安守かりやすのかみが、畑にいるのは珍しいと思いながら陰陽寮おんみょうりょうに帰った。


 刈安守かりやすのかみは、人当たりもよく評判もよい男だが、なんとなく不気味な男だと“四”は思っている。


 だが、なんの黒い影もなく、平凡な魂の輝きしか持たぬ彼が、実は煤竹法師すすたけほうしの呪法により、彼に取り憑ける怨霊がいないだけの、呪われし存在だとは、気がついてはいなかった。


 そんな“四”の言葉と昨日の出来事に、左大臣家の姫君に対する興味が本格的にいた刈安守かりやすのかみは、その日の仕事もそこそこに、ツテを駆使して姫君のうわさを確かめるべく手配りをしたところ、確かな筋から、情報を手に入れていた。


 先日、とある官僧が、貴重なサンスクリット語で書かれた経典を、左大臣家に持ち込んで、姫君の精進潔斎をやぶるおこないが、いかに人としての道を外れているか、経典を指し示して説教を始めたところ「指摘の部分は話が全然違いますよ?」と姫君に言われ、大いに赤っ恥をかいた上に、出入禁止を言い渡されて、すごすごと自分の寺に帰った話である。


 姫君に漢文の講義に行った博士たちが、「非凡なること、並ぶ者なしと言われる、関白の血を色濃く受け継ぐ、姫君の“異次元”とも言える語学の才には、ただただ押し黙るしかなかった」との逸話。


 姫君本人への興味に加え、自分が頬を当てている『奇書』を読み解ける可能性を、姫君に見いだした彼は、いままで妹君以外に抱いたことのない、強い執着心を左大臣家の姫君に抱く。


 それほどの才であれば、すぐに読み解けぬとしても、なにか手掛かりを見つけてくれるかもしれない。


「実におもしろい、姫君の頭の中身を見てみたいね……」


 尚侍ないしのかみとして出仕されれば、会う機会もあるやも知れぬし、なければないで、姫君と結婚することになった中務卿なかつかさきょうに一服でも盛れば、後宮から大内裏へ、おびき出せるだろうかとも密かに思う。


「でも、本当に頭の中身をのぞいてしまうと、この本の中身が迷宮入り、生け捕りの方法を考えないといけないね……」


 姫君を生け捕りにしたあかつきには、閉じ込めておく塗籠ぬりごめをひとつ用意せねばと、自分の部屋の横にある、薬草を積んである塗籠ぬりごめを空けることにした。


 はじめて妹君以外に執着する相手ができた刈安守かりやすのかみの頭の中は、相変わらずイカレたままで、その言葉を聞いていたのは、彼の周りをいわしのようにグルグル回っている、小さな怨霊たちだけだった。

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