第111話 ドナドナ 4

 いきなりの帝の訪れと、ただならぬご様子にとまどった光る君は、適当な理由をつけて、淑景舎しげいしゃ(桐壷)を出ると、まだ主人が不在の登華殿とうかでんの庭でも散策しようかと思い、足を向けていた。そこに可愛らしい女房を見つけた彼は、にっこりと笑いかける。


 年の頃は十歳前後だろうか? 少し興味が沸いた。横にいた左大臣家のもうひとりの女房が、彼女に「第二皇子でいらっしゃいます」そう耳打ちしている。


「名前はなんというの?」

「……紫苑しおんと申します」


 光る君の興味ありげな視線に対して、紫苑の方は、なんとも思っていなかった。それどころか皇子様を相手に失礼なことを考えてすらいた。


 お手紙騒動の時は“皇子様”という肩書に、つい舞い上がってしまったが、よく考えれば、この第二皇子は、葵の君とのご結婚がなくなった以上、完全に姫君のライバルなのだ。(左大臣家の女房たちの視点。)


『これが第二皇子! ふーん、まあ、可愛いは可愛いケド、うちの姫君の相手じゃないわね、尊さが違うわ! 』


 光る君は一瞬、幼い女房の瞳に浮かんだ自慢げな表情を見て、少し眉を寄せるが、紫苑の視線は、皇子のうしろの女房に釘づけだった。


『“甘葛あまかずらの会”で、うちの姫君をコケにしてくれた女房のひとり!』


 桐壺更衣きりつぼのこういに仕える女房は、小さな紫苑なんて覚えていなかったが、紫苑は深く々々、根に持っていた。


『あの時の恨み、いつか万倍にして返してくれる!』


 とは言っても、さすがに皇子の前なので、紫苑は取りえず右大臣顔負けに、腰低く対応した。


 自分にほほえみかけ、姫君の話を聞きたそうな皇子を「関白をお待たせしております」の一点張りでなんとかやり過ごし、うしろの女房に精一杯のガンを飛ばしてから、精いっぱいおしとやかに後宮をあとにする。


 牛車を止めてある、内裏の車止めに向かう途中、少し向こうにある大内裏の中に蜜柑みかんの木が見えた。


 周囲には大勢の人だかり。


『あれ? ひょっとして、姫君があげた“突然変異蜜柑とつぜんへんいみかん”の種が、もうあんなに大きくなったの?』


 気になった紫苑は、これは姫君にご報告せねばと、十二単じゅうにひとえの裾を、同行していた年下の女童めわらたちに持ってもらい、関白の随身ずいじんに「先に帰った」と、関白に伝言を頼んで、慌てる彼らをそのままに、蜜柑みかんの木を眺めがてら、歩いて帰ることにした。


 どうせ内裏と左大臣家は目と鼻の先、牛車なんてないほうが早いのだ。


「……切り倒せ」

「え?」


 内裏の門を抜け、大内裏だいだいりにある典薬寮てんやくりょうの畑の側にやってきた紫苑は、見知らぬ官吏が発した言葉に耳をうたがった。


「ちょっと待ってください! その蜜柑みかんの木を切ってもらっては困ります!」

「……はて? 装束から、左大臣家の女房殿と見受けますが、ここは典薬寮てんやくりょうの薬草畑、なんのご関係が?」

「えっとその……」


 思わず止めたが蜜柑みかんの木との「ご関係」はと問われれば、種の提供者の使用人としか言いようがないのだが、この蜜柑みかんは姫君も楽しみにしているのに、切り倒すなんて、それはないと彼女は思い、なんとかしようと知恵を絞りながら官吏を見上げる。


 紫苑は服の色から、彼が一応は殿上人のくらいを持つ貴族だと気づき、どこかで見たような気がする、優しげな顔をじっと見つめた。


 そんな紫苑に、官吏は苦笑しながら自己紹介をする。


「わたくしはこの典薬寮てんやくりょうを預かる“典薬頭てんやくのかみ”を兼任しております“刈安守かりやすのかみ”と申します」

「あ……!」


『昨日、左大臣家にきていた、名医と評判の刈安守かりやすのかみ!』


 平安の夜は暗い。いくら灯りをふんだんにもちいている左大臣家とはいえ、昨日の夜に左大臣家にきた、彼の印象は朧気おぼろげだった。


「まだ実もなっていない、この木が蜜柑みかんの木だと、よく気がつかれましたね」

「あ、それは、その、種が左大臣家の物で……その、特別な蜜柑みかんの種だったのですけど、そのままでは駄目でしょうか?」


 刈安守かりやすのかみは、少し困った顔で、そう言っている小さな女房が、左大臣家の中でも、女主人の側仕えといった、地位の高い女房が着る装束であることに気づき、幼い女房が左大臣家の姫君に近い存在だと感づく。


「わたくしが預かり知らぬまま、陰陽寮おんみょうりょう陰陽師おんみょうじが植えてしまってね。何事かと思っていましたが、ひょっとして、この蜜柑みかんは評判の高い、左大臣家の姫君に関わりのある“特別な蜜柑みかん”なのでしょうか?」


 彼は紫苑に親切そうな顔を浮かべ、そう問いながら、蜜柑みかんの細い枝を一枝折って手渡す。


「関係あるような、ないような……」


 ここは大内裏にある大切な薬草園だ。さすがに「そのうち蜜柑狩みかんがりにこようと思っています」とは、いくら紫苑でも言いにくかった。


「おや? 額の膏薬こうやくは、どうされましたか? どこで怪我を……」

「え、大丈夫です! ほんとに! 刈安守かりやすのかみに手当して頂くほどじゃないです!」


 本当は、怪我なんてしていないので、紫苑は伸ばされた手をさけ、慌てて右手で膏薬を隠すと、袴を踏んでコケただけだと言いはり、もう片方の手で蜜柑の枝を持ち、裾を持つ女童めわらたちが慌てるのも気にせず、できるだけ速足で、その場をあとにした。


「………」

「どうかなさいましたか?」


 斧を持った下働きを連れて、待機していた典薬寮てんやくりょうの官吏が、彼に声をかけた。


 勝手に植えられた蜜柑みかんの木を切ってしまうと、刈安守かりやすのかみが言うので、陰陽師おんみょうじのろいに、おっかなびっくりながらも彼は今日の作業を手配していた。


「いや、蜜柑みかんの木はこのままに……」

「はい?」


 蜜柑みかんの皮を乾燥させた陳皮ちんぴは、漢方薬にも使うが、あっという間に大きくなって、まるで呪いのかかったように、不気味な蜜柑みかんの木は、早く切った方がよいと言ったのは、上司だったのに。


「この木には、なにか特別なものを感じたのだよ……いまね」

「はあ……」


 いつもこの蜜柑みかんの木を、不愉快そうに見ていた刈安守かりやすのかみは、打って変わって、まるで灯りがついたように機嫌よく、その場をあとにしていた。

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