第60話 小夜曲 1

 翌日の夕刻、葵の君は自分あてに届けられた、大きなプレゼントを目にすると、いまの自分の年齢ゆえに、伝えぬままの大切な気持ちを思い出し、小さな手で胸元を押さえていた。


 目の前には、中務卿なかつかさきょうから届いた、美しい螺鈿の施されたこと


 母君のことも比類のないほど美しいと思っていたが、このことは別格の美しさと、風格をそなえている。


 それから、まるで目の前のことによって、封印が解かれたように、一度は気の迷いとかき消した、彼への消えぬ恋心が胸の奥から駆けだして、心の中に溢れ出してゆく。


 いっそのこと知らないまま、気のせいにしたまま、閉じ込めて置いた方がよかったのかもしれない……。鏡に映る自分の姿は、どこから見ても子供であった。


 添えられた正式な裳着の祝辞とは別に、宿直とのゐにやってきた“伍”から手渡された手紙には、『ことを弾くことで、少しでも姫君の心が晴れ、悪い夢を見たと事件を忘れられるように願っている』と事件で受けた、わたしの心の痛手を気づかう気持ちが、男らしい硬質な書跡でつづってあった。


 もちろん二度と無茶はしないようにとの注意書きも。


 取っておきたかったが、念のために火鉢で燃やす。


 そっと手を胸元からことの上に滑らし、火鉢の中の手紙がすべて灰になって、雪のように白く積もりゆくのをじっと見ていた。


 本当は初めて会った時、あの時の彼の眼差しに、自分は生涯にただ一度、物語の中のような、深い恋に落ちていたのだろう。


 そして、彼の優しさも思いやりも、厳しさをも想い、ただただ愛おしさが増して溢れだし、これが恋愛感情というものだと、やっと気がついた。


 ほぼ大人であった前世にいた頃ですら、愛も恋も真面まともに知らぬまま、他人事よそごとの人生を送ってこられたのは、きっと貴方に出会っていなかったから。


 滑らかな陶器のような頬が、胸の内を表すように紅潮し、ついたため息は、十歳になったばかりの幼い姫君とは思えぬ、甘い憂いを含んだものだった。なぜかこみ上げた涙が一筋、頬を伝う。


『わたしが大人になったら、わたしが愛した貴方は、わたしを愛してくれますか?』


 葵の君はことに頬を寄せ、心の中でそう呟いてみる。貴方への想いをいつか伝え、幸せになれる日がくるといいのに……。


 まぶたを閉じて静寂の中、そっとことにもたれた。


「まあ、これは“螺鈿らでんの君”ではありませんか!!」

「ら、ら、螺鈿らでんの君?! 母君?!」


 葵の君は、ことから素早く体を起こし、突然やってきて大仰に驚いている母君の声を聞き返す。常に上品な母君が大きな声を出すなんて、一体どうしたんだろう?


 葵の君は驚いて、立ったままことを凝視する母君を仰ぎ見る。


「これは、代々の帝が愛用されていた国の宝であり、中務卿なかつかさきょうが、臣下に降りることが決定した折に皇子であった証にと、先帝が特別なおはからいで、下賜されたことです」


 一息にそう言った母君は、まるで吸い寄せられるように、ことの側に座り込む。


中務卿なかつかさきょうの母君であった更衣は、あの方を産み落としてすぐに身罷みまられたゆえ、先帝も気がかりであらっしゃったのでしょう……」

「そんな、そのような、大切な品を頂く訳には……」


 母君はオロオロと立ったり座ったりを繰り返す姫君の紅潮した頬を見ながら、なにかを考えていらっしゃるご様子であったが、やがて口を開く。


「きっと恐ろしい出来事に巻き込まれ、仕方のないこととはいえ、尚侍ないしのかみとして内裏への出仕を勧めた、中務卿なかつかさきょうから葵の君への思いやりでしょう。これからは、一層、稽古に励まねばなりませんよ。内裏で“螺鈿らでんの君”を弾くということは、誰よりも秀でた奏者でなくてはなりませぬ」

「はい……」


 そんな国宝級のことだったんだ…いや、国宝だ、完全に国宝ですやん!


『不釣り合い』


 そんな言葉が、東京証券取引所のサークルに浮かぶ、株価のように光りながら、脳内をグルグルと回る。


 その日の母君の目は、常にないほどに座り、葵の君は数刻“螺鈿らでんの君”の蘊蓄うんちくを拝聴するはめになった。


 母君が内親王時代に、どんなに欲しがっても、同じような品を探すのは難しく、諦めて我慢していたらしい。そんなに欲しかったのかと、葵の君は少しおかしかった。


『目の色が変わっている』


 天然のお姫様で、マリー・アントワネットそこのけの母君が、我慢したことがあったなんて! 少し感動するよね!


 母君に手本を弾いて欲しいと、さりげなく“螺鈿らでんの君”が弾けるように勧めると、少しとまどってから、母君は嬉しそうに数曲演奏し、葵の君は美しい音色にウットリと耳を傾けていた。


 母君のさすがの腕前に、ことも喜んでいる気がする。紫苑や他の女房たちも物陰で、しっかりと聞き入っていた。


 やがて母君は、再び裳着もぎ十二単じゅうにひとえを縫うべく姿を消す。母君はこのところ、母屋でわたしの《じゅうにひとえ》にかかりっきりで申し訳ないが、抜け出すのには好都合だった訳で……。


 しかし今日は、このことの話を聞きつけて、いても立ってもおられず、わざわざ足を延ばしたらしい。


 ひとりになった葵の君は、どこかぼんやりと、普通の姫君のように、ことを横に置いたまま、脇息にもたれて御簾みす越しに庭をながめる。


 いつの間にか空からは大きな牡丹雪。


 気を紛らわすように、少し怖いと我儘わがままを言って、篝火を増やしてもらい、ライトアップされたような、夜の闇に浮かび上がっている、庭に目を凝らして紅葉もみじの葉を探して見るが、もちろん枝しかない。


 やがて春がきて桜の花が散る頃、いよいよわたしは内裏に出仕して、光源氏とも対峙しなくてはならないのだ。数年後の悲劇を避けるため、この件だけは避ける訳にも、負ける訳にもいかない。


 いまは確か六歳になったはず。アレと結婚させられたのは何歳だったっけ? 十五、十六……あと五~六年先か。


 確か前世でも十六歳で結婚できた記憶が……。


 わたし的には早いけど、この時代では十三歳から結婚できるし、いまなら十六歳でも結構、遅いよね。なんなら、それよりみなさん割と結婚早いみたいだし。(兄君とか)


 彼女はしばらくして、不意に頭の中に浮かんだ考えに目を大きく見開く。脳内には巨大なエクスクラメーション・マーク!


『ちょっと待って! 十三歳で結婚してもいいなら、わたしが十三歳になったら中務卿なかつかさきょうに、プロポーズしてもいい?! いいよね?! だって、いまのわたしは平安時代に生きている訳だし!! ガチの合法行為!!』


 光源氏との迫る結婚に怯えていたくせに、どうして思いつかなかったんだろう?!

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