第171話 訪れた災厄 2

 帝と左大臣の密談を、密かに床下で聞いていた千歳ちとせは、東宮に知らせるべく、再び東宮の元へ走った。


「なんと言うことを……」


 千歳ちとせの知らせを武道場で聞いた東宮は絶句していた。彼とて尚侍ないしのかみを、ずっと恋焦がれてはいるが、それでも尚侍ないしのかみが大切であるがゆえに、中務卿なかつかさきょうと仲睦まじくされているご様子に、近くで見守ることができるだけで幸せだと、そう自分に言い聞かせ、決して表には出さぬように努めていた。


「どうかなさいましたか?」

「いや……」


 別当の問いかけに、東宮は、そう返事を返しながら、とにかく、なんとしてでも離縁届を手に入れ、話を早く関白に知らせねばと、素早くふみをしたためると、関白のやかたに使いを走らせた。


 しかしその日の夜、その情報を手に入れたのは、実は東宮だけではなく、すべての殿上人たちは、その災厄からは逃れられなかったのである。



 帝は満足げに左大臣が署名した料紙を、しばらくながめていたが、それを文箱に大切にしまおうとしていると、いつものように苅安守かりやすのかみが、典薬寮の官吏と共にやってきた。


 苅安守かりやすのかみは、様子のおかしい帝と、いつも御簾内にいるはずの三条の大宮の気配もない、人払いされた後涼殿こうろうでんを不審に思い、いつもの薬といつわって、自白効果と強い幻覚作用のある薬を飲ませると、帝はあっという間に、うつらうつら居眠りをしだす。


 すました顔の彼は、連れてきた官吏に、帝の様子がおかしいので、後宮にも置いていない、貴重な薬を典薬寮に取りに戻るように言いつけた。官吏が慌てて姿を消したので、部屋の中は二人きりになる。


 苅安守かりやすのかみは、ぼんやりした様子の帝の手から、料紙を取り上げて中身を確かめ、帝の考えをうまく聞き出してから、少し思案していた。


 彼は、ここ二年、尚侍ないしのかみのことを常に狙い、姫君の好む薫り、趣味や嗜好、さまざまな情報を集めていたが、姫君は警備の厳重な後宮で、ほとんどの時を過ごしているために、顔を会わす機会はあったが、さらう隙が見当たらず、中務卿なかつかさきょうを囮にしようとしても、彼の周囲はいつも大勢の人目があるし、頑健な上に、あまりにも不規則な生活を送っているので、薬を盛る機会すらなかった。


 しかしながら、光る君が内裏に帰ったことで、帝も落ち着きを取り戻し、尚侍ないしのかみがお育ちになったので、そろそろ三条の大宮も左大臣家に帰るであろう。そうすれば、尚侍ないしのかみもいままでとは違い、中務卿なかつかさきょうのやかたとの往復も増えると、彼は楽しみにしていたのだ。(なにせあそこは人手が少ない。)


 それがここにきて、この尚侍ないしのかみの離縁状である。


「役に立たぬ上に、いらぬことばかりしてくれる……」


 苅安守かりやすのかみは、帝に向かって苛立たし気に、そう言いながら舌打ちをした。帝の第二皇子への執着を見ていると、第二皇子が臣下に降りて、尚侍ないしのかみと再婚し、六条院などという四町もある大邸宅の奥で暮らすこととなれば、いまと変わらぬ状態になってしまうに違いなかった。


 料紙を手にさまざまなことを考えていた彼は、ふとひとつの考えが頭にひらめいて、自分で自分を馬鹿だと思った。この内裏の奥の後宮から尚侍ないしのかみを引っ張り出す方法を、今更ながら思いついたのである。


 薄暗い後涼殿こうろうでんには燈台がひとつ。彼はつぎ足し用の油を見つけると、それを薬箱に隠して部屋を下がり、こっそりと後涼殿こうろうでんの裏に回り、警部の武官を襲って易々やすやすと息の根を止める。


 それから薬箱から継ぎ足し用の油を取り出し、人気のない庭に面した後涼殿こうろうでんの孫庇に油をまくと、手にしていた例の離縁状を篝火かがりびにかざして、火を移して油にまみれた孫庇に放り投げ、ついでに篝火かがりびを自分が仕留めた武官に倒してから姿を消した。


 朝からの強風に吹かれ、火は後涼殿こうろうでんの内側に向かって、勢いよく舞い上がり出す。


 煙に気がついた大勢の武官が、人払いのされていた後涼殿こうろうでんに突入し、なんとか帝を助け出す中、大勢の女官や女房は逃げ惑う。風にあおられて内裏には、あっという間に炎と煙が広がってゆき、後宮は混乱の渦になる。


 典薬寮てんやくりょうの自分の曹司に戻ろうとしている(かに見せかけた)苅安守かりやすのかみは、赤々と燃える炎に包まれた内裏を振りかえり、独り言をつぶやく。


「今日はよい風が吹いているね……」


 仰いだ不気味な色の空には、桜と橘の枝が強風にあおられて、大きく揺れている。


 内裏が燃えて焼失し、里内裏(女御の実家の仮の内裏)になれば、尚侍ないしのかみさらう機会が増えると思った彼は、なんのためらいもなく、内裏に火を放ったのだ。


 尚侍ないしのかみが住んでいる登華殿とうかでんは、後涼殿こうろうでんから最も遠い。その上、身分からいって、帝の次に優先されるであろう姫君は必ず助かると、彼は踏んでいた。


 彼は大内裏中の建物から武官や文官、すべての官吏たちが、内裏に飛び出してゆく大騒ぎを見ながら、なにか考えている様子であった。


 その頃、蔵人所くろうどどころの別当は、赤々と炎が燃える内裏に戻ろうとする東宮を、慌てて押しとどめていた。


「母君や内親王方が!! 尚侍ないしのかみが!」

「皆様は必ずやわたくしが助け出してきます! それよりも東宮は避難して下さい!」


 帝がどうなっているか分からないいま、東宮を内裏に戻すなど、あってはならなかった。それでも無理やりに内裏に戻ろうとする東宮に「失礼!!」そう言って、当て身をして気絶させた別当は、横で心配そうにしている千歳ちとせ頭中将とうのちゅうじょうに加え、数名の者を呼び、東宮をすぐに避難させるように取り計らう。


「東宮を早く右大臣のやかた……いや、関白のやかたに! あそこが一番近い! 頭中将とうのちゅうじょうが先導せよ!! 他の者も、必ずや東宮を、お守りするように!!」


 頭中将とうのちゅうじょうの騎馬を先頭に、気を失った東宮を乗せた馬に千歳ちとせが乗ると、数頭の騎馬の列が大内裏を駆け抜け出し、一気に関白のやかたまで走り抜けて、彼らの姿は内裏から消えた。


 関白のやかたの門番たちは、いきなりのことに驚いて、一旦、彼らを止めたが、関白の孫である頭中将とうのちゅうじょうの顔を確認して、慌てて「開門せよ!」そう叫び、巨大な門を中から開ける。


 母君と妹君が心配な頭中将とうのちゅうじょうは、関白に急いで訳を話して東宮を託すと、内裏に引き返した。


「一体、なにがございましたの?!」

「おお、よいところへ! 内裏で火災が発生し、東宮が避難されていらっしゃった。急なことであるが、邸内の差配を頼みます! わたしは葵の上や大宮を、ここに迎えに行く手配をします!」


 大変な騒ぎに驚いて、母屋までやってきた六条御息所ろくじょうのみやすどころは、関白と数人の貴族が、気を失った東宮を運び込む横で、不安げな表情で内裏の方角に目をやった。


 真夜中だというのに、空は赤々とした炎で照らし出され、閉められつつある門の隙間から、大勢の牛車や人々が、大路を行くのが見えた。


 御息所みやすどころは姫宮を乳母に任せると、女房たちに東宮を北の対にて、すぐにお休みいただけるように、手配をしてから、右大臣家に東宮の御無事を知らせる使者を向かわせる。


 そして大宮と姫君が、いつこちらへきてもよいように、西の対を用意させていたが、東宮がいらっしゃるので、葵の上は内裏から一番近いこちらに、一旦はいらしても、中務卿なかつかさきょうのやかたに向かわれるかも知れぬとも思う。


 あそこは、もともと女房の数が手薄である。後宮から避難してきた女房たちも、すぐには動けぬことを見越し、葵の上がお困りになるだろうと、二十名ほどの女房を選ぶと、さまざまな最低限の品を持たせ、混雑する大路を避けて、中務卿なかつかさきょうのやかたに警備のさむらいをつけた上で、自分からの書状を持たせて向かわせた。


 その頃、左大臣は自分のやかたの中で、六条御息所ろくじょうのみやすどころと同じように空を見上げ、内裏の大火災の知らせを聞くと、両手で顔を覆ってうずくまり、そのままブルブルと震えていた。


「仏罰が、仏罰が下った……わたくしが御仏みほとけ御告おつげを無碍むげにしたばかりに、仏罰が下ったのだ……」


 周囲の女房や家人はとまどった表情で、それでも大宮や姫君のために牛車を用意せねばと、左大臣に声をかけていたが、関白の腹心である家人の白蓮びゃくれんが馬で乗りつけて、すでに避難の手配は、関白と頭中将とうのちゅうじょうが、取り仕切っていると言うので、一同は一様に安堵したが、彼が懐から取り出し、左大臣の頭上に高々と上げた、『処分申し渡し状』、そう書かれた書状に驚いた。


 白蓮びゃくれんは、感情のない声で、関白から左大臣への『永蟄居えいちっきょ(※永久に出仕と外出を禁じ、謹慎させること)』を命じる内容を読み上げてから、最後に一言をつけ足す。


「理由はお判りでしょうが、大宮と姫君は避難されても、こちらにはお帰りになりません」


 彼は呆然とした表情で、目の前に広げられた、処分申し渡し状を見上げている左大臣に、書状を手渡し、関白から追って沙汰があるまで、左大臣を、やかたから決して出してはならぬと、やかたの警備の長に命じ、女房たちには大宮と姫君の身の回りの品を、関白のやかたにすべて移すよう命じると、その場から再び馬に乗って姿を消し、左大臣は自分が招いた(そう思い込んでいる)とり返しのつかない惨状を、大いに後悔しながら、大宮と姫君が無事であるようにと、ただただ涙を流し、神仏にふたりの無事を祈っていた。


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