第172話 訪れた災厄 3

 大内裏から内裏につながる正面、南側にある建礼門けんれいもんには、弘徽殿女御こきでんのにょうごや他の女御方の実家から、避難のために多くの牛車や人が詰めかけ、ひしめき合っていた。


 東宮を避難させてから、清涼殿の方角に向かおうとしていた蔵人所くろうどどころの別当に、混乱を収拾させるべく、検非違使けびいしの別当が、どう誘導したものかと、馬に乗ったまま、たずねにきたので、彼は風向きを見て、「東の建春門けんしゅんもんに!」そう叫ぶと、烏帽子を投げ捨て、火の海になりつつある清涼殿の方角に走って消えた。


 関白が手配した摂関家の唐車も、建礼門けんれいもんに向かっていたが、馬を返して登華殿とうかでんに向かう途中の頭中将とうのちゅうじょうに、「火の強い西側を避けて、東回りで建礼門けんれいもんを通り抜け、北側にある朔平門さくへいもんまで回れ!」そう言われ、さむらいや供人たちは、急いで朔平門さくへいもんに向かうが、あいにくと牛車のことゆえ、歩みは遅かった。


 その頃、清涼殿に、なんとかたどりついた蔵人所の別当は、気を失ったままの帝を抱えた武官と、幼い内親王方を連れて、恐怖のあまりに、渡殿に立ち尽くしていた弘徽殿女御こきでんのにょうごの姿を見つけ、東にある建春門けんしゅんもんから外に、お連れするように指示を出しながら、他の殿舎からの報告を次々と受けていた。


 他の后妃方や女房など、大勢の後宮に住む人々も、火の上がっている西側を避け、火の気のない東の建春門けんしゅんもんに伸びる渡殿を、それぞれに荷物を抱え、ごったがえしながら進んでいる様子である。


 中務卿なかつかさきょうは、頭中将とうのちゅうじょうより先に、やはり騎馬にて、登華殿とうかでんに向かうべく、同じように北の朔平門さくへいもんに向かっていたが、そのような理由で、湧き出すような混乱した人々や、出迎えの牛車の波に道を塞がれて足止めを食らい、あとからやってきた頭中将とうのちゅうじょうと、しばらくそこから前に進めずにいた。


 真白の陰陽師たちも、この大火に手は尽くしていたが、内裏から炎が外に広がらぬようにするのが精いっぱいで、外に出られなくなった炎は、内裏中を這いずり、まるで火柱のように、空に登ってゆく。


 やがて人気がなくなり、火柱のように燃え上がっていた後涼殿の屋根が、メリメリと音を立てながら焼け落ちて、落ちた炎は、登華殿とうかでんに向かって伸びてゆく。苅安守かりやすのかみが放った火は、思った以上に早く内裏に広がっていた。


 蔵人所の別当は、職務上、帝につき添わねばならず、すでに中からは、登華殿とうかでんに向かえぬと報告を受け、尚侍ないしのかみと大宮の心配をしながら、ようやく宜陽門ぎようもんを抜け、建春門けんしゅんもんを出る。


 そこには検非違使たちに誘導されて、待機していた右大臣家や他の后妃方の実家が差し回した、牛車や大勢の避難してきた人々が集まっていた。別当は、気を失った帝や、不安げな后妃方を、それぞれの牛車に乗せて、右大臣家や実家に向かうのを忙しく送り出したり、内裏からつき添う者を、手配したりしていた。


 大方の后妃たちが立ち去り、人並みが途絶える中、馬に乗った頭中将とうのちゅうじょう中務卿なかつかさきょうが、ようやく駆け抜けてゆき、大きな唐車があとを、ノソノソと追いかけているのが向こうに見え、彼は後宮の方を振り返り、まだ、登華殿とうかでんの方角からは、炎が上がっていないのを確認すると、少し安堵した。


「牛車の手配もできぬのですか?!」


 そんな女の叫び声に、別当は振り返る。見るとそれは、第二皇子、光る君に仕える女房であった。うしろには皇子につき添う女房たち。


『あれは確か、第二皇子のところの女房装束……そう言えば、第二皇子が帰ってきていた!!』


「どうか二条院まで牛車をお願いします! どうか……!」


 あまりの出来事に、第二皇子の存在を忘れていた別当を見つけた女房は、すかさず歩み寄って、手を合わせて懇願する。


「二条院……確か以前、御息所みやすどころの母君が暮らしていらしたと記憶するが……」

「いまは刈安守かりやすのかみがお住まいですが、桐壷御息所きりつぼのみやすどころとは、母君を通じて縁続きでいらっしゃいますので、そちらに向かいます。光る君は二条院に避難したと、帝にもそうお伝え下さい」

「ほう……」


 そんな話は聞いたことがなかったが、いまは亡き、桐壷御息所きりつぼのみやすどころの側仕えであった女房が言うのであれば、そうなのであろうと別当は思った。


 第二皇子を、帝が避難された右大臣家に連れてゆくのも、揉めごとが起きるのは目に見えているし、かといって、唯一の外戚である御息所みやすどころの母君のやかたは遠く、混乱したいまの状況的に、あまり余計な人手をさきたくないと思った彼は、言われるままに、どこからか牛車を用意すると、刈安守かりやすのかみが住む二条院に向かわせ、皇子と女房たちを送り届けたあと、すぐに折り返して戻るように同行する官吏に伝えた。


 女房は、いつぞやの女童めわら事件の話の時に、刈安守かりやすのかみが二条院に引っ越した話を、宮中の女房とうわさしていた女で、すっかり彼と光る君が縁続きだと、思い込んでいたのである。


 桐壷御息所きりつぼのみやすどころのご実家は京から離れているし、混乱が収まれば、帝がすぐにでも迎えを出して下さると思ったので、刈安守かりやすのかみのことを覚えていてよかった。


 女房は心からそう思い、皇子につき添って牛車に乗り込むと、ほっとしながら遠くなる内裏を小窓から見て、なぐさめるように光る君に声をかけた。


「皇子、大丈夫ですよ、刈安守かりやすのかみは、御息所みやすどころと縁続きな上に、常日頃から温厚質実おんこうしつじつなお人柄と評判の方。不自由はあるかと思いますが、温かく迎えて下さるでしょうから、そちらで帝からのご連絡を待ちましょう」

「そう……葵の上は大丈夫だろうか?」


 あの美しいお顔に、火傷やけどでもしてしまったら……そんな想像をして、すべての美しい物を愛し、ままならぬ恋にのめり込む、そんな未来を易々と想像できる、運命の女神の理想であった、御年八歳の光る君は、葵の上にまことの恋をしている(と思っている)彼は、牛車の中でゾッとして、数珠を手に震えていた。


 帝も彼も気づかぬことながら、ふたりが本質的に執着しているのは、大宮に瓜ふたつの葵の上の『お顔』だけであったが、ふたりには、それでもそれは切ない恋であり、ままならぬまことの愛であった。



「兄の刈安守かりやすのかみはまだ帰っておりませず……」


 二条院で静かに暮らしていたつるばみの君は、いきなりやってきた第二皇子の一行に驚いたが、彼についてきた女房から、自分たちと御息所みやすどころが縁続きだと、年老いた女房が聞いたと言うので、あの賢い兄君もお忘れになるくらい、遠い『縁』なのだろうとは思ったが、心根の優しい彼女は、幼い皇子を気の毒に思い、こんな時だからと、「少ない使用人で行き届かぬとは思いますが……」そう言って、彼らを、やかたに迎え入れていた。


 まだあどけなさが残る美しい皇子に、兄君が用意して下さっていた十二単じゅうにひとえを着て、つるばみの君は挨拶を済ませると、自分が暮らす母屋を明け渡し、いつもは兄君が暮らす東の対に下がる。


 年老いた女房が、「火事は大内裏には、広がってはおらぬとうかがったので、兄君はご無事だと思いますが、内裏がこのような大火事では、ご多忙で帰ることはできぬでしょう」そう言うので、兄君のことがとても心配ではあったが、少し安心してあとを任せてから、薬湯を飲んで横たわり、いつものように深い眠りについた。重い十二単じゅうにひとえを着て、邸内を歩き回ったせいか、彼女は酷く疲れてしまったのだ。


「…………」


 母屋に残った光る君は、自分についてきた女房たちが、「なんと人手のないやかたかしら」そう話をする中、自分に挨拶をしていた、低い身分ながらも、年の割にどことなく可愛らしく、なによりもいまは亡き母君の儚げなお姿と、よく似た雰囲気のつるばみの君のことを考えていたが、ここが、母君が入内前にお暮しであったやかただと思うと、より一層しんみりとした気持ちで、霞がかかったような静かな庭を、ゆっくりながめてから、まだあるじの帰らぬ二条院で、眠りについていた。

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