第173話 訪れた災厄 4 

〈 その頃の登華殿とうかでん 〉


 登華殿とうかでんでは、殿舎の前に出た大宮が、螺鈿の君を腕に抱え、朧月夜おぼろづきよの君を抱いた乳母や女房たちと困った顔で、ただただオロオロしていらした。

 まだ火の手はたどり着いてはいないが、焦げ臭い匂いは強くなる一方であるし、遠くに見える清涼殿のあたりの建物が落ちたせいか、殿舎自体が時々大きく揺れている。


「ああ、一体どうしたらよいの?!」


 大宮が真っ青なお顔で、そう言いながら震えていらっしゃると、登華殿とうかでんの奥から、中庭を伝って東に逃げられないか、見に行っていた葵の上の大きな声が、殿舎の中から聞こえる。


「母君、地面をかなり歩かねばなりませんが、庭から北側の玄輝門げんきもんを抜けて、朔平門さくへいもんから外に出て、東に向かって逃げて下さい! 他はもう無理です! みな、早く庭から裏手の、玄輝門げんきもんへ急ぎなさい! 早く母君をお連れして!」

「大宮、葵の上のおっしゃる通りに!」


「葵の上もお早く!」

貞観殿じょうがんでんの様子を見てから、すぐに向かいます!」


 葵の上は遠くから聞こえる、ごうごうとした炎の音に負けぬよう、そう大声で返事をした。


 大宮は心配そうに何度も振り返りながら、伸ばした手も見えない、それくらい立ち込めた煙の向こうに消えてゆく。


 葵の上も御神刀を取りに行ってから、心配して自分の側を離れない“ふーちゃん”が入った鳥籠を持っている紫苑を連れて、自分も続いて渡殿に出ようとする。


 が、その時、また建物が大きく揺れて、ふたりの上に大きな厨子棚が、ふたりに向かって倒れてきた。


「きゃ――!!」

「紫苑! 大丈夫?!」


 もちろん葵の上は、素早く厨子棚を回避したが、悲鳴を上げた紫苑はそうはいかなかった。逃げ損ねた彼女の腰から下が、重い厨子棚に挟まっている。


 棚を動かそうにも、さすがに自分だけでは動かせず、他の女房たちは庭に降りて見えなくなっているし、もう炎が迫っている。呼び戻す訳にも行かなかった。


「姫君! わ、わたしを置いて逃げて下さい!」

「そんなことできる訳ないでしょう!」


 葵の上はそう言って、しばらく大きな厨子棚を必死に、持ち上げようとしていたが、ふと思い出して、すぐ戻ると言うと、内侍司ないししが入っている貞観殿じょうがんでんに、きかぬ視界の中、記憶を頼りに走りこむ。


 皇后宮職こうごうぐうしき内侍司ないししの管理する主な蔵は、桐壷の向こう、かなり東側にあるため、貞観殿じょうがんでんにあった宝物や道具立てと一緒に、彼らは東側から避難していて、すでに中はほとんど空であったが、案の定というか、女官たちに持て余されたらしき『深緋こきひ』が、ポツンと取り残されていた。


 火の手が清涼殿の方から上がったと一報があり、荷物の持ち出しの指示をしていた時、皇后宮職こうごうぐうしきも手一杯の様子だったので、葵の上が、この大槍を持って逃げて欲しいと言うと、露骨に女官たちは嫌そうな顔をしていた。それで先程も母君たちを先に行かせて、念のため確認しに行こうと、あとに残ったのだった。


「やっぱり置いて逃げていたな……」


『今回は助かったケドね――!!』


 葵の上は心の中でそう叫んで、火事場のなんとやら……的に力が出たのか、地味な筋トレの成果か、なんとか一丈(十尺/約3m)もある大槍を持って、ヨロヨロとした足取りで、再び紫苑の側に戻ると、厨子棚と床の間に挟まっている彼女を励ましながら、女房たちのものであろう石の枕を何個か持ってきて、不思議そうな顔をしている紫苑の前に積むと、その上に“深緋こきひ”の柄を乗せて、柄の先を倒れている厨子棚の奥に突っ込んだ。


「せ――のっ!」


 かけ声と共に厨子と反対側の鞘のついた鉾の方に、全体重をかける。彼女は『てこの原理』を使って、紫苑を救い出すことに成功した。帝の大切な槍は、少し軋んで痛んだような気もしたが。


「早く隙間から出て! 大丈夫?!」

「姫君! 姫君――!!」


 幸いなことに、かさばった十二単じゅうにひとえがクッションになったのか、厨子から這い出して、自分にしがみついて泣いている紫苑に怪我はないようだ。


「と、とにかく、早く逃げましょう!」

「は、はい!」


 紫苑は再び鳥籠を持ち、葵の上は再びヨロヨロと“深緋こきひ”を持ち上げて、殿舎から逃げようとすると、遂に耐えかねたのか、ぐしゃりと渡殿の上に屋根が落ちて出入口を塞がれる。もう夜更けであったので、格子はすべて閉まっており、格子を開けて逃げようにも、建物自体が揺れで歪んでしまって、まったく開こうとしない。


『ヤバイ! ヤバイ! 超ヤバイ!』


「ああ、わたしを助けて頂いたばかりに!」

「大丈夫、大丈夫だから!」


 泣きじゃくる紫苑に声をかけながら、葵の上は、頭の中を必死でかき回したが、なにも思い浮かばず、その間に裏手の中庭からは、チラチラと炎まで見えだした。


『こんなことなら、かっこつけずに、あの料紙の束を隠して、持っておけばよかった! こんなことなら仕事にかまけず、もっと中務卿とデートしとけばよかった! こんなことなら、ケーキバイキングを断るんじゃなかった! なにが健康管理だ! 死んだらなんにも食べられないのに! わたしが馬鹿だった!』


 運命の女神との決別で、大きな安心を手に入れたにも関わらず、こんなところで死んでしまうのかと、葵の上は煙が充満してゆく、閉じ込められた殿舎の中で、自分にしがみついたまま気を失った紫苑を抱きしめて、前世と今生の後悔で頭を一杯にし、奥歯を噛みしめて、おなじみの言葉を叫んだ。


「神様、助けて――!」


 やがて孫庇に移った炎が、不気味な色で大槍の柄を照らし出し、紫苑をかばうように彼女の上に覆い被さって、やはり現れない神様と、頑張っても頑張っても押し寄せる、そんな呪われた自分の運命に腹を立てて、一瞬、いまの自分が姫君であることを忘れた彼女は叫んだ。


「チキショ――!」


 葵の上は、なるべく煙を吸い込まないように床に伏せると、煙に覆われて床に転がっていた“深緋こきひ”が目に入る。この炎では、“深緋こきひ”も燃えてしまうだろう。


『煙と共に 灰左様なら……』


 例の辞世の句が頭をよぎる。


『“深緋こきひ”は線香より、めちゃ大きいけどね……』


 こんな悲惨な状況なのに、葵の上は、葵は、そんなしょうもないことを思ってから、少しクスっと笑って、源将仁みなもとのまさひと様と出会えた幸せと、こんな風にお別れするのを、とても残念に思いながら、段々と意識が薄れてゆくのを感じた。


「なんでこんなことになったんだろう……」


 葵の上は、せめて漆喰の壁がある塗籠に逃げ込んでおけばよかった……今更、そんなことを思いつきながら、闇と炎が作り出した赤と黒の光と煙の中で、いつの間にか紫苑と一緒に床に倒れていた。せっかく光源氏を振り切れそうなのに、本来の物語から離れたのがよくなかったのか、運命の女神の天罰なのか、どうやら自分の二度目の人生は、たった十二歳でもう最後の店じまいなようだった。


 薄れてゆく意識の中、最後に目に入ったのは、“深緋こきひ”が不思議な色の煙に包まれる姿……。

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