第229話 修羅場 2

 大変な騒ぎが巻き起こっている右大臣のやかたの庭の片隅に、愛宕郡おたぎごうりの葬場で、天高く上がって行ったはずの桐壷更衣きりつぼのこうい、あるいはほんの短い間、桐壷御息所きりつぼのみやすどころと呼ばれた女の魂が、尚侍ないしのかみを血走ったまなこで憎々し気に見つめながら、静かに潜んでいた。


 彼女は浄土に旅立つでもなく、旅立てる訳もなく、あれから二年の間に知った真実で、尚侍ないしのかみへ抱いた憎しみと怒りで、心を一杯にしていた。


 桐壷更衣きりつぼのこういの魂が、自分の体から離れ、彼岸ひがん此岸しがんの間を漂う存在となった時、一番初めに思ったのは、『死出の旅路もご一緒に……』そう言って、自分が守るべき国よりもたみよりも、なによりも自分を愛した帝のことではなく、最後まで哀れで惨めな存在であった自分と、光る君のことであった。


 生前、辛い思いに耐え、後宮で密かに読経に励み、毎日のように観音菩薩を拝んでいた自分は、極楽浄土に旅立てるはずであったが、いざ魂だけの存在となった時に、目の前にあったのは、先の見えぬ下に下にとくだる深く大きな穴。


 穴の前でしばらくの間、さめざめと泣き伏していたが、景色は一向に変わる気配もなく、桐壷更衣きりつぼのこういは恐る々々、穴の中をのぞいて、やがてソロソロと足を進めて降りてゆくと、以外にも先には明るい光が差していた。


『ひょっとしてあそこが極楽浄土の入口なのかしら?』


 そう思った彼女は、やや明るい心持で足を進めて、そこにたどり着くと、目の前に広がっていたのは真っ白で明るいけれど、やはりなにもない長く伸びた穴。気がつけば、自分がいつの間にか身にまとっていた天女の羽衣のように美しい十二単の裾には、小さなはすの花が歩みに合わせて、フワフワと花が開いてゆく。


『やはりここは浄土への道なのかもしれない』


 桐壷更衣きりつぼのこういは、そう思い白い道を歩きながら、あの日、後宮で偶然出会った中務卿なかつかさきょうに「先が心配でならない光る君のことで相談を……」そう話しかけたことを、つらつらと思い出していた。


 あの時、彼は少し困った顔をしていたが、結局は帝と同じようにわたくしの願いを聞いて、明日の公務の合間にうかがうと言ってくれた。


 自分の本意ではなかったが、帝に愛され皇子まで授かりながら、弘徽殿女御こきでんのにょうごをはじめ、他の后妃たちには、実家の地位がなかったばかりに、常に軽んじられ、疎ましがられることに、ただただ俯いていた哀れな自分が、帝以外の誰かに初めて叶えられた願いだった。


 御仏の御告げにより、尚侍ないしのかみの婿君と中務卿なかつかさきょうには、父君の強い願いによって入内した自分と重なる……そんな同情めいた気持ちすら持っていた。


 彼がやってくる日、尚侍ないしのかみの殿舎とは比べ物にならない小さな自分の殿舎を、女房たちに清楚な花を飾らせて、帝が用意してくれた数多い華やかな十二単じゅうにひとえではなく、入内の時に実家が用意してくれた、後宮に仕える女官たちの衣装と変わらぬような、でも帝が実に清楚で優しい貴女あなたを不思議に引き立てると褒めた質素な十二単じゅうにひとえを用意させて、ごく薄く化粧をした。


 そんな控えめな装いを整い終えて、鏡をのぞき込むと、中には他の華やかに競い合う后妃たちとは比べ物にならない、はかなくひっそりとした小さな花のような自分の姿。


 帝が「あの時の貴女あなたを見て、誰よりも愛おしいと、守りたいと思ったのです」と言い、亡くなった父君は、「そなたのあまりの儚く頼りない美しさはすべての男の理想であろう……」そう言われた女が鏡の向こうにいて、入内した頃と変わらぬ印象の自分に満足した。


 やがて彼の訪れを告げる先導の女房が現れたが、自分の女房たちが、うるさく言うのにも耳を傾けず、彼も尚侍ないしのかみとの生活に、どれほどの気苦労を抱えているのかと、そんな想像に思いをはせながら、孫庇に出て小さな庭先に咲く花をボンヤリとながめていた。


 そういえば帝と出会ったのも、こんな時であったと考えていると、やがて大勢の女房や官吏の近づく騒めきが聞こえ、「中務卿なかつかさきょういらっしゃいました。お早く御簾中に……」女房が慌てた声で言う。


 急かされるままに、御簾に入るか入らないか、そんな時に彼が桐壷に現れて、視線が一瞬だけ交差して……男の醜い首のけがれに安堵した。あのように欠けた存在であれば、元皇子であろうと、摂関家をうしろ立てに持つ大公卿だいくぎょうであろうと、気おくれする必要はなかったから。余程、前世の行いが悪かったのであろうと思った。


 このような存在でも、元皇子であれば、臣下に降りても栄誉が手に入るのだ。第一皇子よりも誰よりも、尊く美しいわたくしの光る君ならば、たとえ臣下に降りても、なんの心配もないと、御簾越しに彼に視線を送りながら、なおざりに聞くとはなしに、彼の生い立ちを聞いていた。


 やがて彼を急かす官吏が現れ、「誠に失礼なことながら……」そう言い置いて、あの男は帰ってゆこうとして、わたくしは消え入りそうな声で直接に礼を述べてから、秘密を分け合うように、そっと最後にひと言つけ加えた。彼がなによりも欲しているであろう言葉を。


「元皇子である貴方様あなたさまの御苦労を、誰よりもお察しいたします……」

「……過ぎたるお言葉、これからも臣下の務めを果たしてゆく所存にございます」


 彼は帝と違いそんな風に、わたくしが特別に気を遣ってあげたのに、それからも彼は、他の后妃たちと比べて、わたくしを特別扱いすることもなく、特別な配慮を手配することもなく、同じように扱った。けがれた存在には、わたくしの気遣いは汲み取れなかったのだと思っていた……。


 しかし思えば、そんな彼の態度は、きっと尚侍ないしのかみの意向で、表向きは非の打ちどころのないあの女からの、劣った血筋のわたくしに対する悪意であったのだろう。


 桐壷更衣きりつぼのこういは悔しさに、唇を血が流れるほどぐっとかみしめて、それからまた奥の方に歩いて行った。

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