第230話 修羅場 3

 実はその時、中務卿なかつかさきょうが、弘徽殿女御こきでんのにょうごですら配慮せざる負えない地位であるにも関わらず、更衣でしかなかった彼女の垣間見える横柄な態度に、徹頭徹尾てっとうてつび一貫した姿勢で、礼を崩さなかったのは、帝の寵愛への忖度そんたくではなく、彼女の作り物めいた、どこか不可解なほどの無垢なはかなさへの警戒感であった。


 たとえ父君の悲願で入内したとはいえ、次期中宮でさえも当然である生まれの『葵の上』や、『弘徽殿女御こきでんのにょうご』とまではゆかずとも、自分の亡き母のように、偶然お手つきとなった女官や女房が、偶発的に更衣の地位に就いたのとは違い、桐壷更衣きりつぼのこういは、少なくとも最低限の后妃たる教育を、当然納めているはずであった。


 実際、弘徽殿女御こきでんのにょうごなどは、ご機嫌うかがいにきた右大臣が逃げ帰るほどの、気性の激しい性格ではあるが、葵の上には及ばずとも、そこいらの公達きんだち風情が太刀打ちできぬほどの知識や見識、教養を修めているし、決して表立って身分の上下や血縁、門閥の間に引かれた境界線は、政治的な変動がない限りは犯さない。


 そんな女御にょうごは元皇子であり、中務卿なかつかさきょうという地位もあるが、帝の同腹の妹である三条の大宮が、うしろ盾であると公言している自分に対して、元内親王の顔を潰さぬよう、内心はともかく表向きは丁寧な対応を取る。


 それは後宮に入り、后妃となるべく育った姫君たちが備えている、本能に近いほどに教え込まれた、尊き帝の系譜に対する徹底的な身分に対する序列と、礼儀をおもんばかる当然の教育の賜物たまものであり、後宮で帝の寵愛が薄くとも、その先、后妃のひしめく後宮で円満に暮らす己の保身のための、冷静で常識的な身の処し方でもある。


 にもかかわらず、桐壺更衣きりつぼのこういの後宮での振舞いや気遣いは、哀れなほどにお粗末で、その新鮮さゆえに帝が愛することになったのであろうが、それゆえに他の后妃たちから、日々、常に叱責を受けるはめになっていた。


 彼女の行動は、それほど奇妙であまりにチグハグだった。それが帝とは違い、元皇子として後宮に暮らす后妃たちの教育を受けた心得た暮らしと、外の世界に暮らす姫君たちの極平凡な暮らしのふたつを知る彼に、強い警戒心を持たせたのである。


 そんな桐壺更衣きりつぼのこういの行動は、彼女が「女が出過ぎた教養を持つなど恥ずべき存在」「后妃として入内をする姫君は、妃としての教養を収めるべき存在」その相反あいはん言葉を天秤にかけて、彼女が厳しい教育を避け、やすき普通の姫君の生活に流れたことがひとつ。


 もうひとつは、彼女が例の『運命の女神の理想の女性像』たる存在であったことに遠因があり、ゆえに、その“常識外れ”が目立ち過ぎた結果であったが、桐壷更衣きりつぼのこういは自身の受けた不遇が、自分の振舞いの延長線上にあったことなど、生涯、否、亡くなってからも思い当たることはなかった。


 そんな彼女の生前の後宮での暗い日々の中に、突如として現れたのが尚侍ないしのかみであった。未来の東宮妃となるべくお育ちの摂関家の姫君。運命に翻弄されて、けがれを負った元皇子と結ばれることになった不幸で不遇な姫君。尚侍ないしのかみとして、あろうことか、女官吏として出仕なさることになった姫君。


 たとえ自分とはかけ離れた恵まれた存在でも、それを考えるだけで、同情できる方だった。豪華な殿舎でさめざめと泣いてお暮しになるのだろうと思うと、仲良くなれる方だと想像していた。優しい方だとお聞きして、親しくなれる日を心待ちにしていた。


 お会いできる日を、仲良くできる日を思えば、息をするのも忘れるほどに幸せな気分になり、そしてなによりも彼女には、自分の大切な光る君が執着していた。帝ですら光る君の笑顔ほどに尊いものはないと言っていたわたくしの皇子が。


 なのに……なのにあの女は、わたくしの光る君に興味は示さなくて、無礼ですらあった。でも帝が弘徽殿女御こきでんのにょうごと同じように叱ってくれる。そう思っていたのに、帝も周囲も尚侍ないしのかみを諭すことすらしなかった。


尚侍ないしのかみなんて大嫌い!! わきまえぬことをしても賞賛ばかり!! いつもわたしを上から憐れむあの女!! 誰よりやましい存在なのに、血筋だけで堂々と輝く女!!」


 桐壷更衣きりつぼのこういは生まれて初めて、自分の本音を吐き捨てるように叫びながら、歩いていると、どこか知っているような光景が、穴の横に突然現れた格子の向こうに広がっていた。


 格子の向こうには小さなつぼね。一心不乱に文机に向かう、女官らしき女のうしろ姿。周りには書き損じたらしい料紙が散らばっている。


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