第231話 修羅場 4

 桐壷更衣きりつぼのこういが息を潜めて中を見ていると、やがて女官はなにかを書き終えた様子で、満足げな顔をしてから、硯箱を片づけ料紙の束を持って姿を消した。ちらりと見えた硯箱の中には、光る君が帝からたまわったような素晴らしい筆。


 一陣の風が吹き、周囲に散らばっていた書き損じらしき料紙が舞い上がる。なぜか酷く気になって、そっと格子を上げると、何枚かの料紙がこちらに舞い込んできた。


 目を通して驚きの余り、その場に座り込んだ。散らばっていた書き損じの料紙に書いてあったのは、自分が過ごしていた後宮の暮らしそのものであったから。


 再び身を乗り出して、女官のつぼねに置いてあった本に手をのばし、中を読みおどろきに息を止め、その場にへたり込む。


『源氏物語』


 そう表に書かれた美しい物語は、自分が過ごしていた世界そのものであり、まったく違う世界であった。自分がとうの昔に亡くなっているその物語は、あまりにも恐ろしかったが、先を読み進めるのを止めることができなかった。


 物語の通りであれば、光る君は、出仕などすることのなかった、左大臣家の掌中の珠である姫君、いまの尚侍ないしのかみと、帝と左大臣の意向で結ばれ、そのうしろ盾を持って、一時は不遇に陥ることはあるが、美しい世界でその尊さと溢れる美しさと才能で栄耀栄華えいようえいがを極めていた。


 尚侍ないしのかみは、光る君のお子を産み落とすと共に儚くなってしまうが、それでも光る君の正妻という地位に就けたのだから、文句などあろうはずもない。大人になった皇子は、わたしの望み通りに臣下に降り、光源氏とすら呼ばれていた。


 周囲の姫君たちが、光る君に心を奪われ、表には出せぬが、光る君の子のひとりは、帝にすらなった。帝の母がわたしに瓜ふたつ……そんな女であったのも、母である自分が、皇子の生涯忘れえぬ存在であるのが嬉しかった。


「……これが、本当だったらよかったのに」


 そう言いながら、ぽたりと本の上に涙を落してから、再び歩き出すと、穴の奥からなにやら色々な音が聞こえた。


「なにかしら?」


 こっそりと中をのぞいてみれば、そこは見たこともない世界が広がっている。恐る々々、外に出て、様子をうかがうと、牛車の代わりに目がくらむほど早い車という乗り物が走り、どんな女も顔を堂々とさらけ出し、長くても腰のあたりの短い髪で、男に混ざってうろうろと歩き回っていた。


 一年もたっただろうか? それほどに長い間観察をしていると、そこがどうやら自分が暮らしていた時代のずっと先の世界だと気がついた。自分の姿は意識的に表そうと思わぬ限り、周囲には見えないようだったので、あちらこちらを物珍しく見て回る。人目を気にしない日々は楽しかった。


 ある日、弘徽殿女御こきでんのにょうごに瓜ふたつの女を見つけ、車の走る道路につき飛ばして遊んでから、気分よくフラフラしていると、目の前をどこか知っているような、髪を顔の横で切りそろえた女が横切った。


『誰だろう?』


 あとをついて行くと、女は広々とした建物にたどり着く。どうやら女は“大学寮”に通っているらしい。女の身で学問を修めるなど、はしたないにもほどがあると思ったが、それだけでは済まなかった。女はやがて大きな荷物を背負って立ち上がると、広々と別の建物にゆき、あろうことか、なにか分からぬ『武芸』の真似事をはじめたのだ。


眩暈めまいがする……いくらなんでも……あら? もしかしてあれは?』


 やがて夜がやってきて、やはり見知ったような顔の男と、その女がなにやら話をしているのを、じっと凝視して確信した。目の前の二人が『第一皇子』と『尚侍ないしのかみ』の輪廻転生した姿であると。


 それからほどなくして、光る君もいることを見つけ、喜んだのはつかの間、未来の世界の皇子はあまりにも不遇だった。あの二人はあんなにも幸せそうなのに……。イライラしながら漂っていると、いつの間にか“大学寮”の図書蔵にいた。


 なにげなく並んでいる本をながめていると、はっと気がついて、例の『源氏物語』を探してみた。


『なによ……こっちが、尚侍ないしのかみが光る君と結ばれる方が、本当は正しかったのね……』


 探し出して手にした未来の本は、やはり穴の中で見た本と同じ内容で……。


 それなのにどうして尚侍ないしのかみは、あの世界でなんの苦労もせず、光る君を助けようともせずに、のうのうと暮らしているのか!!


 そしてようやく気づく。あの女が自分と皇子の不幸と災いの種であったと。再び心の奥底から沸き上がる怒りは抑えられなかった。


「わたくしの皇子の役に立たないのなら、さっさと死んでしまえばよかったのに!!」


 いますぐに怒りを尚侍ないしのかみにぶつけられぬ悔しさで、胸が一杯になり、せめて生まれ変わった第一皇子と尚侍ないしのかみを、どうにかしようと努力したが、なぜかうまくゆかず、益々、尚侍ないしのかみの生まれ変わりに執着と恨みを募らせる。


 それからの桐壷更衣きりつぼのこういは、『尚侍ないしのかみ』だった女のあとをつけ回していたが、やがてある日、『献血ルーム』と書かれた建物に入って、ウトウトしている尚侍ないしのかみから赤い血が管に抜けてゆき、疲れのせいか女を守る光が薄くなっているのを見て、いまが絶好の機会だと気がついた。


 なにもできず、哀れな人生しかなかった自分が、少しくらいこの女に意趣返しをしても、きっと御仏は許して下さるだろう。


 周囲を見渡し、同じようなころもに身を包んで近づいた。目の前にはこの世界にきても、相変わらず可哀想な運命の自分の皇子を、助けようともしない尚侍ないしのかみ


「どうして貴女あなたはいつもわたくしの、を大切に愛して、幸せにしてくれないのかしら……絶対許せない! 貴女あなたなんか大嫌い! なにもせずに、なにもかも手に入れて、思い通りにして! いつも楽しそうで大嫌い!! わたくしを自分勝手に思い通りにする帝も、父君も母君も、わたくしを馬鹿にする女御たちも、みんな大嫌い!! 光る君を大切にしてくれないなら、あんな世界、貴女あなたごと全部消えてなくなればいい!!」


 看護師の姿に化けた桐壷更衣きりつぼのこういは、まるで時を止めたように、誰も動かなくなった献血ルームで、ベッドの上に横たわって眠る東山葵ひがしやまあおいの首を締めあげて、大声でわめきたてながら、ゆっくりと姿を消してゆく彼女を見下ろしていた。


 少し邪魔が入ったが、それから彼女は再び元いた世界『煤竹法師が彼女をつなぎとめていた世界』にユラユラと戻って行った。


 あとに再び新しい『東山葵ひがしやまあおい』が出現したことには気づかずに。


 己が手を貸した、手を下した『二人のあおいの入れ替わり』という一番の過ちには気づかずに……。


「そうよね……悪女は、尚侍ないしのかみの存在は、元から絶たなければ……あの法師がいれば、また元の世界で、きっとなんとかできるはずよ……」


 桐壷更衣きりつぼのこういは、思いついたのである。『尚侍ないしのかみ』さえ消えてしまえば、左大臣家にはまだ二人の幼い姫君がいる。あの女さえ消えれば姫君たちは、この本にあるように、光る君と縁を結び、それをもって、皇子は元のお話の通り幸せになれることに。


 実のところころもの裾に咲いていたはすの花は、実は彼女のために犠牲となった女童めわらの小さな骸骨であったし、美しい天女の羽衣のような十二単は、愛宕郡おたぎごうりの葬場で、一緒に焚きあげられた物で、あちらこちらが焦げて煤けて、実は桐壷更衣きりつぼのこういは、それはそれは、恐ろしい姿であったけれど、彼女はまるで気がつかず、見えてもいなかった。


 そうして、かつて『桐壷更衣きりつぼのこうい』と呼ばれた女は、その怨念と執念で、元の世界に舞い戻り、右大臣のやかたの庭に敷かれた方陣の外にある岩陰から、こっそりと法師を操っていたのである。


 目の前で降りた内侍宣ないしせんに、自分を生涯に渡り縛りつけていた桐壺帝の死を知った時、彼女は一瞬体がこわばり、身動きが取れなくなったが、大切な光る君のうしろ盾が消えた衝撃だと思い、必ずや尚侍ないしのかみには、消えでもらわねばならぬと、再び強く決意していた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る