第121話 桐壺更衣

〈 淑景舎しげいしゃ(桐壷) 〉


「今日は朝から大変な騒ぎでございますね」


 葵の君の初出仕の当日、光る君は、ようやく静かになった淑景舎しげいしゃで、疲れた顔の母君を気づかいながらそう言う。


 帝は昨日の朝まで、誰がなにを言ってもどこふく風と、淑景舎しげいしゃで過ごしておられたが、昼過ぎになって、関白から届いた書状を目にすると、どこか明るい雰囲気で母君と自分に優しい言葉をかけてから、清涼殿に帰って行った。


「今日は尚侍ないしのかみが、はじめて参内なさる特別な日ですもの。ふさいでおられた帝の気も晴れましょう」

「そうですね……」


 桐壺更衣きりつぼのこういは、ほっとした気持ちで美しく長い髪を左右に振り分け垂らして結んだ、下げみずらにしている、美しくも幼い光る君の髪を撫ぜていた。若草色の小狩衣の童装束が本当に愛らしい。


 母としては、いつまでも一緒に暮らせるように、このままの姿でいて欲しいが、そんな訳にもゆかぬ。美しく聡いわたくしの皇子であるが、帝の寵愛以外、うしろ盾のない心細い存在であった。


 いつ失うか分からぬ寵愛ではあるし、まだ光る君には伝えていないが、第一皇子の東宮位を帝が決定されたいま、皇子の先行きは暗い。


 自分を憎む弘徽殿女御こきでんのにょうごの産んだ、第一皇子が帝になったあとのことを想像するだけで、自分と皇子の上に黒い雲が立ち込める気がした。


 そしてふと思う。尚侍ないしのかみとして出仕なさる左大臣家の姫君の婿となられた、中務卿なかつかさきょうのことを。


 彼は元皇子でありながら、みなもとの姓を賜り臣下に降り「無品親王」として他の親王方から軽んじられる御立場であった。


 が、いまではどうであろう、自身の才覚を持って、いまでは誰もが認め、押しも押されもせぬ公卿としての立場を、堂々と確立していらっしゃる。


 御仏の御告げがあってのこととはいえ、臣下の頂点、摂関家の当主である関白も、その能力を高く評価するゆえに、摂関家の唯一の姫君である、尚侍ないしのかみとの婚儀を認めたとも聞く。将来的には太政官の最高位、左大臣の地位も望める立場とか……。


 わたくしの皇子も末恐ろしい才だと、いつも博士たちが褒めてくれている。いっそのこと、臣下に降りれば、この才を持って、彼のように彼以上に自身の力で、立身出世を望めるのではないかとも思う。


 そうなれば、わたくしもこんな窮屈でつらい後宮の生活を捨てて、いや、すべては無理だとしても、せめて半年くらいは、皇子の暮らす市井のやかたで、気楽に生きることができまいか?


「母君、いかがなさいましたか?」

「……いえ、なんでもありません」


 そう言いながら桐壺更衣きりつぼのこういは、なお考えていた。たまに後宮で見かける中務卿なかつかさきょうには、あの弘徽殿女御こきでんのにょうごですら、一目置いて接している。


 わたくしには、まったく分からぬ世界であるけれど、まつりごとを率いる公卿として、自分の皇子が臣下に降り、自由にはばたいてくれた方が、弘徽殿女御こきでんのにょうごの顔色をうかがって暮らすより、よほど皇子も幸せが掴めるのではないかと、桐壺更衣きりつぼのこういは密かに思い、物心がついて以来、周囲に流されるままであった彼女は、はじめて“自分の希望”という物を胸に抱いた。


「そろそろ宴に、お出ましのお時間にて……」


 女房の声に彼女は我に返ると、光る君をそっと抱きしめてから、渡殿に向かおうとするが、ふと動きを止めた。


「母君?」


 桐壺更衣きりつぼのこういは、久しぶりに自分の頭の中に雑音がするのを感じていた。ゆるく頭を振って、心配そうな皇子にほほえみかけ、清涼殿に向かうべく袴を捌いて渡殿に出た。


 常であれば頭を下げて、気をつかいながらの道行が、今日はどの殿舎(御殿)も清涼殿に向かう準備に忙しく、自分のことなど気にも留めぬと思えば、それがせめてもの慰めである。


 桐壺更衣きりつぼのこういは清涼殿に向かいながら考えごとを続ける。


 中務卿なかつかさきょうとの縁など少しもないが、自分と比べるのもおこがましい、いと高き身分の姫君、薬師如来の具現とまで言われる尚侍ないしのかみの、優しく尊い姫君とのご評判が本当であれば、自分には帝のお口添えもある。


 少しくらい姫君に打ち解けて頂けて、もしかしたら中務卿なかつかさきょうともご縁がつながれば、右も左も分からぬまつりごとの世界の話を、光る君にも聞かせてくれる方ができるかもしれぬと、蜘蛛の糸のように細い一筋の期待を抱きながら、清涼殿にたどりつく。


 女房の声を待って入り口のあたりで、桐壺更衣きりつぼのこういは、ひとまずかしこまって平伏した。


桐壺更衣きりつぼのこういが参られました」


 いまは臣下のお立場とはいえ、帝の愛する実の妹宮で、元内親王である『三条の大宮』に対して、初めから彼女よりも上座につくなど、さすがにあり得ぬ話であった。

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