第248話 入れ替わる光と影 5

 次の日の朝、目が覚めてから、中務卿なかつかさきょうは、しばらく違和感を覚え、横にいたまだ眠っている葵の上に気づくと、心配そうな顔で、睡蓮の香りのする長く艶めく黒髪に、そっと口づけをする。


 少しして、目を開けた彼女に、心の底から安堵した。すぐにも側にやってこようとする女房たちに、目配せをして下がらせると、外を見てみたいと言う彼女を、分厚い綿の入った小袿こうちぎで包み、優しく抱き上げて、冬の庭が見渡せる釣殿の高欄の端まで運ぶ。


 ふたりの姿を遠くに見た女房は、素早く火炉かろ(移動式の囲炉裏いろり)を奉公人に運ばせると姿を消した。


「寒くはありませんか?」


 そうたずねる中務卿なかつかさきょうの吐く息は白いが、彼女は、そんなことは、どうでもいいくらいに嬉しそうで、彼の首に絡ませた腕に力を入れ、ほほえみながら、否定の首を振る。


将仁まさひと様こそ、そんな薄い単衣で、寒くはないのですか?」

「腕の中の貴女あなたが温かいので平気です」

「…………」


 葵の上は、真っ赤になった顔で、しばらく遠くに見える築山に積もる雪や、薄く氷の張る遣水を、ながめていたが、彼の首筋と右の腕に見える火傷のあとを、指でそっとなぞる。


 明るい場所で、これほどはっきりと傷痕を見たのは、はじめてだった。


「怖い思いをさせますね……すぐに着替えましょう」


 彼女の視線に気づいた彼にそう言われ、葵の上は、また首を振る。


「わたくしの足の怪我を、“六”が治してくれたことを、覚えていますか?」

「それがなにか?」

「昔はともかく、もし、もしも、いまの貴方あなたが望めば、すぐにでもこの傷痕は治るのに、拒否することは、誰もできないのに、それでもこの傷痕を、人に背負わせない貴方あなたの優しさを、わたくしは分かっています」

「葵の上……」

「だから怖くなんてありません」


 そう言われた中務卿なかつかさきょうは、しばらく、まじまじと、腕の中の彼女を見つめていた。


火炉かろがあっても、お風邪をひいては大変です……」


 少し頬を赤らめた彼はそう言うと、また葵の上を元の部屋に連れて帰り、無理をなさらぬようにと言い、手早く身支度を整え、里内裏に出仕するため姿を消した。



〈 関白のやかた/里内裏 〉


 朝の支度を終えて、帝がふと庭に目をやると、赤い椿の花に雪が積もっていた。南天の実も赤く色づいている。


「美しい……」


 しばらくながめていると、遠くからなにやら、女房たちの騒ぐ声が聞こえた。


 なんの騒ぎかと、帝が頭中将とうのちゅうじょうにたずねると、東の対に早々にやってきた朧月夜おぼろづきよの君が、『児童虐待ではないか?』そんな風に葵の上が想像してしまった、元の源氏物語の世界の光景を思わせる雪遊びを、姫宮と内親王方を誘ってしていたのである。


「こちらを帝にと……」


 そう言いながら、しずしずとこちらにやってきた女房が、官吏に差し出した漆塗りの盆の上には、姫君たちが作ったらしき、椿の葉を耳に、南天の実を目にした、雪でできた愛らしいウサギが乗っている。


「可愛らしいね」


 帝は姫君たちに、礼の菓子を届けるように言ってから、火炉かろから離れない、ウサギを見ても、ただただ寒そうにしている関白を、少し面白そうな顔で振り返る。


 帝は、「この寒さでわたくしの寿命もこれまで」などと言う彼に、誰かもっと火鉢を関白の側へと言いながら、「みなは貴方のせいで、年中そのような寒気に襲われているのに、少しは我慢なさらねば」と、周囲が言いたくても、絶対に言えないことを口にして、からかっていると、ちょうど左府さふがやってきて、書類の束を抱えた官吏を従え側に控える。


「…………」

「どうかなさいましたか?」

「いや、別に……ウサギが溶ける。高欄の端近に……」


 左府さふからは、あの方の睡蓮の香りが、僅かにしていた。十七になられたあの方は、さぞや臈長けて、眩いほどに美しいことだろうと想像したが、帝はなにも言わず、小さな胸の痛みを隠したまま、すぐに居並ぶ公卿たちと、政務に取りかかる。


 パサリと大きな音がして、屋根に積もっていた雪が庭先に落ちた。



〈~再び中務卿なかつかさきょうのやかた~〉


 葵の上が朝の身支度を終え、やってきた母君に挨拶をする。白粉おしろいを塗り紅と眉を引いた葵の上は、やはり見たこともないほどに美しく、やつれた姿ですら、人とは思えぬほどに神聖で、横に控えていた紫苑は、思わず感歎の声を上げていた。


 母君がご自分の部屋に戻り、葵の上が届いたふみに目を通していると、朝も早くからかごに隠れて、花音かのんちゃんが配達されてくる。

 彼女の情報によると、中務卿なかつかさきょうは、四年前から左大臣となり、内裏ではもっぱら『鬼左府おにさふ』と呼ばれているらしい。


「それ本当?! 聞いてない!!」

「葵ちゃんが、目覚めた方が大ニュースだから、言い忘れてるんじゃない? あと、もう少しすれば温泉が届くよ!! “弐”が言ってた!」

「はい?」

「帝が、葵ちゃんが目を覚ましたと聞いて、お見舞いにって、牟婁むろ、えっと和歌山から、温泉の入った大きな桶を、沢山の人に神輿みたいに担がせて、お湯を運ばせているんだって!! 凄いよね! さすが、絶対権力者!! 生き神様!!」

「え……?」

「地元と運送業? の人も、帝の御用達だって、鼻高々だってさ! わたしも入っていい?」

「わたしより、帝や御祖父君の方が、入った方がいいんじゃ……」

「それは一緒に運ばせてるんじゃない? ついでに? 関白、毎日々々、寒すぎて寿命が縮むとか、死んでしまうとか、うるさいらしいよ」

「……お元気そうでなにより」


 色々な情報に、葵の上が目を丸くして驚いたり、悩んだりしていると、誰かが几帳の向こうから、様子をうかがっているのに気づき、首を傾げる。


「あ、わたしのこと、わたしが見せようと思わないと、基本、人には見えないし、いるのは分かんないから。陰陽師とか、帝の関係者には、見えるみたいだけど」

「それじゃ、わたし、めっちゃあやしいやん! なんとかして!」


「しょうがないなぁ、でも、あとの説明は、自分でなんとかしてね」

「う、うん」


 そんな小声でのやりとりのあと、ふわりと光が部屋に満ちて、花音かのんちゃんは、普通の人の大きさの、ピンクの髪のお姫様になっていた。


「よ、よ、よよよ―よ――妖怪!!」


 コッソリのぞいていた紫苑は、几帳を倒して、腰を抜かさんばかりに驚いている。昨日は姿を見なかった夕顔は、その横で慌てて、首に下げていた笛を吹こうとする。


「だ、大丈夫! この人は……えっと、その……」


 どう説明したものかと、葵の上が悩んでいると、ため息をついた花音かのんちゃんは、、はったりをかましていた。


わらわはあの大火の火を静め、この度も姫君を救いし龍神の姫である。そなたらの主人である葵の上が気に入ったので、側にいて守護することにした」


「…………」

「…………」


 それを聞いたふたりは、しばらく不審気な表情で、お互いに顔を見合わせていたが、どう考えても尋常でない姫君であるし、葵の上が、にこやかに接しておられるので、そう言うのならそうなのだろうと、無理やり納得することにした。


「わたし、今日から日記つけようかな? 人に言わなくても、日記なら構わないわよね?」

「命婦様、日記を書いても三日以上、続いたことがないって、おっしゃっていましたよね?」

「じゃあさ、交代で書こう!! 交換日記!! それなら頑張れると思う!!」

「ええぇ?!」


 この時代の教養ある人間の心得のひとつとして、毎日きちんと日記をつけている夕顔は、正直迷惑だと思ったが、命婦である紫苑の言うことには逆らえなかった。押しは強いが、なにかと自分を守ってくれる紫苑には、反対できないのである。


忠景ただかげ様のふみに、お返事も書かなきゃいけないのに……」

「なにか言った?」

「へ? な、なんにもありません!!」


 忠景ただかげ様というのは、検非違使の別当の名前である。


 夕顔は自分の恩人であり、妹を失った者同士という、つらさを分かり合える間柄の別当と、事件のあと、割と頻繁にふみのやりとりをしたり、なにかと彼が用事で、このやかたにきた時も、親しく言葉を交わし、いつしか彼とは恋人同士になり、彼との間に子までもうけていた。



 *


『本編と多分関係のない小話/温泉は踊る』


・二条院


伍「温泉がくるらしいです」陰陽寮でうわさを聞いてきた。


弐「温泉がくる……なんだそれ? “温泉に行く”だろ?」


四「大きな桶に入れて、こう、神輿のように担いで運ばせているらしいぞ」同じく大内裏で聞いてきた。


参「もう今日、明日にも、京に到着するらしい」


弐「……なんでまたそんな大変な騒動になってるんだ?」非番で、やかたの中を除霊して回っていた。


伍「関白が寒すぎるし、年寄りには温泉は遠すぎるから、お湯の方を京まで運べと、ワガママを言ったらしいですよ? 帝とか葵の上の体調が心配とか理由をつけて、無理やり」


弐「関白は絶対に地獄の閻魔が嫌がって引取らないんだよ……」


 六「葵の上はともかく、関白があれ以上、健康になって、どうするんだろう?」猩緋しょうひに、ただで住んでいいから、住み着いている霊を成仏させてくれと言われて、刈安守が元住んでいた京の外れのやかたで、式神に大掃除させながら、地味に暮らしているのでした。


関白「はっくしょん!! ほら、もう、老い先短いから、寒さがこたえて……」


帝「…………」誰かが悪いうわさでもしているだけじゃないかなと思ったけど、ついでなので、関白のやかたの風呂殿のお湯も温泉にして、沸かしなおさせているのでした。


「お肌がツルツルに!!」「体の疲れがなくなったわ!」「まるで若返ったみたい!!」温泉効果で、ご機嫌の弘徽殿女御と、六条御息所と大宮でした。


弐「芋、美味しいよね」温泉を温め直すバイトに行ったついでに、芋(里芋)を焼いて持って帰っている。


壱「…………」もう弐に説教をする気力がなくなって、小さな桜姫と一緒に、焼き芋を食べているのでした。


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