第247話 入れ替わる光と影 4

 ふたりは桜姫に不安しかなかったが、それでも最後の希望だと、中務卿なかつかさきょうが九字を唱えながら、わたしに呑札を飲ませ、“六”が“呪”を唱えると、なんと口の中から、黒い火のついたトカゲが、呪いの本体が、ズルリと這い出てきて、それを仕留めて、間一髪、わたしの命を救ってくれたらしい。


「口からトカゲ……おえっ! でも花音かのんちゃんが呪札に名前を書いてくれたんだ……ありがとう……」

「いいよいいよ! あ、周りにはちゃんと本名は、秘密にしといたから! ちなみにわたし、いまは龍神のお姫様で、アカウントネームは“桜姫さくらひめ”だから!」


「アカウントネーム……じゃないと思うけど、本名がパスワードって、めっちゃ怖いね。それにしても龍神のお姫様って、ご大層な身分過ぎない? “桜姫さくらひめ”? 全然似合わない」


 葵の上の口元が笑いをこらえ、ピクピク痙攣しているのを見て、花音かのんちゃんはプリプリ怒り出す。


「あんただって十倍以上、いや百倍は可愛くなってるし、超セレブなお姫様だから、気づかずに見落とすところだったんだからね、美少女過ぎて! そんで、平安時代にタイムスリップした現代人が、御仏の具現とか図々しい!」

「いや、ここ、厳密に言えば平安時代じゃなくて、元々は『源氏物語』の世界だから」

「なにそれ? 名前しか知らない」

「そう……そうやね、読書嫌いだもんね」

「うん。それより運動してる方が好き。いまも庭を毎朝走って、ちゃんと自主練もしてる。葵ちゃん、目覚めたんなら、わたしにも剣術教えてよ!」



「いやあ、ムリムリ、わたしはしばらくリハビリだと思う。いまは歩ける自信もないし」

「……じゃあ手伝って上げる!! さあ、やあろう、いますぐやろう!」

「自分が剣術の稽古をしたいだけじゃ……えっと、じゃあ、明日からで。源氏物語のことは、またざっくり説明するね」


 それからしばらく顔を見合わせて、黙っていたが、二人はやがて、こらえきれずに笑っていた。


「姫君は大丈夫かしら?」

「きっと、お目覚めになったのが嬉しいのよ、わたしも嬉しいから」


 花音かのんちゃんが見えてなかった、母君を寝所に運んで帰ってきた紫苑たちは、心配そうな顔で、『東山葵ひがしやまあおい』を、葵の上を見ていた。


花音かのんちゃんも、本名は内緒にしてるの?」

「あたりまえ! これ以上こき使われては大変! 知られたら同居してる魔法使いの奴隷になっちゃう!」


「ふーん……いまはどこで暮らしてるの? え? 陰陽師のやかたで、ロウソクを作ってる?!」

「引っ越ししたんだけど、そこで家賃と食費代わりにね、歯ブラシとか、石鹸とか、お酒やアロマオイルも作ったりしとーよ。絶賛好評で発売中! 今日も確か“伍”が配達に……あ、きたみたい!」


 それから花音かのんちゃんは、迎えにきた“伍”のかごの中に、プリンと一緒に入ると、「もう今日は大丈夫そうだし、また明日くるね――!」そう言って、機嫌よく帰って行った。


 葵の上は、用意された重湯おもゆを口にして、今度、飲む点滴といわれる、甘酒作ってもらおう、なんて思いながら、また横になっていた。


 夕刻になり、紫苑たちに支えられて、彼女は、久しぶりにお風呂に入り、「いい香りの花の形の石鹸がある! どうしたんだろう? 凄い!」などと思っていると、心配顔でこっそり朧月夜おぼろづきよの君が、戸口の近くで様子をうかがっていて、笑ってしまった。なんとか入浴を済ませると、例の火鉢の縦列駐車で、髪を乾かしてもらう。


 母君は寝込んでいるが、ただ走って疲れているだけで、大丈夫だと聞いて安心した。


「石鹸って凄いんですよ!」

「石鹸が?」

「それで、ちゃんと手や体を洗うだけで、病になりにくいと評判で、最近は香りのしない安価な品を、典薬寮で販売して、たみの間でもよく売れているそうですよ。わたしも最近は風邪もひかなくなりました!」

「それは素晴らしいわね」


 確かに手洗いうがいは、病の予防の第一歩。花音かのんちゃんが、衛生状態のよくない、この世界にきた効果は絶大だった。そしてあとで、アロマオイル入り、花音かのんちゃん手作り石鹸が、その何十倍もの値段だと知って、誰の入れ知恵だろうと、葵の上は考えていた。


 乾いた髪を梳いてもらいながら、ほっとした気分で、また布団でノンビリして、朧月夜おぼろづきよの君と、そんな世間話をしていると、しばらくして、行列を引き連れた牛車が帰ってきた音が聞こえてくる。


 それをきっかけに姫君は、乳母にうながされて、ご自分の部屋に帰って行った。


 葵の上は、自分の寝所に現れた中務卿なかつかさきょうの顔を見て、ニッコリとほほえむ。


「お帰りなさいませ」

「動かずにそのままで、そのままでいらして下さい。ただいま帰りました。帝も関白も大層お喜びで、六条御息所ろくじょうのみやすどころ弘徽殿女御こきでんのにょうごも落ち着かれましたら、姫君と内親王方を連れて、是非ともお見舞いにと、おっしゃっていましたよ」

「まあ、もったいないことです。早くお元気にならねばいけませんね」

「帝も正式に行幸ぎょうこうなさると、関白におっしゃっていました。尚侍ないしのかみはわたくしの即位の恩人であり、これからの国政の大切な宝、くれぐれもご無理をなさらぬようにとの、おことづけです」


 葵の上の儚く消えそうな風情を心配しつつ、久しぶりに耳にした、心が透き通るような声に、彼は安堵した顔をする。うしろには、ほっとした表情の“六”。


「“六”、ありがとう。貴方はわたしの命の恩人です」

「いえ、桜姫がいなければ、なにもできず……」


 彼は言葉少なくそう答え、葵の上の様子を確かめてから、どこかに消えた。


 その日、帝や関白への報告から帰ってきた中務卿なかつかさきょうは、大輪の牡丹のように、美しくも華やかだった葵の上が、雰囲気こそ変わらぬものの、すっかりやせ衰えていることに、再び心を痛めたが変わらぬ、いきいきとした瞳の輝きと、前向きなご様子にほほえむ。


“六”が姿を消してから、彼女をそっと抱きしめていた。


「きっとすぐに元通りのお元気な姿に戻られましょう」

「頑張ります。桜姫も明日もきてくれると言っておりました」

「それは心丈夫なことですね」

「ええ、あの姫君は、わたくしの守り神にございます」

「そうですね」


 あれから五年、十七歳になった葵の上は、すっかり大人になった姫君は、相変わらず自分の腕の中で、幸せそうに笑ってくれる。もう、手放すことはできない。彼女を抱きしめながら中務卿なかつかさきょうは、ようやく自分の気持ちに素直にそう思った。


貴女あなたに出会った時から、これからも生涯をかけて、貴女あなたを愛しています……」

「わたしが先に愛していたのですよ?」

「そうでしたか?」

「そうですよ?」


 その日の夜、ふたりははじめて同じ寝所で、同じ布団の中で横になっていた。中務卿なかつかさきょうは、すっかり痩せてしまった葵の上を、重なったスプ―ンのように、うしろから温めるように優しく抱きしめていた。


『ひえっ! なんというか、コレ、寝れないよね普通! いや、もう、結婚してるから、これが普通と言えば、普通なんだろうけどさ!!』


「…………」

「…………」


 彼の腕の中で硬直していた葵の上は、そんなことを考えていたのに、結局、体が疲れきっていて、すぐにスヤスヤと眠り、夢の中に旅立ってしまう。


 中務卿なかつかさきょうは、そんな彼女を相変わらず可愛らしい方だと思う。そして彼は、葵の上をそっと優しく抱きしめたまま、最後まで桐壺更衣きりつぼのこういを手放そうとしなかった、桐壷帝とは正反対のことを考えていた。


『どうか、この方が幾度生まれ変わろうとも、たとえわたしとのえにしがなくなろうとも、わたしが愛する、最初で最後に恋をしたこの方が、いつの世でも、いつまでも幸せになれますように……』


 それから目の前にある葵の上の後頭部に、そっと口づけして、彼も眠りについていた。


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