第66話 春の訪れ 1

 つるばみの君が、うっとりと左大臣家の姫君の裳着もぎの儀式を想像している頃、前例になきことながら京の庶民たちに、裳着もぎむかえる姫君よりの“思し召し”として、左大臣家から米や塩など、日持ちのする食糧の詰めあわせが一袋ずつ配られ、炊き出しも数回に渡りおこなわれていた。


 暗く恐ろしい事件や、地方の相次いだ飢饉からの不法難民の流入騒動などで、不穏な雰囲気の立ち込めていた街中の人々も、日頃から『薬師如来の具現』として名前を聞き及んでいた左大臣家の姫君の、下々にまで心を配られる優しさと思いやりに感動し、姫君が正式に女官吏として、尚侍ないしのかみとして内裏に出仕されたあかつきには、自分たちの生活にも明るい光が差すのではと、久しぶりに明るい話題や活気が戻る。


 例年より大幅に増した、検非違使けびいしの巡回を中心とした治安の強化と安定も、庶民にとっては大きな安心材料であった。


 姫君の裳着もぎがある、今年の春が訪れるのを、みなは心待ちにする。やがて姫君のうわさは、京に出入りする行商人や、僧侶たちからも各地に広がってゆく。


僭越せんえつながら、奏上申し上げます。」

「何用か?!」


 久々に参内した関白が、車止めで牛車から降りた時、「おそれながら」と、関白の前に進み出たのは、くだんの検非違使の別当。うしろには大きな竹で編んだ葛籠つづらを抱えた検非違使けびいしの武官が数人。


 関白の警備に当たっている多数の随人たちが、素早く別当の周囲を取り囲み、誰何すいかしたが、彼はかしこまりながらも言葉を続けた。


「左大臣家の姫君が初出仕される際の牛車の行列に、是非とも朱雀大路を羅城門から出立して頂きたいとの請願が、検非違使けびいしに積み上がっております。誠に恐縮ながら、ご検討頂けないかと……」


 彼の言葉に耳を傾けた関白は、随人たちに手を軽く上げて、下がるように合図する。


「ほう……たみがそのようなことを。葵の君の行列を、それほどに見たいとな?」


 関白に随人のひとりが、彼が検非違使けびいしの別当であると耳打ちした。


「はて、しかし京の治安を預かる者が、なぜそのような請願を受けておる?」


 確かに筋違いであった。同じく参内のため隣にいた左大臣も、不思議そうな顔をしている。


「自分たちに施しを下さった、尊くも優しき姫君の乗った牛車を、一目でも拝みたいと言う希望が、街中に広がっておりまして、街中に出ております警備の者が、毎日このように大量の手紙を持ち帰る次第でございます」


「それでは検非違使けびいしの務めにも支障があるのう」

「はあ……」


 別当はひと言にごした返事を返す。


 街中を警備する彼の部下たちは、自分たちは警備が仕事で文使いではないと、困惑する声が上がるほど、ひっきりなしに請願書を受け取っていた。


 左大臣家に直接届けないのは、さすがに大寝殿が立ち並ぶ地域には、足が運びにくい様子で、街中でよく見かける、一応は官吏でもある彼らに、みなが気軽に手渡してゆくのだ。


 街中まちなかでは姫君の行列を願う嘆願を出すのが、たみとしてのつとめ、そんな流行ぶりで、昨今は代筆屋も大いに繁盛していた。紙は高価な品ゆえに、知り合いでまとめて書き込んでいるものも多い。


「関白の参内を邪魔するなど、無礼にもほどがあろう!」


 先に到着していた右大臣が、そう言いながら歩み寄り、検非違使けびいしの別当をとがめようとしたが、ほとほと困り果てた様子で平伏している彼の話を、満更でもなさそうな顔で、顎に手を当てて聞いている関白に気がつくと、態度をくるりと変えて別当の話を聞き、心得顔で何度もうなずく。


 右大臣は素早くうしろの葛籠つづらを、朝議に持ってくるよう別当に言いつけ、関白と左大臣のあとを、揉み手しながら愛想よく歩きつつ葵の君を持ち上げる。そして、朝議の場につくと、みなが席についているのを確かめてから、重々しく口を開いた。


「予定外であるが治安の問題もあるゆえに、検非違使けびいしからの請願を特別に検討したい」


 公卿たちがずらりと並ぶ朝議にて、そしらぬ顔の関白と左大臣をよそに、右大臣は左大臣家の姫君、初参内の“御出仕行列”の件を持ち出していた。


 東宮位の決定が迫るいま、第一皇子の外戚である自分が、関白と左大臣の支持を得るためにも、ここが踏ん張りどころと右大臣は心得て、先日もまるで大樹のような枝ぶりの珊瑚に、金をつないでさまざまな玉を果実のように実らせた家宝、通称『蓬莱ほうらいの玉枝』を、葵の君の裳着もぎの祝いとして、自身で届けている。


 関白と左大臣の反応はよく、ずらりと祝いの品が並びつつある、左大臣家の祝いの品の飾ってある広間に、娘である弘徽殿女御こきでんのにょうごの送った、美しく大きな鏡と共に、特等席、最前列の中央に無事展示された。もう一押しである。


 葵の君の顔は、もちろん拝見はできなかったが、御簾みす越しにうかがえた雰囲気や所作は、うわさにたがわぬことを期待するにふさわしい姫君であった。自分くらいの目利きになれば、それくらいは分かる! 是が非にも、いずれは第一皇子に入内してもらう。


 そうなれば『蓬莱ほうらいの玉の枝』も、また帰ってくるとの皮算用もあった。


 ちなみに中身が関西生まれの葵の君は、蓬莱ほうらいと聞いて、『豚まん』が懐かしくなって、なんとか作ってもらえないものかと考えていた。


「早々に行列を認めてはどうか? これが毎日では街中での警備にも支障が出よう」


 目にした大量の嘆願書に、そんな声が上がる。最近牛車から見かける、検非違使けびいしを取り巻く、たみの謎の行動の原因を知った公卿のひとりは、そう意見を述べた。


「昨今の暗い世間の空気を変えるためにも、よろしいことかと存じます」


 特に反対する意見も見当たらず、早々に当日の警備計画の作成を、右大臣は兵部卿宮ひょうぶきょうのみやに言いつけると、何事もなかったように、当初の議題へと話は移る。


 帝の代わりに重大な案件に、決裁ができる関白が参内された日は、怒涛のように各省から、それぞれの案件が出されるので、少しの時間の無駄も許されない、そんな雰囲気で満ち溢れていた。


 関白の恐怖政治の復活と共に、滞っていたまつりごとは、やや解消され、苦悩に満ちていた公卿たち高位貴族は、希望を胸に抱くようになっていた。


「いやはや、うわさには聞いておりましたが、関白の施政に対する慧眼けいがんは、驚きしかございません」

「まったく。年老いてなお世の中を見通す、千里眼を持つかのごとき、知略と采配……」


 朝議のあと、内裏を退出する中納言と参議、ふたりの公卿が、歩きながら関白のうわさをしていた。


 実は新しい施政のほとんどが、葵の君の地獄の冬期講習と嘆きながら提出した課題を、関白と中務卿なかつかさきょうが草案とし、練り上げた物である。


「あれほどの御方が体調を悪くしたまま、儚くなっていらっしゃれば、国家にとって、どれほどの損失であったことか!」

「それだけを取っても、左大臣家の姫君は、国家に対する多大な貢献をなさいましたな」


 中納言と参議は顔を見合わせ、深く頷き話を続ける。


「姫君の裳着もぎの日程が、桜のうたげの当日の夜、しかも北の方と姫君にも招待状がきた時は、いささか驚きましたが」

「まあ、他の日は、なにかと立てこんでおります。裳着もぎは夜遅くからの行事ゆえ、我々的には助かりましたな。それよりも大変なのは女君たちの準備で……」


 中納言は遠い目をしながら、公卿たちの北の方や姫君たちまで招くという、前例のない大規模で、もはや新しい儀式のような、左大臣家の姫君の裳着もぎのことを頭にうかべそう呟いた。参議もあれこれと身支度に余念のない、自分の妻の笑い話をしだす。


「畏れ多くもうたげの招待状をいただいて以来、我が家の北の方は、自分の十二単じゅうにひとえを、一心不乱に縫うばかり、わたくしの話など耳に入れてはくれませぬ」

「どの家も同じですなぁ。物入りな話ですが、めでたい席に恥はかきたくない、それに姫君の婿を探すよい機会だと、わが家も大騒動で……」


 ああ、そう言えばこの人、年頃の姫君が七人くらいいなかったっけ? 中納言の家庭事情を、参議は思い出していた。確か一番上は十九歳だった気がする……。


 帝に入内しても、中宮になれるほどの身分や家柄ではないし、かといって貴族であれば、誰でもよいという低いくらいでもない微妙な立ち位置だ。


 第一、入内ともなれば、后妃の実家として、相当の物入りが確定する。自分に姫君が生まれても絶対に入内はやめて、優良株の貴族の子弟と結婚させようと、参議はいまから思っている。


 大概の貴族の姫君が、十四~十六で結婚する、せねばならぬこの時代、中納言の一の君(長女、十九歳)は、十分に崖っぷちと言えた。


 公卿(上位貴族)たちが、自分の眼鏡に見合う姫君の結婚相手を探すのは、中々に骨の折れる話で、一夫多妻制とは言え、惣領娘である姫君の先行きは、家の栄枯盛衰がかかっている。


「このたびの絶好の機会、最初で最後の機会と心得て絶対に優良株を逃すなと、姫君にも重々に話を……」

「ご苦労の多いことで……」


 まだ正式な妻と結婚したばかりの参議と違い、しゃくを握る手に力の入る、中納言の苦悩は本物だった。



〈左大臣家〉


『やった――!!』


 東の対にある昼御座の畳の上で、葵の君は目の前の蜂蜜がけプリンを食べようと握っていた、陶器の匙をぐっと握りしめ、内心で大声を出して喜んでいた。


 前代未聞の『裳着の宴/北の方&姫君も御招待プラン』の返事が、六条御息所ろくじょうのみやすどころから、やっと帰ってきたのだ。


 なんとかとはさみは使いよう……。

 物凄く失礼なことを、返事を持ち帰った兄君に思う。


「三条の大宮を通して、ご縁のある左大臣家の姫君のためでしたら、是非に出席させていただきます」兄君は、そんな返事を持って帰ってきたのだ。


 六条御息所ろくじょうのみやすどころの姫宮は、まだ幼過ぎるので欠席。


 京中の貴族の女君と姫君のアイドル、兄君の蔵人少将くろうどのしょうしょうが、母君の見立てた失礼のない、美々しくも上品な直衣装束に身を包み、関白の特訓を受けて、非の打ちどころのない使者として、お使いをしてくれたお陰か、元東宮妃という重い立場と、喪が明けたばかりゆえ、どこにもお出ましなどない、六条御息所ろくじょうのみやすどころが、出席してくれることになったのだ。


 確かわたしより四~五歳、年上だったはず。できれば仲良くなっておこうと、葵の君は思う。


『そうすれば、怨霊はまだ分からないけど、生霊は大丈夫やん?』


「姫君、また祝いの品が……」


 女房が呼ぶ声に、そそくさとプリンを食べ終えると、姫君は母屋に設けられた、『裳着祝い展示場』に、美しく袴を捌きながら急いで向かう。


 宿直とのゐの陰陽師たちも、『裳着祝い展示場』の煌びやかさに、「目が潰れそう……」そんな感想を、陰陽寮で述べていた。


 自分たちは強力な護符のセットを、中務卿なかつかさきょうに“六”が都合してもらった、綺麗な箱にいれてプレゼントして、物凄く喜ばれている。

 実用品が一番だよねと、彼らは話をしていた。


 桜のうたげの夜まで、あと少し。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る