第66話 春の訪れ 1
暗く恐ろしい事件や、地方の相次いだ飢饉からの不法難民の流入騒動などで、不穏な雰囲気の立ち込めていた街中の人々も、日頃から『薬師如来の具現』として名前を聞き及んでいた左大臣家の姫君の、下々にまで心を配られる優しさと思いやりに感動し、姫君が正式に女官吏として、
例年より大幅に増した、
姫君の
「
「何用か?!」
久々に参内した関白が、車止めで牛車から降りた時、「おそれながら」と、関白の前に進み出たのは、くだんの検非違使の別当。うしろには大きな竹で編んだ
関白の警備に当たっている多数の随人たちが、素早く別当の周囲を取り囲み、
「左大臣家の姫君が初出仕される際の牛車の行列に、是非とも朱雀大路を羅城門から出立して頂きたいとの請願が、
彼の言葉に耳を傾けた関白は、随人たちに手を軽く上げて、下がるように合図する。
「ほう……
関白に随人のひとりが、彼が
「はて、しかし京の治安を預かる者が、なぜそのような請願を受けておる?」
確かに筋違いであった。同じく参内のため隣にいた左大臣も、不思議そうな顔をしている。
「自分たちに施しを下さった、尊くも優しき姫君の乗った牛車を、一目でも拝みたいと言う希望が、街中に広がっておりまして、街中に出ております警備の者が、毎日このように大量の手紙を持ち帰る次第でございます」
「それでは
「はあ……」
別当はひと言にごした返事を返す。
街中を警備する彼の部下たちは、自分たちは警備が仕事で文使いではないと、困惑する声が上がるほど、ひっきりなしに請願書を受け取っていた。
左大臣家に直接届けないのは、さすがに大寝殿が立ち並ぶ地域には、足が運びにくい様子で、街中でよく見かける、一応は官吏でもある彼らに、みなが気軽に手渡してゆくのだ。
「関白の参内を邪魔するなど、無礼にもほどがあろう!」
先に到着していた右大臣が、そう言いながら歩み寄り、
右大臣は素早くうしろの
「予定外であるが治安の問題もあるゆえに、
公卿たちがずらりと並ぶ朝議にて、そしらぬ顔の関白と左大臣をよそに、右大臣は左大臣家の姫君、初参内の“御出仕行列”の件を持ち出していた。
東宮位の決定が迫るいま、第一皇子の外戚である自分が、関白と左大臣の支持を得るためにも、ここが踏ん張りどころと右大臣は心得て、先日もまるで大樹のような枝ぶりの珊瑚に、金をつないでさまざまな玉を果実のように実らせた家宝、通称『
関白と左大臣の反応はよく、ずらりと祝いの品が並びつつある、左大臣家の祝いの品の飾ってある広間に、娘である
葵の君の顔は、もちろん拝見はできなかったが、
そうなれば『
ちなみに中身が関西生まれの葵の君は、
「早々に行列を認めてはどうか? これが毎日では街中での警備にも支障が出よう」
目にした大量の嘆願書に、そんな声が上がる。最近牛車から見かける、
「昨今の暗い世間の空気を変えるためにも、よろしいことかと存じます」
特に反対する意見も見当たらず、早々に当日の警備計画の作成を、右大臣は
帝の代わりに重大な案件に、決裁ができる関白が参内された日は、怒涛のように各省から、それぞれの案件が出されるので、少しの時間の無駄も許されない、そんな雰囲気で満ち溢れていた。
関白の恐怖政治の復活と共に、滞っていた
「いやはや、うわさには聞いておりましたが、関白の施政に対する
「まったく。年老いてなお世の中を見通す、千里眼を持つかのごとき、知略と采配……」
朝議のあと、内裏を退出する中納言と参議、ふたりの公卿が、歩きながら関白のうわさをしていた。
実は新しい施政のほとんどが、葵の君の地獄の冬期講習と嘆きながら提出した課題を、関白と
「あれほどの御方が体調を悪くしたまま、儚くなっていらっしゃれば、国家にとって、どれほどの損失であったことか!」
「それだけを取っても、左大臣家の姫君は、国家に対する多大な貢献をなさいましたな」
中納言と参議は顔を見合わせ、深く頷き話を続ける。
「姫君の
「まあ、他の日は、なにかと立てこんでおります。
中納言は遠い目をしながら、公卿たちの北の方や姫君たちまで招くという、前例のない大規模で、もはや新しい儀式のような、左大臣家の姫君の
「畏れ多くも
「どの家も同じですなぁ。物入りな話ですが、めでたい席に恥はかきたくない、それに姫君の婿を探すよい機会だと、わが家も大騒動で……」
ああ、そう言えばこの人、年頃の姫君が七人くらいいなかったっけ? 中納言の家庭事情を、参議は思い出していた。確か一番上は十九歳だった気がする……。
帝に入内しても、中宮になれるほどの身分や家柄ではないし、かといって貴族であれば、誰でもよいという低い
第一、入内ともなれば、后妃の実家として、相当の物入りが確定する。自分に姫君が生まれても絶対に入内はやめて、優良株の貴族の子弟と結婚させようと、参議はいまから思っている。
大概の貴族の姫君が、十四~十六で結婚する、せねばならぬこの時代、中納言の一の君(長女、十九歳)は、十分に崖っぷちと言えた。
公卿(上位貴族)たちが、自分の眼鏡に見合う姫君の結婚相手を探すのは、中々に骨の折れる話で、一夫多妻制とは言え、惣領娘である姫君の先行きは、家の栄枯盛衰がかかっている。
「このたびの絶好の機会、最初で最後の機会と心得て絶対に優良株を逃すなと、姫君にも重々に話を……」
「ご苦労の多いことで……」
まだ正式な妻と結婚したばかりの参議と違い、
〈左大臣家〉
『やった――!!』
東の対にある昼御座の畳の上で、葵の君は目の前の蜂蜜がけプリンを食べようと握っていた、陶器の匙をぐっと握りしめ、内心で大声を出して喜んでいた。
前代未聞の『裳着の宴/北の方&姫君も御招待プラン』の返事が、
なんとかと
物凄く失礼なことを、返事を持ち帰った兄君に思う。
「三条の大宮を通して、ご縁のある左大臣家の姫君のためでしたら、是非に出席させていただきます」兄君は、そんな返事を持って帰ってきたのだ。
京中の貴族の女君と姫君のアイドル、兄君の
確かわたしより四~五歳、年上だったはず。できれば仲良くなっておこうと、葵の君は思う。
『そうすれば、怨霊はまだ分からないけど、生霊は大丈夫やん?』
「姫君、また祝いの品が……」
女房が呼ぶ声に、そそくさとプリンを食べ終えると、姫君は母屋に設けられた、『裳着祝い展示場』に、美しく袴を捌きながら急いで向かう。
自分たちは強力な護符のセットを、
実用品が一番だよねと、彼らは話をしていた。
桜の
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