第96話 月の消えた夜 3
「姫君をよく存じ上げているのは、度重なる“凶事”がもたらした偶然のゆえで、なにも
海外からの使節を泊める、迎賓館の役割を持つ“
「……
「人相見の見立ては、一言一句違わず、はじめの人相見と同じ、姫君のおっしゃった通りの結果でございました」
“第二皇子は帝となる人相なれど、皇子が帝となれば、世は乱れ、民草は苦しみに喘ぐ”
関白は、覚悟はしていたとはいえ、できれば外れて欲しかった、葵の君の“夢見”の通りの見立てに、眉をひそめていた。
一方その時、葵の君は僅かに意識があったが、なんだか疲れすぎて目を開けていられなかった。
『凄く頭が痛い。なんだろう……頭の中に誰かが無理矢理、入ってくるような感覚がする』
彼女はやがて本当に意識を失うと、
葵の君が再び目を覚ましたのは、真っ白な世界の中だった。これが世界最大の睡蓮? などと思い、見たこともない大きな
次に気がつくと、葵の君は狭い部屋にいて、なぜか大人になっていた。目の前には、やはり大人になった、さっきの美少年と思われる、嘘みたいに綺麗な男。自分に向かって彼は、さまざまな美辞麗句や歌を並べ立てている。
ピンときた。この男が『光源氏』だと。
そして彼の言葉に思いやりも心もないのは、前世で出会ったストーカーよりも見え見えだった。
恋愛経験がなかったとはいえ、そこは元大学生、ほぼ二十年の人生を送っていた中で、それなりに告られてみたり(女子>男子)ストーカーや痴漢など、色々なことも実際に経験は積んでいる。
末恐ろしい才に恵まれているとはいえ、まだ六歳。彼の口にしている宝石のように煌めく愛のセリフは、真心の『ま』の字の欠片もなく、ただの手管の使い回しでしかない、くだらない三文芝居であることを、彼女は易々と見抜き、こう思った。
『顔に嘘と書いてある』
ちなみに自分を車に引きずり込んで、連れ去ろうとしたストーカーの末路は、幼い頃から数々の全国大会に入賞し、大学では一番の最下級生、一回生から出直して? 部活に励んでいたわたしに肩関節を外された挙句、まだ喚きながら向かってきたので、同じく幼い頃から少林寺拳法に励み、世界大会にも目を向けている親友の
自分より弱い存在と踏んで、相手の気持ちにも配慮せず自分に酔って、か弱い女子相手に襲いかかるヤツなど、手加減する必要などない。
その時のわたしたちは、ストーカーを大怪我させていたが、なんの悔いも後悔もなく、清々しさを感じながら、殊勝な顔で、各所で心配されたり、お説教を受けていたりしていたものである。
そんな訳で、今現在、葵の君(葵)は光源氏に迫られながら思う。
『コレはなにかされたら、全力で反撃していいタイプだよね。わたしが好きなんじゃなくて、わたしを手に入れることが目的にしか思えないしさ。本体が六歳でも完全にセクハラ案件!』
なんで顔がよくて口がうまいだけで、女が手に入ると思うんだろう? 主人公補正? 皇子様だから? 作者(運命の女神)の推しメンだから?
母を失ったトラウマが物語のはじまりだったはずだけど、いまのところ
不意に、未来の葵の上の、
光源氏の未来の息子の命を宿し、生霊に取り憑かれる苦痛を味わう葵の上を置き去りに、この男は
それなのに、唐突に自分の胸の中に浮かび上がった、不可思議な感情に首を傾げる。それは、もしも自分が本当に十歳であったのならば、初恋とも一目惚れともいえる、ときめきとしか思えない感情だった。
胸に手を当てて少し考えて、これが“運命の女神”が光源氏に用意した、彼のための魔法で、『節操なしのロクデナシ』を愛してしまう“恋心の魔法”なんだろうと思った。
残念ながら、中身が入れ替わってしまっているせいか、話の粗筋を知っているせいか、わたしには効果はないケドね!
『へっ! 残念だったな! 取りあえず顔面にグーパンチしたい! せめて、早く目の前から消えて欲しい!』
どこかに出口はないの?! 葵の君は、檜扇を彼との間に広げて、あたりを見回してみるが、生憎、出口どころか、彼と自分の間を隔てる几帳すらない。ついに光源氏の手が薄暗い部屋の中で伸ばされ、腕を掴まれそうになる。
『コイツ、わたしをレイプしようとしてる!』
中身が二十歳の葵の君は、彼の行動をしっかり認識できたので、容赦なく対応することにした。
物語の中だと、ここまでくれば、姫君には抵抗する
『二度とわたしに触るな、サイテー男!』
光源氏を床に這いつくばらせて、逃げられないよう肩を膝でロックすると、もうひと
『あとで誰かに治してもらえ。寝相がとんでもなく悪かったとか、思われるだけだろうけどさ』
けれど、さすがに驚いたのか、慌てた顔の光源氏は元の美少年に戻り、姿はパツンと消えた。
『くそっ! 逃げられた!』
そう思いながら、まだ目をつむったまま、元の世界で目を覚ました葵の君は、もうひとつ大変なことに気がつき、長い睫毛がビクンと震えた。
『ひょっとして、さんざん生霊に怯えてたのに、まさか、いま自分が生霊になっていたの!?』
彼女は、いままで何度か、“
コマ送りのように自分が引き起こした“騒動”が、脳裏に次々と浮かぶ。
『せっかく
だって生霊の自分は、前のままの大人になってるみたいなの! しかもスマホもないのに、フィルター機能でもついてるのか、母君ソックリな模様! やったね!
つい照れてしまって、ちょっとだけ告白っぽいことを、いってみるくらいしかできなかった。あれじゃあ一生伝わらないよね! 馬鹿だ! わたしは馬と鹿だ! 超残念!
でもって
『生霊でもなんでもいいから、もう一度、大人の自分になれないか?』
葵の君は目を閉じたまま、強く念じてみたが、御祖父君の嫌みっぽい『大宰府』と、『
わたしが大宰府送りにしたいのは
「人相見が、人相見が本当にそんなことを?! あと、わたくしと
「……ほう、葵の君は、
「あ、でも、わたくしが勝手に押しかけただけで、ちゃんと何事もなく、送り返して頂きまし……あれ?」
御祖父君は見たこともない冷たい顔をしていて、視線の先はいつの間にか、自分を憧れのお姫様抱っこをしてくれている、沈痛な表情の
どうやら驚きのあまり、致命的な失敗をしてしまったらしい……。遠くから聞こえる騒ぎは父君が起こしているようで、騒ぎは段々大きくなっている。さっきの記憶からして、どうせろくなことではない。
「……話せば長くなりますが……」
「もうよい、取りあえず、いまから大宰府にゆけ」
「駄目! 駄目です! それは駄目!」
葵の君は自分の失敗に大いに慌てた。光源氏より、いまは
「もちろん葵の君は悪くない。すべて、わたくしを含めた周りの大人が悪い。浮世離れした大宮と、それにいいなりの左大臣に、教育を任せきりにしたばかりに、姫君には常識を教える者がいなかった……」
関白は「この世の終わり」そんな表情で、葵の君を、なだめていたが、東の対の騒ぎに女房を呼び、様子を見にゆかせようとしたその時、紫苑が慌て走ってきて、葵の君に耳打ちする。うしろには“六”。
紫苑の手には、美しい箱に入った帝からの手紙と、花が咲いた桜の枝。枝には唐紙が結ばれていた。
真っ青になった孫娘の顔を、関白は心配そうに見つめながら紫苑に問う。
「いかがした?」
「さ、先程、帝から
そんな言葉を口にしながら、紫苑は左大臣は
「嫌な予感しかせぬのう」
関白は目を細めて怪訝な顔をしたまま、紫苑が持ってきた、自分宛の美しい箱を手に取る。
葵の君を抱き上げたままだった
『やっぱり、腕の一本でも折っておけばよかった!』
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