第96話 月の消えた夜 3

 中務卿なかつかさきょうは、帝から口止めをされていたが、姫君の命と第二皇子の人生など、天秤にかける気すらなかった。


「姫君をよく存じ上げているのは、度重なる“凶事”がもたらした偶然のゆえで、なにもやましいことはございません。それよりも今朝方、わたくしも同行いたしました第二皇子の“東鴻臚館ひがしこうろかん”での件を、ご報告申し上げます」


 海外からの使節を泊める、迎賓館の役割を持つ“東鴻臚館ひがしこうろかん”を持ちだした彼の話に、関白はピンときて、追求するのを一旦、取り止めた。


「……高麗人こまうどの人相見が、昼過ぎに京をたったのは耳にしておる。して結果は?」


「人相見の見立ては、一言一句違わず、はじめの人相見と同じ、姫君のおっしゃった通りの結果でございました」


“第二皇子は帝となる人相なれど、皇子が帝となれば、世は乱れ、民草は苦しみに喘ぐ”


 関白は、覚悟はしていたとはいえ、できれば外れて欲しかった、葵の君の“夢見”の通りの見立てに、眉をひそめていた。


 一方その時、葵の君は僅かに意識があったが、なんだか疲れすぎて目を開けていられなかった。


『凄く頭が痛い。なんだろう……頭の中に誰かが無理矢理、入ってくるような感覚がする』


 彼女はやがて本当に意識を失うと、夢現ゆめうつつの混濁の中に深く沈み込む。


 葵の君が再び目を覚ましたのは、真っ白な世界の中だった。これが世界最大の睡蓮? などと思い、見たこともない大きなはちすの上で、どうしたものかと、とまどいながら立っていると、嘘くさい笑みを浮かべた元服前の美少年が近づいてきた。


 次に気がつくと、葵の君は狭い部屋にいて、なぜか大人になっていた。目の前には、やはり大人になった、さっきの美少年と思われる、嘘みたいに綺麗な男。自分に向かって彼は、さまざまな美辞麗句や歌を並べ立てている。


 ピンときた。この男が『光源氏』だと。


 そして彼の言葉に思いやりも心もないのは、前世で出会ったストーカーよりも見え見えだった。


 恋愛経験がなかったとはいえ、そこは元大学生、ほぼ二十年の人生を送っていた中で、それなりに告られてみたり(女子>男子)ストーカーや痴漢など、色々なことも実際に経験は積んでいる。


 末恐ろしい才に恵まれているとはいえ、まだ六歳。彼の口にしている宝石のように煌めく愛のセリフは、真心の『ま』の字の欠片もなく、ただの手管の使い回しでしかない、くだらない三文芝居であることを、彼女は易々と見抜き、こう思った。


『顔に嘘と書いてある』


 ちなみに自分を車に引きずり込んで、連れ去ろうとしたストーカーの末路は、幼い頃から数々の全国大会に入賞し、大学では一番の最下級生、一回生から出直して? 部活に励んでいたわたしに肩関節を外された挙句、まだ喚きながら向かってきたので、同じく幼い頃から少林寺拳法に励み、世界大会にも目を向けている親友の花音かのんちゃんの強烈な蹴りを鳩尾にまともに受けて、骨に大きなヒビが入り、気絶して地面に転がっていたが。


 自分より弱い存在と踏んで、相手の気持ちにも配慮せず自分に酔って、か弱い女子相手に襲いかかるヤツなど、手加減する必要などない。


 その時のわたしたちは、ストーカーを大怪我させていたが、なんの悔いも後悔もなく、清々しさを感じながら、殊勝な顔で、各所で心配されたり、お説教を受けていたりしていたものである。


 そんな訳で、今現在、葵の君(葵)は光源氏に迫られながら思う。


『コレはなにかされたら、全力で反撃していいタイプだよね。わたしが好きなんじゃなくて、わたしを手に入れることが目的にしか思えないしさ。本体が六歳でも完全にセクハラ案件!』


 なんで顔がよくて口がうまいだけで、女が手に入ると思うんだろう? 主人公補正? 皇子様だから? 作者(運命の女神)の推しメンだから?


 母を失ったトラウマが物語のはじまりだったはずだけど、いまのところ桐壺更衣きりつぼのこういは元気そうだし、ふたりで仲良く後宮で暮らしていればいいのに!


 不意に、未来の葵の上の、 今際いまわきわが脳裏に浮かぶ。

 光源氏の未来の息子の命を宿し、生霊に取り憑かれる苦痛を味わう葵の上を置き去りに、この男は六条御息所ろくじょうのみやすどころの元に通っていた。(どうしようもないというか、つける薬がないというか!)


 それなのに、唐突に自分の胸の中に浮かび上がった、不可思議な感情に首を傾げる。それは、もしも自分が本当に十歳であったのならば、初恋とも一目惚れともいえる、ときめきとしか思えない感情だった。


 胸に手を当てて少し考えて、これが“運命の女神”が光源氏に用意した、彼のための魔法で、『節操なしのロクデナシ』を愛してしまう“恋心の魔法”なんだろうと思った。


 残念ながら、中身が入れ替わってしまっているせいか、話の粗筋を知っているせいか、わたしには効果はないケドね!


『へっ! 残念だったな! 取りあえず顔面にグーパンチしたい! せめて、早く目の前から消えて欲しい!』


 どこかに出口はないの?! 葵の君は、檜扇を彼との間に広げて、あたりを見回してみるが、生憎、出口どころか、彼と自分の間を隔てる几帳すらない。ついに光源氏の手が薄暗い部屋の中で伸ばされ、腕を掴まれそうになる。


『コイツ、わたしをレイプしようとしてる!』


 中身が二十歳の葵の君は、彼の行動をしっかり認識できたので、容赦なく対応することにした。


 物語の中だと、ここまでくれば、姫君には抵抗するすべはないが、そこは昔取った杵柄とばかり、葵の君は条件反射で腕を掴まれる寸前に、体が覚えている合氣道の座り技をガッチリかけて、相手が悪かったなと思いながら、セリフを決める。


『二度とわたしに触るな、サイテー男!』


 女童めわら事件での不名誉を、挽回するまではゆかないが、彼を見下ろしながら、少し自信が戻る。


 光源氏を床に這いつくばらせて、逃げられないよう肩を膝でロックすると、もうひとひねりして、肩関節を完全に外そうと、両腕で搾り上げる。


『あとで誰かに治してもらえ。寝相がとんでもなく悪かったとか、思われるだけだろうけどさ』


 けれど、さすがに驚いたのか、慌てた顔の光源氏は元の美少年に戻り、姿はパツンと消えた。


『くそっ! 逃げられた!』


 そう思いながら、まだ目をつむったまま、元の世界で目を覚ました葵の君は、もうひとつ大変なことに気がつき、長い睫毛がビクンと震えた。


『ひょっとして、さんざん生霊に怯えてたのに、まさか、いま自分が生霊になっていたの?!』


 彼女は、いままで何度か、“天香桂花てんこうけいかの君”として、もれ出した? 時は記憶になかったのに、よく分からない光源氏との出会いに加え、今回は腹が立ち過ぎたのか、左大臣に詰め寄った記憶がキチンと残っていた。


 コマ送りのように自分が引き起こした“騒動”が、脳裏に次々と浮かぶ。


『せっかく中務卿なかつかさきょうに告白するチャンスだったのに!』


 だって生霊の自分は、前のままの大人になってるみたいなの! しかもスマホもないのに、フィルター機能でもついてるのか、母君ソックリな模様! やったね!


 つい照れてしまって、ちょっとだけ告白っぽいことを、いってみるくらいしかできなかった。あれじゃあ一生伝わらないよね! 馬鹿だ! わたしは馬と鹿だ! 超残念!


 でもって中務卿なかつかさきょうは、生霊の自分を見知っている様子だった。


『生霊でもなんでもいいから、もう一度、大人の自分になれないか?』


 葵の君は目を閉じたまま、強く念じてみたが、御祖父君の嫌みっぽい『大宰府』と、『高麗人こまうどの人相見』の言葉が何度も耳に入り、パチリと目を開けて大いに慌てて口を開く。


 わたしが大宰府送りにしたいのは兵部卿宮ひょうぶきょうのみやで、中務卿なかつかさきょうじゃない!


「人相見が、人相見が本当にそんなことを?! あと、わたくしと中務卿なかつかさきょうは、本当になにもないです! やかたに押しかけたのも、わたくしの勝手で!」

「……ほう、葵の君は、中務卿なかつかさきょうのやかたに行ったことがあるのか?」

「あ、でも、わたくしが勝手に押しかけただけで、ちゃんと何事もなく、送り返して頂きまし……あれ?」


 御祖父君は見たこともない冷たい顔をしていて、視線の先はいつの間にか、自分を憧れのお姫様抱っこをしてくれている、沈痛な表情の中務卿なかつかさきょう


 どうやら驚きのあまり、致命的な失敗をしてしまったらしい……。遠くから聞こえる騒ぎは父君が起こしているようで、騒ぎは段々大きくなっている。さっきの記憶からして、どうせろくなことではない。


「……話せば長くなりますが……」

「もうよい、取りあえず、いまから大宰府にゆけ」


 中務卿なかつかさきょうの言葉に、関白はそう冷たく答えた。


「駄目! 駄目です! それは駄目!」


 葵の君は自分の失敗に大いに慌てた。光源氏より、いまは中務卿なかつかさきょうのことが優先である。


 女童めわら事件の本当の出来事を言えば、いまよりも怒られるし、それだけでは済まないのは分かっているけど、まだ裳着もぎもしていなかったのに、別に近所の親戚の家くらい行ったっていいじゃないか! 大体、ちょっと髪型と衣装が変わるだけだし! 結局、いまだって、まだ十歳なんだし!


「もちろん葵の君は悪くない。すべて、わたくしを含めた周りの大人が悪い。浮世離れした大宮と、それにいいなりの左大臣に、教育を任せきりにしたばかりに、姫君には常識を教える者がいなかった……」


 関白は「この世の終わり」そんな表情で、葵の君を、なだめていたが、東の対の騒ぎに女房を呼び、様子を見にゆかせようとしたその時、紫苑が慌て走ってきて、葵の君に耳打ちする。うしろには“六”。


 紫苑の手には、美しい箱に入った帝からの手紙と、花が咲いた桜の枝。枝には唐紙が結ばれていた。


 真っ青になった孫娘の顔を、関白は心配そうに見つめながら紫苑に問う。


「いかがした?」

「さ、先程、帝からふみが二通届き、こちらは人払いをされていたので、ひとまず東の対へ届きましてございます。ただ、姫君にも第二皇子からふみが届き、それで、えっと、こちらに持って行くようにと! 大宮も内容を是非にうかがいたいと、おっしゃっていましたが、なにやら左大臣のご様子がおかしく、ひとまず、そちらをなだめていらっしゃいます!」


 そんな言葉を口にしながら、紫苑は左大臣はたぬき川獺かわうそにでも、取り憑かれたんじゃないかと思っていた。


「嫌な予感しかせぬのう」


 関白は目を細めて怪訝な顔をしたまま、紫苑が持ってきた、自分宛の美しい箱を手に取る。


 葵の君を抱き上げたままだった中務卿なかつかさきょうも、腕を不自然に強張らせて、“桜の枝”を見つめているし、葵の君は、さっきの悪夢を思い出し、露骨に嫌な顔をしながら思う。


『やっぱり、腕の一本でも折っておけばよかった!』


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