第95話 月の消えた夜 2
やや時間を置いて、姫君の瞳から光のしずくのような涙が、ポロポロとこぼれ落ちる。
それを見た
姫君が落ちつきを取り戻すと共に、金色の光は淡くなり、どんどん透き通りゆく。
悲し気な姫君の涙を拭おうと差し出した手は、空をかすっただけで、触れることはできなかった。それでも、なだめるように、あやすように、大丈夫だと言葉をかけ続ける。
いつの間にか
『この世界はほとんど馬鹿ばかりね。血筋や外見ばかりで判断して、不思議とも思わず生きている。光源氏より
姫君が不愉快そうに口にした言葉に、
「それで良いのですよ」
『どうして?』
姫君は不服気に自分を睨んでいた。
「表面上だけ取り繕った言葉など、どんな意味がございましょう。それに、こんな世界だからこそ、わたくしは姫君のように、美しい魂を容易に知ることができました」
『変な人、
ひどい言草だと、彼は少し笑ってしまった。
「理もなき虚飾と
彼はそう言いながら、その言葉が本心であることに少し心の中で驚いた。そう思うことで、周囲の雑音を遮断してきた人生であったが、なにひとつ気にならなかったといえば嘘になる。だが、いま自分自身がいった通り、この姫君に出会うための、先払いであったと思えば安い物であった。
『ずるい人ね……』
姫君はすっかり機嫌を損ねたような、少し気を取り直したような、そんな複雑な表情だったが、左大臣を追いかける気はなくなった様子で、彼は安堵する。
自分に言わせれば、ごく普通の考えの左大臣に、怒っている姫君の方が“変な人”なのだけれど、また機嫌を損ねそうなので、それは黙っておいた。
「そんな顔をしていると、生霊と間違われますよ? そういえば、姫君が“夢見”の正体ですか?」
『そうだともいえるし、そうではないかもしれない。“Panta Rhei” 万物は流転しているから。でもこれだけは覚えていて“光源氏”だけは駄目よ……』
姫君は自分の問いに、ただ思いつめたような表情で彼にそう告げ、やがて消えゆこうとする。
「わたくしが葵の君の盾となり、お守りしています。貴女はわたくしの大切な方だから、わたくしの
驚いた表情を浮かべた姫君は、溶けるように消える間際に、こちらも驚いた表情の彼の頬に口づけの真似事をし、それから跡形もなく消えた。姫君がいた証拠は自分を包むように漂う、葵の君と同じ睡蓮の薫り。
『Mon chéri/モン・シェリ/愛おしい
姫君の発した言葉の意味は分からぬまま、彼はただ立ち尽くしていた。
そして引っかかった彼女の言葉。
『光源氏……』
姫君は“光る君”でも“第二皇子”でもなく“光源氏”と呼んだ。それは言うまでもなく、彼が自分と同じく皇子の身分からいずれは臣下に下り『無品親王』となることをあらわす。
姫君の言いようは、葵の君の“夢見”とは違い、まるで彼女の手の中に、彼の運命が物語のように書き記されている、そんな一歩踏み込んだ口振りであった。姫君は葵の君よりも、より深くなにかを知っているのかもしれない。あるいは、葵の君もなにかを知りながら、隠しているのか?
彼が考え込んでいると、少しの間を置いて、関白の腕の中で葵の君が目を覚ました。思わず駆け寄った彼に、幼い姫君はポロポロと涙を流しながら、彼の首にしがみついていた。
姫君を抱き上げて、小さな背中をなだめるように撫ぜ続ける。葵の君は彼にとって心から大切な家族であった。姫君の幸せが自分の幸せである。泣き顔を見ているのは辛い。
「大丈夫ですから、どうぞご安心下さい」
「……はい」
一瞬、葵の君の瞳の中に、
この幼い姫君を守ることは、姫君の幻の中に住む、あの方を守ることなのだ。彼の胸の内には複雑に、無意識のうちに、二種類の愛が交差しながら螺旋を描く。
彼はしばらく姫君を心配して見つめていたが、関白の存在を思い出して、かなり面倒なことになったと思う。彼の視線は鋭かった。
「そなたは葵の君と、もうひとりの姫君と、ずいぶん親密であるな……説明してもらわねば、あるいは釈明か? 夜も更けたが、いまから大宰府にゆくか?」
「…………」
「今時の常識でも、ちと説明がつかぬのではないか?」
「…………」
関白は暗に右大臣が言っていた“今時の時代の変化”を
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