第95話 月の消えた夜 2

 やや時間を置いて、姫君の瞳から光のしずくのような涙が、ポロポロとこぼれ落ちる。

 それを見た中務卿なかつかさきょうは、天香桂花てんこうけいかの君が、葵の君に憑依した『神仏』でも、誰かを恨みに思って現れる『生霊』でもなく、“葵の君が気づかぬままに”体から溢れた姫君自身、もしくは未来の姫君であると、なぜか確信した。


 姫君が落ちつきを取り戻すと共に、金色の光は淡くなり、どんどん透き通りゆく。


 悲し気な姫君の涙を拭おうと差し出した手は、空をかすっただけで、触れることはできなかった。それでも、なだめるように、あやすように、大丈夫だと言葉をかけ続ける。


 いつの間にか朧月夜おぼろづきよが浮かんでいた夜空からは月も星も光を消し、桜雨が降り出す。どのくらいの時がたったのか、やがて天香桂花てんこうけいかの君は、きまり悪げに御自分の足元に視線を向けていた。少し伸びた髪が彼女の肩先で揺れている。


『この世界はほとんど馬鹿ばかりね。血筋や外見ばかりで判断して、不思議とも思わず生きている。光源氏より貴方あなたの方が、よほど尊いと分かろうとも、気づこうともしない……』


 姫君が不愉快そうに口にした言葉に、中務卿なかつかさきょうは、小さく苦笑する。


「それで良いのですよ」


『どうして?』


 姫君は不服気に自分を睨んでいた。黒蒼玉ブラック・サファイアのように煌めく瞳には、いら立ちの炎。それでも天香桂花てんこうけいかの君は愛らしかった。感情が素直に出ている可愛らしさに小さく笑ってしまう。


「表面上だけ取り繕った言葉など、どんな意味がございましょう。それに、こんな世界だからこそ、わたくしは姫君のように、美しい魂を容易に知ることができました」


『変な人、貴方あなたは腹が立たないの?』


 ひどい言草だと、彼は少し笑ってしまった。


「理もなき虚飾と塵芥ちりあくたの言葉など、なんの意味がございましょう。あるいは貴女あなたと巡り会うために、先に生じた苦難でしょう」


 彼はそう言いながら、その言葉が本心であることに少し心の中で驚いた。そう思うことで、周囲の雑音を遮断してきた人生であったが、なにひとつ気にならなかったといえば嘘になる。だが、いま自分自身がいった通り、この姫君に出会うための、先払いであったと思えば安い物であった。


『ずるい人ね……』


 姫君はすっかり機嫌を損ねたような、少し気を取り直したような、そんな複雑な表情だったが、左大臣を追いかける気はなくなった様子で、彼は安堵する。


 自分に言わせれば、ごく普通の考えの左大臣に、怒っている姫君の方が“変な人”なのだけれど、また機嫌を損ねそうなので、それは黙っておいた。


「そんな顔をしていると、生霊と間違われますよ? そういえば、姫君が“夢見”の正体ですか?」


 中務卿なかつかさきょうは思い切ってたずねる。彼女が葵の君の“千里眼”とでもいうような、慧眼けいがんの正体なのだろうか?


『そうだともいえるし、そうではないかもしれない。“Panta Rhei” 万物は流転しているから。でもこれだけは覚えていて“光源氏”だけは駄目よ……』


 姫君は自分の問いに、ただ思いつめたような表情で彼にそう告げ、やがて消えゆこうとする。


 中務卿なかつかさきょうも、これだけは確かなことだと、真剣な表情で姫君に誓った。


「わたくしが葵の君の盾となり、お守りしています。貴女はわたくしの大切な方だから、わたくしの天香桂花てんこうけいかの君」


 驚いた表情を浮かべた姫君は、溶けるように消える間際に、こちらも驚いた表情の彼の頬に口づけの真似事をし、それから跡形もなく消えた。姫君がいた証拠は自分を包むように漂う、葵の君と同じ睡蓮の薫り。


『Mon chéri/モン・シェリ/愛おしいひと


 姫君の発した言葉の意味は分からぬまま、彼はただ立ち尽くしていた。


 そして引っかかった彼女の言葉。


『光源氏……』


 姫君は“光る君”でも“第二皇子”でもなく“光源氏”と呼んだ。それは言うまでもなく、彼が自分と同じく皇子の身分からいずれは臣下に下り『無品親王』となることをあらわす。


 姫君の言いようは、葵の君の“夢見”とは違い、まるで彼女の手の中に、彼の運命が物語のように書き記されている、そんな一歩踏み込んだ口振りであった。姫君は葵の君よりも、より深くなにかを知っているのかもしれない。あるいは、葵の君もなにかを知りながら、隠しているのか?


 彼が考え込んでいると、少しの間を置いて、関白の腕の中で葵の君が目を覚ました。思わず駆け寄った彼に、幼い姫君はポロポロと涙を流しながら、彼の首にしがみついていた。


 姫君を抱き上げて、小さな背中をなだめるように撫ぜ続ける。葵の君は彼にとって心から大切な家族であった。姫君の幸せが自分の幸せである。泣き顔を見ているのは辛い。


「大丈夫ですから、どうぞご安心下さい」

「……はい」


 中務卿なかつかさきょうは、そっと姫君の涙をぬぐう。姫君の滑らかな頬は暖かかった。


 一瞬、葵の君の瞳の中に、天香桂花てんこうけいかの君の存在を感じたが、姫君は疲れたのか、再び瞼を閉じて眠ってしまう。


 この幼い姫君を守ることは、姫君の幻の中に住む、あの方を守ることなのだ。彼の胸の内には複雑に、無意識のうちに、二種類の愛が交差しながら螺旋を描く。


 彼はしばらく姫君を心配して見つめていたが、関白の存在を思い出して、かなり面倒なことになったと思う。彼の視線は鋭かった。


「そなたは葵の君と、もうひとりの姫君と、ずいぶん親密であるな……説明してもらわねば、あるいは釈明か? 夜も更けたが、いまから大宰府にゆくか?」

「…………」

「今時の常識でも、ちと説明がつかぬのではないか?」

「…………」


 関白は暗に右大臣が言っていた“今時の時代の変化”を揶揄やゆする。中務卿なかつかさきょうは、注意深く言葉を選ぼうとするが、葵の君と天香桂花てんこうけいかの君との、不可思議な因縁と、姫君の安全性を、端的に説明するのは難しく、ひとまずは自分と葵の君との関係を、誤解のないようにせねばと思いながら、訪れた好機に高麗人こまうどの人相見の件を話すことにした。


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