第94話 月の消えた夜 1

〈 左大臣家/時系列は、右大臣が左大臣家を出て、奔走していた夜に戻る 〉


『気がついたら義理の母君と、顔も見たこともない妹君が、ふたりも増えていた』


 慌ただしく去って行った右大臣に蔵人少将くろうどのしょうしょうは、安堵のため息をつくと同時に、十歳になったばかりの妹君が考えだしたとは思えない、驚天動地きょうてんどうちの考えに、ただ驚きながら、そんなことを考えていた。


 関白が官吏を下がらせてしまったので、目の前では中務卿なかつかさきょうが、自分で黙々と戸籍を編纂へんさんしてある分厚い台帳に、変更を書き入れている。彼も、いまの話を聞いていたはずだが、怜悧な横顔からは、なにを考えているか分からなかった。


 実のところ、無表情な中務卿なかつかさきょうは、朝の東鴻臚館ひがしこうろかんの件を、どうやって関白に伝えたものかと思いながら、“摂関政治”の真骨頂しんこっちょうともいえる“血”でまつりごとを絡め取ろうとする姫君に、内心舌を巻いていた。


 これが発表されれば、一旦は大騒動になることは目に見えているが、正妻に姫君がなき場合、他の妻や自分の血筋に生まれた姫君を、嫡流の養女として迎え、実の娘として育てることは大貴族の間では、ままある話。


 葵の君の提案は、あからさま過ぎるが、手続き的には問題がない。それに今回の場合、そもそも隠す必要のない高貴な出自の姫君たちゆえ、後々どこからも非難される要素もない。


 姫君たちの存在は、世代的にいえば、兄君しか身内のない葵の君の大きな助けになり、摂関家の発展に大きく寄与するだろう。葵の君は自分自身が、一旦、后妃から外れることによって、先々の摂関家の拡大と繁栄を選んだようだ。


 姫君が国母として立つ意思がないのは、臣下としては残念ではあるが、身にまといつく影を振り払い、関白に生き写しの姫君の能力が、尚侍ないしのかみとして発揮されるのであれば、それはそれで国にとって、直近の大きな救済となろう。彼はそんなことを思いながら、筆を動かしていた。


そんなことを考えている中務卿をよそに、葵の上は、兄君をからかう。


「ひょっとして、兄君は六条御息所ろくじょうのみやすどころと、ご結婚なさりたかったのですか?」

「それは違う!」


 いきなり妹君が増えて、驚いていた蔵人少将くろうどのしょうしょうは、葵の君の透き通った声に、我に返り慌てて返事を返す。


 多分、美しい人だったんだろうけれど、どちらかといえば、少し安堵していた。(彼は内裏で元舅になった右大臣に、愚痴を言われ続ける人生に、内心ではかなり怯えていた。)


「四の君と仲良くなさって下さいね」

「あ、うん……」


 なんだか妹君の口調に、不穏なものを感じた彼は、僕はこれでと、そそくさと寝殿をあとにして、西の対に消える。


 左大臣は左大臣で、あまりの急な話の数々に驚いていたが、元々、彼の人生は大宮と結婚し家庭を築いたことで、ひとまずの大団円を迎えていたため、あとは、ほとんどオマケの人生であった。


 関白が葵の君の能力を、高く評価しているのに大いに満足し、この先ものんびりとした人生を送れそうな雰囲気に心から喜ぶ。しかし、知らぬこととはいえ、ふと思いついたことを口にする。


「ああ、それでは葵の君は、光る君に入内するのですか? それもよいかと思います。それは美しい皇子で才があり……」

「嫌です、それだけはありません」


 自慢のひとり娘と光る君が並んだ姿は、さぞ美しかろうと思ったのに、肝心の姫君の顔は凍りつき、冷たい言葉を口にして却下する。


「いやいや、更衣の産んだ皇子と、あなどられているのかも知れぬが、あの尊い美しさは、余程に前世の徳が……」


 政務にはまったく頓着のない左大臣は、今風の平安貴族の発想で第二皇子のことを、かばうような発言をし、彼を強く推薦しはじめたが、それは葵の君にとって最大の『禁句』であり、彼女自身が自覚していない、幼い葵の君の魂に収まりきらず、見え隠れしながら存在する、『天香桂花てんこうけいかの君/葵』の逆鱗に触れた。


『ソレが一番、嫌なんや――!』


 葵の君は心の中で絶叫し、父君に抗議するべく、思わず御簾の向こうへ出たが、怒りのあまり記憶が飛び、その場で崩れ落ちた。


 気がつけば『天香桂花てんこうけいかの君/葵』は倒れた姫君の前に、まるで彼女が葵の君に取り憑いた“生霊”とでも言うように、くっきりと浮かび上がり、淡い金色の光をまとったまま、左大臣に詰め寄ってゆく。


『そなた、父親であるにも関わらず、わらわを殺す気か!』

『かような事態を招いたのも、そもそも、そなたの大きな責任ぞ?!』

『このれ者が!!』


 天香桂花てんこうけいかの君である“葵”は、逃げようとする左大臣のゆく手を塞ぎ、語気を荒げて強くののしる。


 実のところ、実体化した“葵”はキレッキレの関西弁で、怒鳴り散らしていたのだが、伝わった言葉は不思議と上品だった。


「ひ、ひぃ……!」


 姫君から浮かび上がり、まなじりを上げて自分に詰め寄る、大宮とよく似た顔の妙齢の姫君に、左大臣は怯え、驚きのあまり、その場で体を震わせることしかできなかった。


 さすがの関白も、これは姫君に取り憑いた怨霊か、はたまた日頃“薬師如来の具現”として姫君に加護をもたらしている、神仏の実態なのか、大いに迷い、倒れたままの幼い葵の君を抱き起そうとするが、姫君の瞳は閉じたまま、ぐったりとしていた。


『アンタが顔で選んで、結婚させたせいで、葵の上は死んだんやで? ふざけてんのか!? この馬鹿タレ!』


 自分が時々、葵の君から、はみ出して天香桂花てんこうけいかの君になっていることすら、気がついていない“葵”は、憤懣ふんまんやる方なし! そんなオーラ全開で、貴族の姫君が一生出すこともない、前世の彼女にとっては、部活で出しまくっていた、腹の底からの大声で、左大臣に不満を声高に言いつのっていた。


 常日頃から、気性の荒い弘徽殿女御こきでんのにょうごの相手をしている右大臣であれば、言葉巧みに気を逸らすことも、ひょっとしてできたかもしれなかったが、温和で柔和な人柄がよいだけの左大臣に、そんな芸当ができる訳もなく、左大臣にとって彼女は姫君に取り憑いた、恐ろしい怨霊にしか思えなかった。


 その場で唯一、天香桂花てんこうけいかの君の存在を知っていた中務卿なかつかさきょうは、姫君の余りの剣幕に、左大臣の息の根が止まりそうだと見て、慌てて彼を素早く引きずって、姫君から引き離す。


「誰ぞおらぬか、誰ぞ! 怨霊が……! 僧侶を、そうりょ……!」


 左大臣はけつまろびつ、ほうほうの体で、人払いをした寝殿から東の対に向かって姿を消す。そんな左大臣に視線をやって、中務卿なかつかさきょうは、そう言えば姫君を知っているのは、自分と“六”だけであると気がついた。


「姫君、どうか落ち着いて下さい! どうぞ心を穏やかに。あなたを誰にも傷つけはさせません」


 中務卿なかつかさきょうは、逃げた左大臣を、なおも追おうとする姫君を、思わずうしろから抱き留めようとするが、姫君は幻の存在になっていて、のばした手は空を切るばかり。


『光る君は駄目よ、それだけは駄目……』


 それでも天香桂花てんこうけいかの君は、自分がかけた言葉に気づいて振り向くと、うつろな表情でそう繰り返す。


「ご安心を、大丈夫です。落ちついて……わたしが分りますか?」


 中務卿なかつかさきょうが、じっと姫君を見つめていると、我に返ったのか、姫君は自分を悲し気な顔で見つめた。無言で頷いたところを見ると、姫君は自分を覚えていたらしい。


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