第93話 彼方とのつながり 3

 帝は参内している関白に手紙をことづけがてら、光る君の話を軽くしてみようと思われたが、運悪く行き違い、すでに彼は内裏から帰ってしまっていた。


 さすがに関白をこのような軽々しい理由で呼び戻す訳にもゆかず、登華殿とうかでんに葵の君の出仕準備のために、先乗りしている御園命婦を呼びにゆかせると、必ず届けるようにと、ことづけることにした。目の前で平伏していた命婦は一瞬、光る君に視線を走らせ、かしこまって引き受けると、清涼殿を後にする。


 一旦、退出の用意をするために、登華殿とうかでんに帰った命婦に、同じく左大臣家から先に出仕している女房の長門ながとが声をかけた。


 長門ながとは姫君に頼まれて、後宮の后妃たちや内侍司ないししの主だった女官吏たちの情報をまとめている。彼女はこの度の出仕に際し、関白が厳選した有能な女房のひとりで、博士である父をして、男であってくれたならと言わしめ、命婦からの信頼も厚い存在であった。


 大宮が内親王時代とは、かなり様子も変わっているであろうとの、姫君の仰せである。(本当のところは、怨霊対策のための意味も多分にあった。)


「まあまあ、命婦様にふみが?」


 命婦が帝に呼び出しを受けたのは知っていたので、違うことが分かっていながら女房は、わざと軽口をいう。命婦は辺りを見回してから声を潜めて応じた。


「帝からのいつもの便りに、今回はなんと第二皇子から姫君へのふみもあるのよ。“摂関家”のうしろ盾は、かの皇子にとっては喉から手が出るほど、欲しい物なのでしょうね」


 身も蓋もない事実を述べてから、あまり乗り気がしない命婦は、わざわざ着替えまではじめる。


「その桜、枯れてしまいますよ?」


 命婦の言葉を聞いた女房は、そう言いながら、薄く笑う。


 命婦は桐壺更衣きりつぼのこういつぼねをはじめ、光る君に夢中の、宮中の女房たちが聞けば、憤慨することは間違いなしの言葉を、さらりと口にする。


「まあ、仕方がないわ。左大臣家に一度、戻ってきます」

「ご苦労なことでございます」


 光る君からふみをもらえる幸せは、代えがたい出来事だと、彼女たちなら思ったであろうが、幼き頃より“日の元に舞い降りた輝ける内親王”と呼ばれた大宮に仕え、なにより母君に瓜ふたつな上に、御仏の具現とも言われるほどに尊い、葵の君の存在を知る命婦には、第二皇子のいわゆる“営業スマイル”は通用していなかった。


 第二皇子がどれほどに美しく、大人顔負けの才に長けていようと、彼女たちにとっての主人は三条の大宮であり、葵の君であった。特に摂関家につらなる女房たちは、宮中の女房たちとは犬猿の仲。


 第二皇子からのふみを持って、命婦が遅い足取りで出発したあと、女房の長門ながとは少し考えてから、皇后宮職こうごうぐうしきの別当に使いを出し、登華殿とうかでんにつながる渡殿を、夜には完全に仕切るための扉を用意してもらえるように手配を願いでる。


 かの皇子は世にまれな美しさと、そら恐ろしい才を持ち合わせると聞き及ぶが、彼女は関白から第二皇子には、重々注意を払うようにとの通達を、先日受けていた。それに、いまはまだ六歳だが時の流れは速い。


 あと数年もすれば、なにが起きるか分かったものではない。姫君の出仕はそう長くはないとは聞いてはいるが、任期が定まっておらぬ以上、姫君の出仕前のいまのうちに、登華殿とうかでんの警備は固くしておいた方がよいと考えた。


「奥まった位置ゆえに、用のない者が立ち寄ることもなく、特に必要はないであろうと思うが?」


 早速やってきて、不思議そうな顔でそう言う別当に、すかさず女房は答える。


「物事をわきまえられた方々だけなら、そうでしょうが、姫君見たさの興味本位で、他の後宮の女房にツテを求める“不心得者”が、いつ現れるやも知れませぬ。雄猫一匹たりとも許すわけには参りません」


 そんな返事を返した女房に、別当は彼女の主家に対する忠義の姿勢に好感を抱く。

 彼は日頃、源典侍げんのないしのすけのような血筋がよいだけで、役に立たない女官吏に辟易していたので、主人が言わずとも先回りして細やかな心配りができる女房に感心する。


「言われてみれば、確かに興味本位で不心得者が現れたあとでは遅い。手配させましょう」


 愛想よくそう言った彼は、皇后宮職こうごうぐうしきに戻ると手配をした。実のところ、登華殿とうかでんに関しては摂関家がすべて負担してくれ、朝廷からの出費は一切ないので気楽なものである。


 所用で清涼殿に向かっていると、珍しく桐壺更衣きりつぼのこういと第二皇子が、向かいからやってきた。彼はうやうやしく頭を下げて、やり過ごしながら、特に夜は帝が手放さぬ桐壺更衣きりつぼのこういが、夕刻に自分のつぼねに帰る光景に、珍しいこともあるものだと思った。


 その日の夜、桐壺更衣きりつぼのこういは、光る君の左右に振り分けて結んである、肩から少し伸びた美しい黒髪を撫ぜながら、嬉しそうな口調で言う。


「姫君からの返歌が楽しみですね」


 光る君は、母君の言葉に愛想笑いをしてから、歌をみあったり楽器を合わせてみたり、久しぶりに嬉しく楽しい夜を過ごしていた。返事がきても当然であるけれど、手に入れたあとの楽しみはともかく、彼女自身にまったく興味はなかったのである。


 女房たちが声をかけた。


「そう言えば、左大臣家から届いた“蒸し菓子/プリン”はいかがですか?」

「今日か明日の朝には、お召し上がり下さいとのことでした。唐菓子より、とても体にもよいとか」


「せっかく母君がいらっしゃるのだから、出しておくれ」


 光る君が嬉しそうに言い、ふたりの前に、美しい朱塗りの箱に白磁の器に入った“蒸し菓子/プリン”が用意される。


 白い陶器の匙がついている。黄色い蒸し菓子の上に、月の光のような蜂蜜が美しく浮かぶ菓子。


 母君は目を丸くして、のぞき込んでいらっしゃる。これを考案したのが、本当に左大臣家の姫君だとすれば、とりあえず趣味の点では及第点だなと、光る君は差し出された匙を受け取りながらそう思う。


「まあ、まるで満月のように、綺麗な菓子だこと……」

「美味しい……」


 母君がうっとりと、ながめている間に、珍しく光る君は子供らしい様子で、あっという間に食べてしまっていた。甘いものは元々、貴重品な上、“蒸し菓子/プリン”ははじめてだった。


「まあまあ、とても気に入ったのね」


 桐壺更衣はそう言うと、少し恥ずかしそうにする皇子に、ご自分の分もとすすめる。彼は遠慮するが、母君が育ち盛りなのですからと言われ、嬉しそうにされているので、結局ふたつとも食べていた。


 夜、母君と一緒に寝所で横になりながら、光る君はふと思う。


『母君は驚くほど、物を召し上がらない……』


 それは女君のたしなみとして、正しいことではあるのだけれど、母君は心配になるほど、ほとんどなにも口にしない。この間、宿下がりから帰られてからは、特にそうだと思い当たりながら、夢の中に旅立っていた。


 彼が眠っていると夢の中に、母君によく似た年若い姫君、高貴で気位高く手に入れられれば、きっと自尊心をくすぐられる女君、幼くも母君の面影を持った姫君、さまざまな女君や姫君が現れては消える。


 どれもこれも母君と比べれば物足りぬが、出会えば手に入れたくなる、そんな魅力的な女君や姫君ばかりであった。自分が未来に出会う姫君たちなのだろうか? 光る君は、しばし甘い夢に酔う。けれど、どの姫君にも満足はできなかった。なぜなら彼女たちは“母君”ではなかったから。


 やがて自分より少し年上に見える、見たこともないくらい美しい姫君が現れた。非の打ちどころなく、なぜか自分にうしろめたさを覚えさせる姫君。まるで御仏の化身でもあるかのように、美しい姫君は、はちすの上に、尊い姿で佇んでいた。自分にはこれが“葵の君”かと、なぜかすぐに分かる。


『煌めく黒蒼玉ブラック・サファイアの瞳』『星々の輝きが降り注ぐ夜の射干玉ぬばたまが流れ出したような美しい黒髪』『薬師如来の具現』


 これならばと姫君の肩書に納得し、そして残念に思う。明るく健やかで強ささえ感じる美しい輝きよりも、弱々しく息も絶え絶えに消えゆきそうな、そんなはかなさの方が、余程、姫君を引き立てるだろうにと。


 目が合った次の瞬間、彼女と自分は驚いたことに、急に大人になっていて、誰もいない母君の小さなつぼねにふたりきり。ニッコリとほほえんだ自分に、姫君はなぜか毛虫でも見たような顔で、大いに顔をしかめた。


 ほめそやされて育った彼は、姫君の反応には違和感しかなかったが、後宮で育ち、帝の母君に対する寵愛を、こと細かにうわさする女房たちに囲まれて育った彼は、どうすれば自分が姫君を手に入れられるのかを知っていた。


 気を取り直し、姫君にまことしやかに愛をささやき、嘘で固めた真実の愛の歌をんで聞かせる。


 胸が高鳴るというのは、こういうことなのだろう。すべてに恵まれ、御仏が創り出したような美しい姫君を、手に入れられることに、神聖で手の届かぬ世界から、引きずり下ろすことに興奮する。そしてこの姫君と自分の間には、なぜか尋常ならぬ前世からの因縁を感じ、ますます興味が沸いた。


 なんとしてでも姫君を手に入れ、思い通りにしようと、甘い言葉を重ねてから腕を伸ばし、側に引き寄せようと手を伸ばす。


「貴女とわたくしは出会うために生まれた……わっ!」


 次の瞬間、なぜか光る君は床に押しつけられていた。姫君の両腕に抱え上げられた右腕が、酷い痛みをともなってきしむ。


「痛い!」


『この姫君は陰陽寮にいると聞く、不気味な白い陰陽師のように、呪法を使えるのだろうか? この状況で抵抗するなんて、なんと無礼でおもむきも情緒も常識もない姫君なんだ!』


 光る君は皇子である自分への酷い振る舞いを注意しようとすると、姫君は、あろうことか捨てゼリフまで残して、煙のように姿を消した。


『二度とわたしに触るな、サイテー男!』


 あまりのことに言い返せず、彼の耳の中には、その言葉がずっとコダマしていた。


「失礼な……変な女……」


 不機嫌な顔で寝言を言っている光る君の顔を、ふと目が覚めた桐壺更衣きりつぼのこういは、不思議そうにのぞいていた。珍しいこともあるものだと思う。彼はいつも笑顔を絶やさない子だったから。


***


〈 刈安守かりやすのかみのやかた/裳着もぎの翌日 〉


 光る君の心配は、くしくも刈安守かりやすのかみの病弱な妹君、つるばみの君の年老いた女房のソレと同じであった。


「まあ、またなにも召し上がっていらっしゃらない!」

「大丈夫よ、貴女が多く用意しすぎるのよ。少しは食べているし、引っ越しをしてからは、とても体が楽だから」


 妹君はそう言い、夜が更けたにも関わらず、昨日の左大臣家の姫君の裳着の儀式があった夜更け、兄君が大路で見た絵巻物のような牛車行列の話を、またしてくれと、せがんでいるのであった。刈安守かりやすのかみが困った顔で口を開こうとしていると、家人が至急の知らせを持ってくる。


「すまない、少し出かけてくるよ」

「まあ、誰か病人が?」

「そうだろうね、なるべく早く帰るけれど、体に障ってはいけないから、すぐに休みなさい」


 彼は妹君にそう言い残して、屋敷をあとにした。相変わらず評判のよい彼は忙しく、元いた羅城門に近い屋敷は、閉鎖されたまま佇んでいた。

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