第93話 彼方とのつながり 3
帝は参内している関白に手紙をことづけがてら、光る君の話を軽くしてみようと思われたが、運悪く行き違い、すでに彼は内裏から帰ってしまっていた。
さすがに関白をこのような軽々しい理由で呼び戻す訳にもゆかず、
一旦、退出の用意をするために、
大宮が内親王時代とは、かなり様子も変わっているであろうとの、姫君の仰せである。(本当のところは、怨霊対策のための意味も多分にあった。)
「まあまあ、命婦様に
命婦が帝に呼び出しを受けたのは知っていたので、違うことが分かっていながら女房は、わざと軽口をいう。命婦は辺りを見回してから声を潜めて応じた。
「帝からのいつもの便りに、今回はなんと第二皇子から姫君への
身も蓋もない事実を述べてから、あまり乗り気がしない命婦は、わざわざ着替えまではじめる。
「その桜、枯れてしまいますよ?」
命婦の言葉を聞いた女房は、そう言いながら、薄く笑う。
命婦は
「まあ、仕方がないわ。左大臣家に一度、戻ってきます」
「ご苦労なことでございます」
光る君から
第二皇子がどれほどに美しく、大人顔負けの才に長けていようと、彼女たちにとっての主人は三条の大宮であり、葵の君であった。特に摂関家につらなる女房たちは、宮中の女房たちとは犬猿の仲。
第二皇子からの
かの皇子は世にまれな美しさと、そら恐ろしい才を持ち合わせると聞き及ぶが、彼女は関白から第二皇子には、重々注意を払うようにとの通達を、先日受けていた。それに、いまはまだ六歳だが時の流れは速い。
あと数年もすれば、なにが起きるか分かったものではない。姫君の出仕はそう長くはないとは聞いてはいるが、任期が定まっておらぬ以上、姫君の出仕前のいまのうちに、
「奥まった位置ゆえに、用のない者が立ち寄ることもなく、特に必要はないであろうと思うが?」
早速やってきて、不思議そうな顔でそう言う別当に、すかさず女房は答える。
「物事をわきまえられた方々だけなら、そうでしょうが、姫君見たさの興味本位で、他の後宮の女房にツテを求める“不心得者”が、いつ現れるやも知れませぬ。雄猫一匹たりとも許すわけには参りません」
そんな返事を返した女房に、別当は彼女の主家に対する忠義の姿勢に好感を抱く。
彼は日頃、
「言われてみれば、確かに興味本位で不心得者が現れたあとでは遅い。手配させましょう」
愛想よくそう言った彼は、
所用で清涼殿に向かっていると、珍しく
その日の夜、
「姫君からの返歌が楽しみですね」
光る君は、母君の言葉に愛想笑いをしてから、歌を
女房たちが声をかけた。
「そう言えば、左大臣家から届いた“蒸し菓子/プリン”はいかがですか?」
「今日か明日の朝には、お召し上がり下さいとのことでした。唐菓子より、とても体にもよいとか」
「せっかく母君がいらっしゃるのだから、出しておくれ」
光る君が嬉しそうに言い、ふたりの前に、美しい朱塗りの箱に白磁の器に入った“蒸し菓子/プリン”が用意される。
白い陶器の匙がついている。黄色い蒸し菓子の上に、月の光のような蜂蜜が美しく浮かぶ菓子。
母君は目を丸くして、のぞき込んでいらっしゃる。これを考案したのが、本当に左大臣家の姫君だとすれば、とりあえず趣味の点では及第点だなと、光る君は差し出された匙を受け取りながらそう思う。
「まあ、まるで満月のように、綺麗な菓子だこと……」
「美味しい……」
母君がうっとりと、ながめている間に、珍しく光る君は子供らしい様子で、あっという間に食べてしまっていた。甘いものは元々、貴重品な上、“蒸し菓子/プリン”ははじめてだった。
「まあまあ、とても気に入ったのね」
桐壺更衣はそう言うと、少し恥ずかしそうにする皇子に、ご自分の分もとすすめる。彼は遠慮するが、母君が育ち盛りなのですからと言われ、嬉しそうにされているので、結局ふたつとも食べていた。
夜、母君と一緒に寝所で横になりながら、光る君はふと思う。
『母君は驚くほど、物を召し上がらない……』
それは女君のたしなみとして、正しいことではあるのだけれど、母君は心配になるほど、ほとんどなにも口にしない。この間、宿下がりから帰られてからは、特にそうだと思い当たりながら、夢の中に旅立っていた。
彼が眠っていると夢の中に、母君によく似た年若い姫君、高貴で気位高く手に入れられれば、きっと自尊心をくすぐられる女君、幼くも母君の面影を持った姫君、さまざまな女君や姫君が現れては消える。
どれもこれも母君と比べれば物足りぬが、出会えば手に入れたくなる、そんな魅力的な女君や姫君ばかりであった。自分が未来に出会う姫君たちなのだろうか? 光る君は、しばし甘い夢に酔う。けれど、どの姫君にも満足はできなかった。なぜなら彼女たちは“母君”ではなかったから。
やがて自分より少し年上に見える、見たこともないくらい美しい姫君が現れた。非の打ちどころなく、なぜか自分にうしろめたさを覚えさせる姫君。まるで御仏の化身でもあるかのように、美しい姫君は、
『煌めく
これならばと姫君の肩書に納得し、そして残念に思う。明るく健やかで強ささえ感じる美しい輝きよりも、弱々しく息も絶え絶えに消えゆきそうな、そんな
目が合った次の瞬間、彼女と自分は驚いたことに、急に大人になっていて、誰もいない母君の小さな
ほめそやされて育った彼は、姫君の反応には違和感しかなかったが、後宮で育ち、帝の母君に対する寵愛を、こと細かにうわさする女房たちに囲まれて育った彼は、どうすれば自分が姫君を手に入れられるのかを知っていた。
気を取り直し、姫君にまことしやかに愛をささやき、嘘で固めた真実の愛の歌を
胸が高鳴るというのは、こういうことなのだろう。すべてに恵まれ、御仏が創り出したような美しい姫君を、手に入れられることに、神聖で手の届かぬ世界から、引きずり下ろすことに興奮する。そしてこの姫君と自分の間には、なぜか尋常ならぬ前世からの因縁を感じ、ますます興味が沸いた。
なんとしてでも姫君を手に入れ、思い通りにしようと、甘い言葉を重ねてから腕を伸ばし、側に引き寄せようと手を伸ばす。
「貴女とわたくしは出会うために生まれた……わっ!」
次の瞬間、なぜか光る君は床に押しつけられていた。姫君の両腕に抱え上げられた右腕が、酷い痛みをともなってきしむ。
「痛い!」
『この姫君は陰陽寮にいると聞く、不気味な白い陰陽師のように、呪法を使えるのだろうか? この状況で抵抗するなんて、なんと無礼でおもむきも情緒も常識もない姫君なんだ!』
光る君は皇子である自分への酷い振る舞いを注意しようとすると、姫君は、あろうことか捨てゼリフまで残して、煙のように姿を消した。
『二度とわたしに触るな、サイテー男!』
あまりのことに言い返せず、彼の耳の中には、その言葉がずっとコダマしていた。
「失礼な……変な女……」
不機嫌な顔で寝言を言っている光る君の顔を、ふと目が覚めた
***
〈
光る君の心配は、くしくも
「まあ、またなにも召し上がっていらっしゃらない!」
「大丈夫よ、貴女が多く用意しすぎるのよ。少しは食べているし、引っ越しをしてからは、とても体が楽だから」
妹君はそう言い、夜が更けたにも関わらず、昨日の左大臣家の姫君の裳着の儀式があった夜更け、兄君が大路で見た絵巻物のような牛車行列の話を、またしてくれと、せがんでいるのであった。
「すまない、少し出かけてくるよ」
「まあ、誰か病人が?」
「そうだろうね、なるべく早く帰るけれど、体に障ってはいけないから、すぐに休みなさい」
彼は妹君にそう言い残して、屋敷をあとにした。相変わらず評判のよい彼は忙しく、元いた羅城門に近い屋敷は、閉鎖されたまま佇んでいた。
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