第92話 彼方とのつながり 2

 一方の光る君は、帝と母君のいる清涼殿に再び顔を出していた。


「こちらへ」


 帝に機嫌よく声をかけられて、彼はニッコリとほほえむ。自分の笑顔が周囲にもたらす効果を、彼は六歳にして自覚していた。


 あの弘徽殿女御こきでんのにょうごですら、タイミングを計って笑顔を見せれば、決まりの悪い顔をして、嫌みを引っ込めるほどである。彼にとって母君以外に見せる笑顔は、“武器と手段”であった。


 帝は光る君の笑顔に、上機嫌で彼を側近くに呼ぶ。近くでは女房が何種類もある美しい唐紙を取り揃え、硯箱すずりばこを準備していた。


貴方あなたから左大臣家の姫君に、ふみを出されてはと思ってね」

「左大臣家の姫君ですか?」


 昨夜の左大臣家の姫君の裳着もぎには、帝をはじめ、母君や京に住む貴族という貴族は、こぞって使者を立てて贈り物をしていたが、なぜに自分がふみを出さねばならないのだろう?


 不思議そうな自分の顔に気づいたのか、母君が優しくおっしゃった。


「いま、帝が関白と妹君の三条の大宮へ、ふみをしたためられていらっしゃるの。せっかくだから、光る君からも、姫君にふみを送られてはどうかと、おっしゃられております」


貴方あなたの近しい従妹いとこであり、摂関家のただひとりの姫君。尚侍ないしのかみとしての出仕にあたり“わたくしの女三宮”が、ご一緒なのは心強いだろうが、評判の高い第二皇子である、光る君からのふみが届けば、さぞ喜ばれ親しみを覚えられるであろう。第一皇子のうわさは、右大臣や兄君から充分に伝わっているだろうが、光る君とはあまり縁がない。一度、ふみを送っておくのもよいと思ってね」


『そんなんいらんわ! いらんことしいか!?』


 帝は葵の君が聞けば、そう絶叫して、首根っこを掴みにゆきそうな言葉を、のんきに言いながら、自分が選んだ唐紙に、さらさらとふみんでいた。


 第一皇子を東宮にすることを心に決めたいま、せめて彼に『摂関家』のうしろ盾だけは、用意してやりたかった。こうしてやんわりと頼んでおけば、姫君が出仕されたあとは、会いさえすれば、きっと姫君は光る君に夢中になることであろう。こんなに素晴らしく、なにもかもに秀でた存在なのだから。


 帝は周囲が自分に対して配慮してくれることが、当然の立場であるがゆえに、この時の余裕があとで後悔を呼ぶことには、気づいていなかった。


 光る君は、東宮位に対する帝の考えは知らぬものの、少し考えると、今後の自分と母君にとって、葵の君を手に入れることが、先々においても大切なことだと、やすやすと気がつく。


“わたくしの女三宮”いまだ、そう呼んでしまうほど、帝は妹君である、左大臣家の北の方になった三条の大宮を、大切に思われている。


 その帝が自分と左大臣家の姫君との婚儀を匂わす手紙を、幾度となく三条の大宮に送っても、年齢ゆえにまだ結婚の話など、三条の大宮の頭にはない様子で、まだ色良い返事はないと聞く。(何分まだ自分は六歳になったばかり、そんなものであろう。)


 光る君としては、彼女が出仕すれば、あちらからの挨拶にくるだろうし、それからでも十分だと思っていたが、考えてみれば彼女の兄である蔵人少将くろうどのしょうしょうは、右大臣家の婿のひとりである。


 元々、姫君と第一皇子は、年の差がほとんどなく、普通に考えれば東宮位に一番近い、右大臣を外戚に持つ第一皇子と、摂関家の姫君は、政治的にも年齢的にも、似合いの組み合わせ。


 彼女が出仕してからでは、少し遅いのかもしれない。


『左大臣家の姫君は“摂関家”のうしろ盾は、必ず手に入れねばならぬ』


 その時の光る君は、欲しくもない菓子を、オマケ欲しさに購入して、菓子を捨ててしまう、そんな現代社会にいるワガママな子供と同じ気分だった。欲しいのは“摂関家”のうしろ盾。


 中身が二十歳の葵の君が“ランドセルの色はピンク! キラキラがついているヤツ!”そんなことを言っていた年頃のはずの彼は、彼女がいつもやっているように、実年齢に十を足してなお、さかしさがうかがえる、才に溢れた少年であった。彼はそつなく言う。


「まだ十歳なのに裳着もぎを終え、尚侍ないしのかみとして出仕される評判の高い姫君にふみを出すなど緊張いたします」


 そう言いながら、光る君が浮かべた少しはにかんだ美しい表情に、唐紙を用意していた女房は、年甲斐もなく胸が高鳴らせながら、彼の側に硯箱すずりばこを用意した。帝と光る君に、ここまでしてもらえる左大臣家の姫君は、なんと幸せな姫君なのだろうと思う。


 光る君は淡い青磁色せいじいろに雲鶴の透かしの浮かぶ唐紙を選び、さらさらとなにやら書いてから、庭に咲く桜の枝を一本、所望した。


 帝と母君は内容を知りたがったが、彼は「恥ずかしいので内緒です」などと子供らしいことを言って、唐紙を丁寧に折り、桜の葉に見立てて結ぶ。青磁色の唐紙は、とても美しく、その趣味のよさを、帝は大層に褒められた。


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