第91話 彼方とのつながり 1

〈 桐壺更衣のつぼね/桜のうたげの夜、あるいは葵の君の裳着もぎの夜 〉


 光る君は、母君のいなくなった夜のつぼねで、ひとり夜空を見上げていた。


 物心ついてから母君は、ほとんどの夜を帝と過ごしているため、彼は特に感傷もなく、いつも通り、自分を甘やかす女房たちのうちから、少し母君に面影の似た、お気に入りの女房を選び、子供が母を慕う、そんな無邪気な様子でほほえみかけ、彼女に添い寝するように命じる。


 彼にとって母君以外の女は、この女房のように、母君の代わりに自分を癒すための“暖かなぬいぐるみ”のような存在だった。母君だけが尊く、そして彼のすべてだった。


 三歳のあの日、意識のない母君と一緒に、御所をあとにした日の夜を、彼は恐怖と共にずっと胸の内に抱えている。広々として、みすぼらしいやかた。どんどん青白くなってゆく母君、泣くだけで、なにもできぬ外祖母。現れた不気味な法師。


「母君……」


 そう呟いて、一瞬、身震いした彼は、添い寝をしている女房の胸に顔を埋めて、暖かさを実感すると、そのままウトウトと眠りにつく。


 瞼を閉じた光る君に添い寝をしている女房は、彼を優しく抱きしめて髪を梳いた。しばらくして静かな寝息が、彼女の耳に聞こえる。


 なんと美しい皇子であろうか……。光輝くような腕の中の皇子の寝顔に、彼女はため息をつく。帝が宝物のように扱われるのも当然だと思った。この世に存在するのが不思議なほどである。


 桜のうたげで皇子の舞を見た女房たちは、それこそ、この世のものではない有難さを覚えたと、皆で涙していた。今宵、左大臣家の姫君の裳着もぎがなければ、後宮でも楽しいうたげがあったのにと残念に思う。


「きっと、評判の高い左大臣家の姫君も、皇子と並べば霞んでしまうわね……」


 彼女は、ひとり言のように、桐壺更衣と光る君にかしづいて暮らす女房たちの総意を呟き、光る君をもう一度、腕の中に抱き寄せて、彼女も眠り込んでしまった。


 翌日、夜も明けきらぬ頃、光る君は、かねてより帝に言われていた通り、蔵人所くろうどどころの別当と、中務卿なかつかさきょうにつき添われ、外交使節である東鴻臚館ひがしこうろかんへ密かにゆくと、帝が手配していた高麗人こまうどの人相見と会っていた。


(異国の人間を御所に上げるのは、禁忌であるがゆえ、わざわざ出向くことになっていたのだ。)


 人相見は光る君の顔を見た途端、はっとした表情を浮かべると、しばらくの間、食い入るように見入る。彼はやがて、以前に光る君の人相を見た、国内の高名な人相見と同じことを、同行したふたりに告げた。


 蔵人所くろうどどころの別当と共に、光る君のうしろに控えていた中務卿なかつかさきょうは、その言葉にまぶたを閉じる。告げられた言葉は一字一句違わず、姫君がおっしゃった言葉。


“第二皇子は帝となる人相なれど、皇子が帝となれば、世は乱れ、民草は苦しみに喘ぐ”


 それから高麗人こまうどの人相見は、光る君が詠んだ素晴らしい歌に感動し、帝が手配した多額の謝礼に深く礼を述べると、東鴻臚館ひがしこうろかんをあとにして、国への帰路につき、光る君の一行も密かに御所に戻ると、清涼殿で知らせを待ちかねていた帝に対面した。


 人払いをした清涼殿で、高麗人こまうどの人相見が、紙にしたためた結果に目を通していた帝は、しばし沈黙していたが、光る君の頭を撫ぜて、母君のつぼねに帰るように優しく言い、彼の姿が見えなくなると、供をしたふたりには、この件は口外せぬようにと命じ、下がらせてから深く考え込む。やがて女房を呼ぶと桐壺更衣きりつぼのこういを呼びにゆかせた。


「お呼びとうかがい参上いたしま……」


 控えめに挨拶をしている彼女の姿を見ていると、帝は先程の結果と自分の判断を、彼女にどう伝えたものかと思い、思わず抱き寄せていた。


 彼自身が自分の最愛の人との間にできた、美しく聡明な皇子を是が非でも東宮に押し立てたかったのに、寂しいことに、それだけは諦めねばならぬようだった。


 高麗人こまうどの人相見の結果が前回と違い、光る君が帝となる人相であり、平穏に国を統治するという結果を口にしていてくれさえすれば、それを口実に彼を東宮位に就ける算段もしていた。


 第一皇子と違い、実家のあと押しがなくとも、彼自身の持つ、そら恐ろしいほどの才と美しさ、そして自分の妹君が生んだ葵の君を、正式に彼の東宮妃として迎えれば、第一皇子よりも劣る後見の部分でも、なんとかなると思っていた。


 やがてやってきた女房たちにも構わず、桐壺更衣きりつぼのこういを抱きしめ続けていた帝は、彼女だけが聞こえるくらいの小さな声でささやく。


「近いうちにわたくしは重い判断を下さねばならぬが、東宮位を光る君に用意できぬ時は、貴女はわたくしを恨むだろうか?」

「……」


 桐壺更衣きりつぼのこういは帝を見つめたまま、そっと彼の頬に手を伸ばし、包み込んだまま、顔を左右に振る。東宮位すら望まぬ、彼女の控えめな態度に帝は感激し、いつものように一日中、桐壺更衣きりつぼのこういとの時間を過ごしていた。


『光る君に東宮位は用意してやれぬが、それ以外のすべてを用意してあげたい』


 それが、桐壺更衣への愛に、すべてを奉げながらも、わずかに残った国を統治する者としての彼の判断だった。


 夕方、再び清涼殿に呼ばれた光る君は、通り道にある広い弘徽殿こきでんの前を、さっさと通り抜ける。弘徽殿女御こきでんのにょうごは留守なのか、なんの嫌みも飛んでこなかった。



 光る君の予想に反して、弘徽殿女御こきでんのにょうごは、右大臣から四の君の話を手紙で知らされて、檜扇をいつものように、ストレス解消とばかりに床に投げ打ってバラバラにしたあと、三条の大宮へ口添えをとの手紙を送るか送るまいかと、御殿の奥で悩んでいる最中であったのである。


 目の前には第一皇子が心配そうに座っていた。帝の周囲には、第二皇子には遠く及ばぬ存在と言われているが、実父である右大臣ですら持て余し地味の弘徽殿女御こきでんのにょうごを密かに助け、これ以上、立場が悪くならぬように、バランスをとっているのは、心根の優しい彼であった。


 右大臣からの手紙には、とりあえず四の君のことは、知らぬ振りをしていてくれと書いてあった。あまり近しい縁がある訳でもない大宮に、とりなしを頼んでも関白を刺激して、藪蛇になってはいけない。そう右大臣は考えていた。そして、そのくらいは理解できるが、妹君を心配する彼女は迷っていた。


 先日頂いた左大臣家からの礼状には、かなりの好印象を自分に持って頂いている様子であった。わたくしが使者を立てれば、少しは四の君の手助けになるのではなかろうか? 迷うばかりであったが、彼女は大切な第一皇子、朱雀の君の言葉に我に返る。


「わたくしたちよりも右大臣の方が事情や関係を、深く御存知でしょうから、ひとまずは、右大臣の言う通りになさっては?」


 皇子は右大臣からの手紙に目を通して、そう言いつつ丁寧に畳みなおした。


「その方がよいかしら……」


 朱雀の君がそうおっしゃったので、彼女は迷うのを止め、一度、父君である右大臣に任せることにした。


 思えば渋る自分を皇子が説き伏せ、葵の君の病平癒の一行に帝の代参として同行したことで、左大臣家の自分への印象もよくなったのだ。そして思いがけず、左大臣家からの礼状の下に、葵の君から第一皇子へのふみを見つけた。


「あら? まあまあ、なんということでしょう!」


 女御はニッコリと笑うと、朱雀の君に姫君からのふみを、興味津々な様子を見せながら手渡す。


 母君や女房たちの態度に、いささか困った顔をしてから、彼は葵の君からのふみを開けた。


 そこにはとても十歳とは思えない、美しく伸びやかな筆の跡で、もうすぐ出仕できるのも、病の折に第一皇子である自分が代参して下さったおかげ、畏れ多いことながら、出仕後に改めて御挨拶したい、そう書かれていた。


 彼は姫君の心づかいに小さくほほえんだ。あまりの愛らしさと賢さゆえに、彼は、光る君を恨んだことはないけれど、母君以外の誰かに、光る君よりも先に気をつかってもらうのは、久しぶりだったので嬉しかったのだ。


「姫君は、とても細やかな心づかいのできる方ですね」

「なんと書いてあるの?」

「ただの挨拶ですよ」


 母君がとても読みたそうにしていたが、朱雀の君は本当のことを言うと、ふみを持ち、自分の御殿に帰ってゆく。彼はその後、母君や女房たちが姫君からの手紙の内容で、大いに盛り上がっていたことは、ついぞ知らなかった。


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