第97話 月の消えた夜 4
『夢といい、
葵の君は、紫苑の言葉を聞いた瞬間、まだ六歳になったばかりの夢? で出会った光る君を、心の中で思わず罵倒する。(絶対さっきの美少年は光源氏に決定!)
自分が先手々々を打ってきたはずが、運命の女神が主人公の光源氏を哀れに思い、手を貸している様子が透けて見えて、不愉快極まりなかった。
そんなことより国庫の財政を、なんとかしてくれと葵の君は思ったが、ここは元はといえば、世界最古の長編恋愛小説の世界。運命の女神は国内情勢よりも、光源氏の恋愛物語が大切な様子であった。
『くそっ!』
帝から何度か母君に届いていたらしき、それとなく自分を光る君の結婚相手にと、ほのめかしている
葵の君は桜の枝に結ばれた
「姫君にとのことです!」
「聞こえています……」
紫苑は興奮している。無理もない、皇子様からの手紙だもんね……。事情を知っている大人ふたりは、先程までの剣呑な空気を忘れて、自分を心配そうに見ている。
葵の君は、とりあえず
「これ、開けても大丈夫でしょうか?」
少し離れたところで、うつむいたまま控えていた“六”に視線を向け、念のために確かめようと、
『いっそ、呪いでもかかっていれば、よかったのに』
そう思いながら葵の君は、渋々、枝から綺麗な唐紙の料紙を取り外した。
『六歳が書いたとは思えない綺麗な字! そして恋の歌! 十を足しても、十六歳! せいぜい高一くらいなのに!』
【
唐紙の上には美しく綴られた恋の歌。
とても初々しく、見たこともない葵の君への、憧れと恋の歌が
『完全にイキってる! けっ!』
それが感想のすべてであった。
『きっと、元の葵の君でも、そう思ったんじゃない? だって六歳だよ?』
元の葵の君は、光る君の美しさに、自分の年齢の釣り合わなさを、恥じたはずなのに、いま現在の葵の君は、そんな夢のない感想を抱いて、ブーたれただけであった。
『帝の手紙にくっつけといて、なにが“こっそり”なの?! ふざけてんの?!』
そう思いながら桜の枝と共に、料紙をそのへんに放り出す。
『無視! 断固無視!……と言う訳にもいかないかなぁ……。いかないよねぇ、一応まだ皇子だし。早く臣下になればいいのに、そうすれば摂関家の力で、なんとでも……』
奥歯が砕けそうなほど、ぐっと噛みしめた。怒り心頭のあまり体が小さく震える。
「第一皇子に先んじての先制か、抜け目のないことよ……」
さっきまで大宰府、大宰府とうるさかった関白も、我に返って自分宛の
そのあとすぐに、姫君が放り出していた料紙を手に取り、目を通してから、更に
「大宮と違って、わたしがこの
「その上、葵の君の父君である左大臣は、光る君を大の贔屓になさっておりますゆえ、左大臣が知れば狂喜乱舞、と言ったところでございますな」
その口調は
「東の対を出て、ここにくるまでに誰かに見られたか?」
「え? いいえ、人払いがされているので、東の対を出てからは誰も……」
不思議そうな顔の紫苑から、彼は恐ろしさのあまり、小さく震えている姫君に視線を移し、覚悟を決めて口を開く。
「そなたは姫君の
「え? それは、そうですけれど、それがなにか?」
「よいか、姫君の命に係わることが起きる。姫君が大切ならば、いまから関白の指示に従え」
それを聞いて、関白は顔をしかめる。なぜなら彼には
「そなたの頭が切れるのは知っておるが、その行動力は、この先は控えてもらわねばならぬぞ?」
案の定、関白が自分の意図を察したと、理解した
「では、関白の許しを得て、いまを持って姫君は、このわたくし、“
「え……?」
葵の君は、ただ茫然と固まり、彼の顔を見上げていた。
『今更だけど、名前、初めて知った! って、ええっ?!』
混乱した葵の君が抱き上げられたまま、御祖父君の方に顔を向けると、彼は渋い顔のまま。
「大宰府に行かせたければ、姫君も連れてゆきます。あとはよろしく頼みました。それでは!」
関白にそう言い残した
もちろん車止めに行くまで、左大臣家の警備の者は何人もいたが、元皇子であり、公卿である彼の余りにも自然な態度に、止め立てするのも気が引けていたし、姫君がまったく嫌がる素振りもなかったので、これはもう御結婚への暗黙の了解ができていたのだろうと、彼らは気をきかせ、牛飼い童に随身や供人が多数同行する彼の牛車行列に門を開け、行列を見送ってから再び門を閉じて、やはりよい家柄の姫君の御結婚は早いなぁと、のんきにうわさ話をしていた。
一方、寝殿で茫然としていた紫苑は“六”にたずねられて、御神刀の場所を教えながら、慌てて、刀置きの下に隠してある姫君が、個人的に所有する財産目録の書状が入った箱を、一緒に持って行くように耳打ちをする。
紫苑は“六”が御神刀と小箱を抱えて姿を消すと、渋い顔の関白に、言われるままのことを、間違いなく言えるように一生懸命に覚えながら、手早く指示通りに動く。
こんなに真剣になったのは人生ではじめてだった。畏れ多くも帝からの
なんだか分からないけれど、自分の行動に姫君の命がかかっているらしい。帝の命令より『姫君の命』紫苑は、もちろんそう思った。
やがて東の対から、大宮が
「一体、
東の対で騒ぎを起こしていた左大臣は、こちらへくる前に“六”が彼を眠らせようかと思ったが、先に大宮が手配した
「いや、気にせず、気にせず。先程の出来事に驚き過ぎただけです。葵の君に、御仏の御告げがあり、あの体たらく、まったく面目ない」
困惑を隠せない大宮の問いに、関白は、今日は絶対に、自分の残り少ない寿命が縮んだと確信し、腹をくくって、いつも通りに平然とした態度でそう答えると、大宮は大きくため息をついた。
「まあそんなことがあったとは、でも、驚くとはいえ吉兆ですわね。何事もなくようございました。それとお読み頂いたことと思いますが、先程、帝と皇子からの
そう言う大宮に、紫苑が申し訳なさそうに口を開く。根が素直な彼女は嘘をつくことに、心臓がバクバクしていた。
「申し訳ありません……実は途中で転んでしまい、いま届けたところなんです……」
大宮が目をやると、関白宛ての
「まあまあ、そこまで慌てなくてもよかったのに。怪我はありませんか?」
どうせ自分あてのと、そう変わらない内容だろうと思っていた大宮は鷹揚に言い、今一度、口を開いた。
「あの、姫君はどこに?」
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