第98話 月の消えた夜 5

「葵の君は、先程、中務卿なかつかさきょうが連れてゆきました」

「えっ、あの、一体どういうことでしょう……」

「先程の御仏の御告げは、姫君が自分と母君の受けた恩を忘れ、后妃となれば不運に身を落とし、不幸な一生を送る。しかし恩を忘れずに、高望みをせず身をつつしめば、姫君はもちろんのこと、家運も上昇するというものでした。そのような訳で、葵の君は后妃ではなく、中務卿なかつかさきょうの北の方になるのがよかろうと、摂関家の当主として、わたくしが判断し、決定させて頂きました」


 あまりの出来事に、大宮は絶句して気を失いそうになり、かろうじて御息所みやすどころに支えられていたが、関白はなんとかこの場を取り繕い、話を丸く収めるために努力する。


 こうなっては仕方がない。葵の君の“夢見”が当たっていた以上、姫君の命のために第二皇子との婚儀は、必ずや阻止せねばならぬし、なにより中務卿なかつかさきょうが独断で、さっさと姫君を連れて行ってしまっている。


 このまま姫君を連れ戻したとしても、一旦、中務卿なかつかさきょうのやかたに連れてゆかれたという事実は、隠しきれるものではなく、摂関家の体裁と面目のためにも、自分が判断を下し、中務卿なかつかさきょうとの婚儀の許可を出したと、押し切るしかなかった。


 いまさら誰が反対したとて、姫君が男に連れられて、やかたを出たという既成事実がある以上、皇子に后妃として入内するなど、天地がひっくり返ってもない話であり、それが中務卿なかつかさきょうの狙いだと、関白は理解していた。


 それに第二皇子が"夢見"通りに、中務卿なかつかさきょうと同じ無品親王となれば、葵の君が内裏で力を持つ公卿である中務卿なかつかさきょうの『正妻/北の方』の地位に納まっていれば、臣下に降りた第二皇子を恐れることはない。


 大宰府へ行けと思ったのは本音であるが、彼を外せば国家の大きな歯車が欠けてしまうのも、これまた周知の事実。


 しかし案の定、御息所みやすどころも大宮も、頬を赤らめて口元を押さえていた。通い婚が主流であり、自然消滅による離婚も珍しくなかったこの時代、男君が自分の『やかた』に姫君を連れて帰るのは、相当な覚悟であり、格段に大切な扱いの証明ではあるが、当主の了解があるとはいえ、摂関家の姫君が、ここまで慣例を無視して、駆け落ち同様の結婚をするのは前例がない。誠実な態度ではあるが、早過ぎる展開であった。


「姫君も承知でしたら言うことはございませんが……」

「まるで絵物語でございますわね……」


 真っ赤な顔で、目をパチパチさせている大宮の横で、御息所みやすどころは、ついうっかり口を挟んでしまったことを、はしたなく思い、顔を檜扇で覆う。


 あまりにも驚いたのだ。中務卿なかつかさきょうは肩書でいえば、葵の君と夫婦になられても、そん色のない方ではあるし、有能な公卿だと、常々、うわさは聞いているが、外見と前世を結びつけたがることが主流の最近の貴族社会では、ことのほかに受けが悪い。


 彼女自身は彼について、それほど深く考えたことはなかったが、自分に実の姉妹同様に優しく接してくれる大宮のうろたえぶりに、彼女の気を引き立てようと口を挟む。


「前世のおこないが、来世に反映されるというのであれば、昔、大宮を命がけで救った中務卿なかつかさきょうに、きっと御仏が早めに功徳を施されたのでしょう。なんと言ってもきょうの行いは、大宮を救っただけではなく、大宮の姫君である葵の君の命をも救ったことに、つながっているのですから」


 彼女の発言に、関白は少し驚いた顔をしたが、渡りに船とばかりに重々しく頷く。


「成程、やはり東宮妃でいらっしゃった御息所みやすどころのご見識に、年寄りは感服するばかりでございます。御仏の配慮と言われれば、それ以外に思い当たることはございません」


 関白に届いていた、姫君を遠回しに第二皇子の妃として考えて欲しいという帝の歌や、葵の君に届いた第二皇子の歌を読む前に、御告げがあったのだ。これこそ御仏の采配だと大宮も、御息所みやすどころの意見に納得し深く頷く。


「きっとそうですわね、葵の君は后妃ではなく、尚侍ないしのかみとしての出仕。帝もおとがめにならぬことでしょう」


 桜の枝は、中務卿なかつかさきょうが折った物であったが、そんなことは知らない大宮は、紫苑が転げて大事の前に歌が届かなかったのも『御仏の御意思』だと思った。そして左大臣の混乱に納得がゆく。


「そんな大事件があったのなら、あの混乱ぶりは当然ですわね。でも、仕方のないことですわ。第二皇子とは、縁がなかったのでございます」


 大宮は内心では安堵していた。あの禍々まがまがしい薫りは、帝のふみにまとわりついたままであったし、なによりも自分のために中務卿なかつかさきょうが、生涯ぬぐえぬ不遇を囲ってしまった責任と負い目があった。そこへこの話である。


 二人の年が離れているが、自分も含めて家柄が整えば、年齢差のある男女が夫婦になるのも、よくある話。口さがない殿上人がなにを言おうと、彼は元皇子であり、中務卿なかつかさきょうという、れっきとした国家の重鎮。


 頼りがいがあり、自分が兄と慕う人柄のよい彼と、葵の君が結ばれるのは、御仏の巡り合わせ。なにかと評判の悪い後宮に入内させるより、余程に幸せかも知れない。


 兄である帝は、さぞ残念がるであろうが、帝は自分には殊の外に甘い上、内親王であった自分を、拝み倒して摂関家に降嫁させている。兄には大きな『貸』がある。なんとでもなるだろうと思う。


「わたくしも驚きましたが、思えば先の短い身。考えて見れば、これほどよき取り合わせはなく、姫君の先行きが決まれば、思い残すこともないと思い、差配いたしました」


 関白は奇しくも右大臣と同じ夜、同じようにウソ泣きをして、袖で顔を覆っていた。


 彼は、内心では勝手に話を進めて、後始末を自分にさせる中務卿なかつかさきょうに腹を立てていたが、超のつく現実主義者ゆえに、彼の考えに賛同し、中務卿なかつかさきょうを姫君の盾にして、第二皇子から姫君を守ることにしたのだ。


 葵の君を失うのは摂関家のためにも、国家のためにも論外であったし、左大臣に姫君を出家させられても困る。(アレは悪い人間ではないが、とにかく物事を深く考えるということができない。)それにいくら考えても、中務卿なかつかさきょう以上に、彼と葵の君の役に立つ『駒』はなかった。


 元皇子である彼は、左大臣になる資格も、一応は持ち合わせている。蔵人少将くろうどのしょうしょうが左大臣の跡を継ぐまでの間、彼が葵の君を北の方とするのであれば、中継ぎとして、左大臣の座に推してもよいだろうし、左大臣にならぬまでも、蔵人少将くろうどのしょうしょうが国家の重鎮となるまでの、大きなうしろ盾になるであろう。


 であらば、自分の息子の無能ゆえの悩みはひとつ減る。摂関家の今後の布陣的にいうことはない。なによりも葵の君が、とても彼に懐いているのに関白は気がついていた。


「まあ、有能であることは、確かであるしな……」


 彼は誰にも聞こえない小さな声で、ひと言そう呟いた。


「そんな……関白は、まだまだ、お元気で……でも、どうしましょう、姫君には、わたくしの時と同じくらいの婚儀の準備は、整えて差し上げたかったのに……」


 正式な婚姻年齢は十三歳。裳着を済ませていれば、問題にはならぬ慣例とはいえ、大宮は少し残念だった。


 兄君の時は、家同士の取り決めで、きちんと時間をかけられた上に、一夫多妻制ながらも、母系社会の時代、大した用事も用意もいらなかった。しかし葵の君の婚儀は、自分の時以上に華やかに執り行いたかったのだ。


「まあ、それは、追々に考えてみましょう。はじめから自分のやかたに北の方として、迎えてくれるというのは、誠にめでたい話です。両家が取り決めて正式に結婚したとはいえ、右大臣家の四の君でも、未だ蔵人少将くろうどのしょうしょうとは同居すらいたしておりません」

「……それもそうですわね」


 関白の言葉に、内親王であった自分はともかく、姫君を、はじめから重々しく扱ってくれた中務卿なかつかさきょうに、母君は自然と笑みが浮かぶが、まだご自分の養子縁組の話を聞いていない御息所みやすどころは、別の意味で大宮を心配して、思い切ってたずねた。


 后妃となる姫君は未婚であることが絶対条件。つまりこの一件で、葵の君の入内は絶望的になる。だが、姫君は第一皇子の后妃としての入内、つまり未来の東宮妃として、強く望まれていると聞いていた。


「あの、右大臣と弘徽殿女御こきでんのにょうごは葵の君を、是非、第一皇子に入内して欲しいと願ってらっしゃるのでは? 右大臣の願いは、無下に却下しても大丈夫なのですか?」


 少し心配そうに、大宮をうかがっている御息所みやすどころに、関白はよい機会と右大臣と取り決めた“未来の東宮妃”の件を持ち出すことにした。


「わたくしが関白の養女に? それは、それでは、わたくしの姫宮が、未来の東宮妃に……」


 御息所みやすどころが関白の提案に嬉しさのあまり、思わず立ったり座ったりしている間に、関白は中務卿なかつかさきょうに同行していた官吏を呼ばせ、彼らに御息所みやすどころの戸籍の編纂へんさんを、台帳に記載するように言いつけ、素早く手続きを終える。


 御息所みやすどころは夢見心地で筆を取っていた。


『あの元皇子は年寄りをこき使いよって! さすがに疲れた!』


 関白は無言でそう思いながら、朝日も昇りかけた頃、ようやく隣にある自分のやかたに戻る。御息所みやすどころは、ご自分のやかたが少々遠い上に、関白のやかたが使用人も多く広大ながら、女主人の不在を気にして心配していた大宮に、自分が関白の養女となったのだから、ご心配なくと、安心させるように言い残し、姫宮と一緒に関白のやかたへと、別々の牛車で連なって向かう。


 さすがに疲労困憊といった様子の関白から、御息所みやすどころが関白の養女となった話を聞いて、驚いた表情の女房たちに、彼女は控えめながらも適切な指示を出した。


 なにかあると、隣の寝殿の大宮まで、一々うかがいを立てていた女房たちも、愛らしい姫宮と共にやってきた、家政に関しても、幼い頃より一流の教育を受けていた新しい女主人の差配に安堵し、指示に従った。


 *


『左大臣家のある日の小話』


葵「みんなで住んでいるのですか?!」平安シェアハウスの話を"弐"に聞いて驚いている。


弐「内裏から近くて、ここに比べれば小さいですけど、五人でも十分広いんですよ」“六”に聞いて、葵の君に折り紙を習っている。


葵「女房は雇っているのですか?」そりゃ寝殿だから広いよねと思ってる。


弐「いや、そこまでの余裕はないので、『式神』に適当に使っています。姫君に教えてもらった折り紙の方が、丈夫で凄く長持ちするんですよー。それに料紙は買うと高いので、返せともいわれずに、こんな自由に使えて持ち帰れる機会なんて、中々ないですし」折り紙に集中して、内心がダダ洩れている。


葵「…そうなんですね」それで、みんなウチにきた時は、折り紙を折りたがるんだなと思ったのでした。


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