第99話 月の消えた夜 6

 それに比べ左大臣家では、珍しく夫婦のいさかいが起きていた。


“六”に物忘れの“呪”をかけられ、姫君の生霊のことは忘れてしまっていたが、中務卿なかつかさきょうと葵の君が婚約した、御仏の御告げの話を聞き、その上、姫君が彼のやかたに行ってしまったことを知った左大臣は、大パニックになり、大声で反対意見を並べ立てていた。


「葵の君を、あの不気味な中務卿なかつかさきょうに?! そのようなことは、わたくしが許しませぬぞ!」

「御仏の御告げに加え、関白の許可が出ております。摂関家の当主の決定に、なにを言っているのですか? 御仏に逆らい、あの聡明な関白に反対するような、そんな親不孝をなさるのですか? このわたくしを貴方あなたに降嫁させて下さった父君に?」


 声高に反対を述べる左大臣の向かいに座っていた大宮の美しい顔が、急速に凍りついてゆく。彼女は良心的で心の美しい人間ではあるが、本質は葵の君が見抜いた通り、"世界で一番のお姫様"であった。


 大宮は、わたくしの賛成した、わたくしの産んだ葵の君の婚儀に、『わたくしが結婚してあげた』左大臣は、かしずいて賛成するのが当然なのに、反対するなんて、どういうことなのかと、心の中に静かに巨大な爆弾低気圧が発生し、素早くそれを察知した左大臣は、慌てて言葉を和らげ、別の角度から反対意見を提案してみる。


「あ、いや、いや! そうではありませぬ。わたくしが御仏や父君に、ましてや“女三宮”に反対するなど、でも、その、あの、中務卿なかつかさきょうは年も離れているし、姫君はまだ十歳で……」

「わたくしと貴方あなたよりは離れておりません! それに御仏と、わたくしが、よいと言っているのです!」


 大宮はもう一度、反対を口にすれば、後宮から二度と帰らないと冷たく宣言し、この話はそこで終了してしまったが、彼女の心の中に発生した爆弾低気圧は停滞したままで、左大臣は頭を抱えてしまった。


 彼はなんとなく姫君を“える”第二皇子と結婚させたかっただけなので、大宮が後宮から帰ってこなくなる恐怖の前に、全面降伏していたが、大宮のご機嫌は斜めになったまま。


 内親王として育った大宮は、常日頃、相当に不機嫌な出来事があっても、滅多に顔に出すことはないが、今日という今日は例外のようで、彼の釈明も懇願もどこ吹く風、不機嫌な顔で、じっと庭を眺めていらっしゃった。


「あの、出仕されましたら、毎日、後宮にご挨拶にうかがおうと思っているのですが」

「………」

「姫君と貴女あなたが心配で心配で……」

「………」

「あの、さ、さっき、反対したのは、本心ではなく、男親がひとり娘を心配するあまりで……よくある話で……」

「そろそろ出仕の時刻では?」

「まだ内裏の門は閉まっています……」

「たまには一番乗りもよろしいでしょう」


 左大臣は青い顔で、ひたすら大宮のご機嫌を取っていたが、取りつく島はなかった。そこに騒動を聞きつけた蔵人少将くろうどのしょうしょうが顔をだす。母君のあまりの機嫌の悪さに驚いた彼は、父君に助け舟を出した。


 彼だって、さっき知った驚愕きょうがくの事実には、驚くばかりであったが、葵の君が中務卿なかつかさきょうと結婚してくれれば、自分や摂関家にもよい話ばかりである。


 彼は父に似て、ややことなかれ主義ではあるが、関白譲りは顔だけではなく、そこそこ頭の回転もよかったし、元の話とは違い、重い病から回復して以来、さまざまな不幸が降りかかる妹君を心配する余り、いまのところは、源氏物語に出てきていたように、平安貴族の嗜みともいえる派手な女遊びにも、そう興味はなかった。


 それに彼は葵の君や関白の影響もあり、どうして父君はこう見かけ重視なのだろうと思っていたところでもあった。なにより母君の機嫌が悪いと、自分の唯一の避難所である実家から追い出されかねない。


 しょっちゅう舅が顔を出す四の君の部屋で、どうやってくつろげと言うんだと思う。


 実家の西の対は、彼の精神的なくつろぎの生命線であった。


「おはようございます。母君、急な話にわたくしも驚きました。今更ですが出仕前に一度、姫君にこちらに戻って頂きませんか?」

「どうして? なにか用事でも? 貴方あなたには、なんの用もないでしょう?」


『機嫌わるっ!』


 蔵人少将くろうどのしょうしょうの心が折れかけたが、そこは実の息子、母君の喜びそうなコツは分かっていた。


「年齢のこともあり、戸籍上しばらくは、ご婚約と聞きましたが、葵の君が、あちらのやかたに今後、移るのであれば、もはや結婚したも同然。周囲もそう扱うでしょう。一度、出仕前に葵の君に実家に戻ってもらい、正式な婚儀の儀式にのっとって、中務卿なかつかさきょうに通っていただき、三箇夜餅みかよのもちいを用意して、露顕ところあらわしの儀を母君がご用意されては、どうでしょうか?」

「正式な婚儀の儀式、三箇夜餅みかよのもちい……」

「このように駆け落ち同様の婚儀では、母君とて心残りが多いことにございましょう?」

「そうね……確かに葵の君には、誰よりも盛大な結婚の儀を用意したいとは思っていたわ」


 蔵人少将くろうどのしょうしょうは母君の好感触に話を広げてゆく。


「葵の君の尚侍ないしのかみとしての出仕もすぐにございます。関白である御祖父君や母君がご同行なさるためにも、葵の君は左大臣家から出仕せねば、移動だけでも大変な騒ぎ。出仕までは、一旦、通常の通い婚にしてもらい、次に後宮から帰参する際は、中務卿なかつかさきょうのところに迎えて頂くということにすれば、葵の君が彼のやかたに北の方として入る時は、母君の御降嫁と同じように、華やかなものになるでしょう」


「わたくしの降嫁と同じくらい、華やかな婚儀に、三箇夜餅みかよのもちい……」


三箇夜餅みかよのもちい”は、通い婚が通常の貴族社会では、書類とは別に正式な結婚が成立したことの証明で、妻の実家が用意するあかしであり、大切なイベントの主役。


 母君は御降嫁した内親王であったため、三箇夜餅みかよのもちいイベントはなく、蔵人少将くろうどのしょうしょうは、四の君と一応は貴族同士の結婚の儀式を執りおこなった時、“三箇夜餅みかよのもちい”の話を聞いた母君が、うらやましそうにしていたのを覚えていた。


 彼は、家同士の取り決めとはいえ、そこはキチンと三日間、右大臣家に通って、三日目の夜にもちを食べて、露顕ところあらわしの儀をしていたのだ。


「葵の君が出仕してしまえば、予定が立たぬこともございましょう。いまのうちに手配されては、どうでしょうか?」


 そう言いながら彼は、父である左大臣に、なにも言うなと目で強く合図し、父君は大人しく首を縦に振っていた。


「そうね、そう言えば、そんな大切なことを忘れていたなんて、さすがはわたくしの若君ね」

「ええ、ええ、母君が宜しければ是非! もしよろしければ、わたくしが手配いたしましょうか?」

「いいえ、それは、母であるわたくしが用意します! それに葵の君が出仕せねばならぬのも、元はといえば怨霊のため、いつ帰れるか予定が立たぬ以上、先に儀式を執り行なっておくのが最善です!」


 やっとご機嫌の直った母君は、楽しそうに姿を消し、残った左大臣は、大きな安堵のため息をついて、息子に礼を言う。


「いえ、驚いたのは一緒です。いくらさとく大人びているとはいえ、葵の君は、まだ十歳ですから」


 彼はソツなくそう言うと、自分もそう変わらない年で結婚し、右大臣のプレッシャーに、日々、晒されているので、中務卿なかつかさきょうが天涯孤独なだけでも、葵の君は気楽でいいなぁと思い、今日は欠勤を決め込んだ父君をあとに置いて、昨日は結局、ここに泊まっていた中務省なかつかさしょうの官吏たちと同じく、早い時間に出仕するために、朝餉でも食べようと、西の対に戻った。


 しばらくして彼は、葵の君の出仕用の、豪華な牛車をうらやましげにながめてから、くらいに見合ってはいるが、摂関家の息子にしては、質素な牛車に乗り込んで内裏に向かう。


中務卿なかつかさきょうの結婚の御祝儀昇進で、僕の秋の昇進が決まらないだろうか? 早く新車に乗り換えたい!』


 そんな訳で、それから葵の君が帰ってくるまでの間、左大臣はそのまま寝込んでいた。


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