第100話 春に咲く花 1
関白が、葵の君と摂関家の世間への体裁の危機を、ひとりで回避しようとしていた頃、葵の君は
大切な姪のための行動とはいえ、初恋の(元)皇子様が、自身のことを顧みず、わたしを救おうとしてくれている。それはもう夢見心地であった。
『わたし、物語に出てくるお姫様みたい……まあ、ほんとに物語のお姫様だけど!』
盆と正月と全国大会優勝を、一気に手に入れたより嬉しい! 葵の君はそう思いながら、乗せられた牛車に揺られていたが、さっき見た幻の『光源氏』を思い出して、ぞっとする。
まだ六歳なのに、なにも分かってはいないのに、彼はもう『光源氏』なのだ。そして運命の女神が、彼の子孫を生み出し、彼の恋愛物語に色づけするための、ちょっとした『
あの様子では、関白である御祖父君が、病に伏したまま命がついえ、
怨霊の存在さえ、いまとなっては、外れかけた自分と光源氏の縁を結びつけるために、運命の女神が用意した存在かも知れないとすら思う。
足を止めず、何倍も早く、彼の先を歩かなければならない。彼と運命の女神に押し潰される前に、わたしはどんな努力でもして、どんな手段でも取って、彼を突き放してしまわねば、いずれは光源氏に飲み込まれてしまう。
それは自分自身の悲劇であり、いまはいない元の葵の君の願いを踏みにじることにつながり、自身の身を挺して“葵の君”を守ろうとしてくれる、だけど、まだわたしへの恋愛感情なんて、なにひとつ持ち合わせてはいない“
『負けるもんか!』
光源氏が天性の才と美貌を、運命の女神から与えられているとしても、どんなに、えこひいきをされていても、最後まで諦める気はサラサラなかったし、そんな自分のこの時代と世界には異端過ぎる考えを、女神が読み切れないのに、いまになって、薄々ながら気がつくと、見つけたわずかな勝機に、密かにほくそ笑む。
やがて牛車が止まり、
葵の君は、そっと手を重ねられて、やっと
「また滑って転げられては大変ですから」
「まあ!」
悩んだ顔の自分の気を引き立てようと、ワザとからかってくれる、彼の心遣いが嬉しかった。
「突然のことに驚いたでしょうが、姫君の命には代えられぬと判断しました。わたくしが姫君の隣に立つ以上、第二皇子が姫君を手に入れることは、必ずや阻止いたします。どうか御身のためと、お許し下さい」
彼はそう言い、いずれすべてが落ちつけば、なにも変わることなく、大宮の元にお返しすると、姫君に約束する。
「はい」
自分を信頼しきった様子で、ニッコリと笑って、素直に返事をする葵の君に、
いくら命の危険があるとはいえ、聡く大人びているとはいえ、姫君はわずか十歳。すべてを理解しろという方が無理なのだ。肝心なことはなにも分かってはいない。
怨霊はともかく、第二皇子の件は、なにもかもが仮定の話である。もし彼のことが、ただのから騒ぎに終わり、無事に大宮の元にお返ししても、最早、姫君は入内することができない。
数年後の未来、何不自由なく、しかし、虚しい先の人生の中で、望めば中宮、皇后の位ですら手に入る身分であったのにと、戻らぬこの夜に涙することであろう。その時は恨まれて当然だ。
傷ひとつなく、非の打ちどころのない姫君と、世間の評判の悪い、無品親王の自分。離れた年の差を持ち出さずとも、なにもかもがあまりにも不釣り合い。無意識に首に這う火傷の
いままで彼は降りかかる理不尽に、達観して生きてきたが、それが自分の大切に思っている姫君に及ぶことは辛かったし、忍びなかったのだ。
そして、これほどに自分を信頼して、優しく微笑んでいる瞳の色が、冷たく変容するのも見たくなかった。
『
「どうかなさいましたか?」
「いえ、どうか、わたくしの姫君への忠心だけは、覚えていて下さい……」
「………」
『いや、結婚に関しては、こっちから、お願いしたいことだったので、全然問題はないんですけど、未来って、どうなるか予測できないなぁ! 棚ぼた! 棚ぼた!』
葵の君は申し訳なさそうな彼の顔を見上げながら、そんなことを思っていると、彼は外からかけられた、控えめな声に寝所から姿を消した。ふと、かかっていた鏡に映った幼い自分の顔が目に入り、眉をひそめて自分の小さな両手で頬を包む。
『これじゃあ、気長に牛乳を飲んで、成長を待つしかないよね。あと三年でも、どれだけ大きくなれるのか……。どっちかっていうと、この場合、
四方を覆う几帳の隙間から、コッソリ彼を拝む。そのまま外をのぞいていると、先程の声の主は、以前、見知った家人で、主人に今回の急な出来事への対応を、うかがいにきたようだった。
やがて物凄く慌てた表情の家人は姿を消すと、深夜にも関わらず、屋敷中の人間を起こして、バタバタとなにやら騒動を起こしていた。(あとで聞くと、いきなりわたしがやってきたので、
『前回の事件からこっち、迷惑かけまくりで申し訳ないです!』
葵の君はそう思ってから、
葵の君は、次の瞬間、
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