第101話 春に咲く花 2

「ご、ごめんなさい! あの、その……いたっっ!」

「姫君?!」


 葵の君は、急に体中に強い痛みが走り、息もできなくなる。ようやく痛みが治まり、やっとの思いで目を開けると、自分を心配げに、そして、驚いた表情で見つめる中務卿なかつかさきょうの顔。向かいには、いつの間にか“六”。彼も同じように驚いた顔で、自分を見ていた。


「姫君、天香桂花てんこうけいかの君……」


『誰それ? ああ、そういえば、生霊のわたしが、そんな名前で呼ばれて……ええぇ?!』


 目に入る自分の手足が、明らかに伸びている。気がつくと葵の君は、いつの間にかスクスクと育ち、彼らが時々見ていた天香桂花てんこうけいかの君と、つまり、元の自分と同じくらいの年頃になっていた。


『さっきのは成長痛?!』


 大きめに作ってあるとはいえ、当然、十歳の自分が着ていた十二単じゅうにひとえは小さすぎて、すんなりとした手足が少しのぞいていた。


 元は現代人の葵の君には、別にどうといったことはなかったが、中務卿なかつかさきょうや“六”的には、かなり大変なことになっていた。年頃の姫君の素足が見えるなど、天地がひっくり返っても、起こらない出来事である。


 中務卿なかつかさきょうは慌てて姫君を寝所に押し込むと、中を見ないようにしながら、自分の単衣を差し入れて、“六”にジロリと視線をやる。


貴様きさま、なにか姫君に……」


 驚きのあまり、持ってきた御神刀ごしんとうを抱きしめ、箱は床に落としていた“六”は、それこそ心当たりがなく、ひたすら無言で否定を表すべく、首を横に振っていた。その目は今見た光景と状況への驚きで、見開かれたままであった。


 中務卿なかつかさきょうは、ひょっとして疲れ過ぎて、幻を見たのかも知れぬと、自分の心をだますことに集中し、眉間にしばし右手を当てていたが、思い切って几帳の中を恐る々々のぞく。自分の単衣ひとえを被って、布団の上に座っている姫君は、やはり大人になったまま。


 天香桂花てんこうけいかの君と、姫君の区別がついたのは、葵の君の髪は長いまま、いや、それ以上に長く伸びていたから。


 姫君の見た目、年の頃は、十六、七だろうか。身の丈よりも少し長く伸びた髪が、夜の射干玉ぬばたまが流れだしたように美しい。自分がつけた天香桂花てんこうけいかの君との呼び名の通り、月に咲く幻の花のように美しく、こぼれる光と薫りがまとわりつく、そんな華やかさに溢れる姫君であった。


 だが、大宮に瓜ふたつの美しいかんばせは、なぜかまるで違う印象を受ける。


 大宮が華やかながらもたおやかに、朝露に輝く芍薬しゃくやくの花だとすれば、姫君は力強く華やかに咲き誇る大輪の牡丹ぼたんの花であった。


 姫君は差し入れた単衣の上に、器用にもご自分で対丈になってしまった長袴を履いて、小さな鏡をのぞき込んだまま、目を離せないご様子だ。無理もない。


「ややこしいことになりましたね……」


“六”が姫君の顔を、のぞいているのに気づいたが、色々と問題が多すぎて、彼はもうなにも言わなかった。


『普通こういう時は、なにか光に包まれて、服ごと変身するんじゃないのかなぁ? 子供の頃見ていたアニメでは、ちゃんと着ている服まで、大きくなっていたのに! しかも成長痛つきっていうのが、中途半端に現実的で酷い!』


 葵の君は葵の君で、そうは思ったものの、さすがにどうしてよいか分からず、自分を凝視している二人をそのままにして布団に潜り込む。


「とりあえず寝ます。起きたら元に戻っているかも知れません」

「姫君?!」


 ふたりにそう言って、葵の君は瞼を閉じると、今度は光源氏に出会うこともなく、夢も見ずに深い眠りについた。


 中務卿なかつかさきょうや“六”に、相談したいことは色々あったが、いきなり成長したせいか、目が開けていられないほど疲れ切っていたのである。


『光源氏め、次に夢に出たら、容赦なく腕の一本はもらうからね!』


 葵の君がそう思いながら、眠りについた翌朝、耳に入る話し声に目が覚めて、左大臣家と違う光景に一瞬驚いた。


 そして「ああそうか、中務卿なかつかさきょうのところに、結婚という名の体裁のよい、自分にとって夢のような避難をしたんだった」と思い出す。


 その日、関白と御園命婦みそのみょうぶにつき添って、内裏の清涼殿に向かった、真っ青な顔の紫苑の心中も知らず、御祖父君といい、中務卿なかつかさきょうといい、有能な権力者って凄いなと、今更ながら思い、彼女はのんきに再び几帳の隙間から外をのぞいていた。


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