第102話 春に咲く花 3

 ちなみに、体の方は元に戻らず、そのまま大人サイズだったので、これはまずいと真剣に悩む。


 せっかく光源氏も寺も、回避ができそうな手応えを感じたところなのに、これではいくら母君ソックリの自分に大甘な中務卿なかつかさきょうでも、寺に送られるかもしれない。逃げた方がいいんだろうか? 逃げるより寺の方がマシなんだろうか?


 葵の君は悩んだ末、少し様子を見ることにした。生霊も見逃してくれたのだから、今回も見ない振りをしてくれる気もするし、もう少し時間が立てば、元通りになるかもしれない。(そうなったら、記憶にございませんと、押し通してしまおう!)


 几帳の隙間から見えたのは、中務卿なかつかさきょうと“六”、そして年長組の真白の陰陽師である“弐”。彼は大きな荷物を横に置いて、真剣にふたりの話を聞いている様子である。


「葵の君がいきなり大人に?! 昨日の星の動きが関係あるのでしょうか?」

「星の動き?」


“弐”は、葵の君が二人の気も知らずに、グーグー寝ていた時、“六”の式神で用事を言いつけられて、ここを訪れていた。


 そして彼は昨夜の出来事を聞いて、女童めわら用の衣装と変わらない、小さな十二単じゅうにひとえを着た、妙齢の葵の君を見られたなんて、“六”がうらやましいと思いながら、しごく真面目な顔で自分の見解を述べていた。


“弐”は、他の真白の陰陽師たちが、昨夜の星の動きと、先日の蛇の犯人狩りに出払っていた中、夜が極端に弱く、文机で居眠りしていた“四”に飛んできた式神を、なんとなく引き受けたのは正解だったと思い、心からの野次馬精神で、姫君がそのままだといいなと思いながら、几帳台の方に視線をやっていた。


「昨夜は月の近くに急に現れた小さな星が、一際大きく輝きながら流れ、消えたかと思えば、不可思議なことに数刻後、星はまた違う色の光を放ち、元の位置に戻っておりました。陰陽寮では一晩中、その出来事について真剣に討議されておりましたが、まさかこんな近くで異変があったとは……」

「……しばし待て」


 そう言った中務卿なかつかさきょうが、“弐”の用意した荷物を持って、素早く姫君がいる寝所に向かった隙に、“弐”は“六”の脇を肘で突いて思わず口走る。


「棚ぼた! 棚ぼた!」

「百回くらい出家した方がいいですよ……」

「陰陽師が出家させてもらえる訳ないじゃん!」


 自分の冷たい声にも動じない“弐”に、雷でも落ちればよいのにと、“六”思っていると、寝所の方からガタンと大きな音が聞こえる。


 慌ててそちらを見ると、目に飛び込んだのは、中務卿なかつかさきょうの腕の中にいる、男物の単衣を羽織った、しどけない姿の大人のままの姫君。どうやらこっそり、こちらをのぞいていたらしく、寝所に入ろうとした中務卿なかつかさきょうと、鉢合わせしたらしい。


 心配した様子ながら、好奇心だけで駆け寄る“弐”を止めようと、“六”が目を離した一瞬のあと、昨夜とは逆に、姫君は元の幼い姿に戻っていた。


「棚ぼた! 棚ぼた!」

「うるさい!」


“弐”の頭を御神刀のつかで、物理的に攻撃して黙らせてから、“六”も側に走り寄る。顔を真っ赤にして押し黙っている二人に、“弐”の声は聞こえていなかった。


 姫君を几帳台の中に素早く戻した中務卿なかつかさきょうは、今日は有給を取ると、内裏に使者をやってから、姫君が大きくなったり、元に戻ったりした理由を確信していた。


「口づけ……」

「はい?」


“六”は首を傾げたまま短い返事をしていたし、“弐”は床に倒れたまま、耳をそばだてていた。


「星がどうこうは分からんが、葵の君はわたしと口づけをすると、大きくなったり小さくなったりしている……」

「裳着の夜なんて、もっと凄いのしていませんでした?」


 床から聞こえてきた声に、“六”は、とどめを刺そうかと思ったが、ふと思い当たる。


「ひょっとして、姫君が中務卿なかつかさきょうだと、認識しているからではないでしょうか?」


 そんなことを言いながら、なぜ自分の心が千切れそうに痛いのか、“六”には分からなかった。そっと立ち上がり、寝所を囲む几帳の前から、姫君に小さく声をかけてみる。


「姫君は、中務卿なかつかさきょうが、お好きなのですね」

「………」


 中からの返事はなかったが、不躾ぶしつけながら、そっとのぞいた几帳の中にいる姫君の顔は、真っ赤に染まっていた。薄暗い寝所の床には、姫君の心の中から、こぼれ出したかのように、不思議な輝きが姫君から広がっている。


御伽噺おとぎばなしなの?! まあ、そんな感じの世界だけどさ!』


 葵の君は、しばらくしてやってきた、姫君の身の周りの世話など慣れていない、年老いた乳母に、元々、着ていた小袿こうちきを、なんとか着せてもらう。


 乳母が自分を拝んでから下がったあとも、中務卿なかつかさきょうと顔を会わせるのは、かなり恥ずかしかったが、お腹が空いているのには耐えられず、そろそろと几帳台の影から姿を現して、用意された朝餉を食べることにした。


「………」



〈 中務省なかつかさしょう 〉


 沈黙の支配する中、葵の君が中務卿なかつかさきょうと一緒に朝餉を食べ終える頃、内裏では朝早くから出仕している中務省なかつかさしょうの官吏たちのほとんどは、今日も今日とて、忙しい業務に取り組むべく文机に向かい、一心不乱にすずりで墨をっていた。


 左大臣家から直接出仕した官吏たちは、台帳や書類と一緒に、なにか箱を手にしている。


「なにがあったんでしょうね?」

「さあ? なんでも関白をはじめ、お歴々が勢ぞろいだったとか」


 返事をしながら、左大臣家から帰ってきた、戸籍編纂の分厚い台帳を受け取り、元の蔵に戻す前に、何気なく中をめくっていた官吏は、驚愕の余り何度も目をこする。


源将仁みなもとのまさひと卿ト、左大臣家、葵ノ君、正式ニ婚約、法廷年齢ニ達シ次第、正式二婚儀 取決メノ事』


 その一行の衝撃に比べれば、どこかの姫君が、どこかに養女に行ったなどという、ありふれた話は、彼にはどうでもよかった。


「なにか不備があるのか?」

「あ、いえ、関白の署名と官印もございます。問題なく完璧です!」


 彼は上役の声に、素早く返事を返してから、元本を頑丈な元の蔵に収納するべく席を立った。


「“源将仁みなもとのまさひと”って、中務卿なかつかさきょうですよね?」

「それがどうした?」

「ここだけの話なんですけどね……」


 そして真実をともなったうわさは、守秘義務があるため、さすがに省内に留まりはしたが、さまざまな誤解と曲解を、それぞれの胸に秘めたまま、左大臣家の姫君と中務卿なかつかさきょうの話は、瞬く間に中務省なかつかさしょう内部に広がって行った。


『これをきっかけに、中務卿なかつかさきょうが、もう少し家庭をかえり見る人になって欲しい!!』


 中務省なかつかさしょうに勤める彼らの願いはひとつであった。


 中務省ココに配置された以上、血筋以上の出世コースに乗ったことは、間違いなしではあるが、不夜城と恐れられるほど、宿直とのゐでもないのに、仮眠室は連日の満員御礼。


 文机の前で、脇息で、そんな風に仮眠を取る者も多く、せめて仮眠室を増設してくれと嘆願するほど、超のつく激務に励む官吏たちは、殿上人たちの政治的な駆け引きとはかけ離れた、極々ささやかな夢と希望を抱く。


 一番の激務をこなしているのが、トップである中務卿なかつかさきょうであるため、部下である彼らは自分たちから言いだすのは気が引けていたのだ。


「でも、どう考えても、政治的な婚儀ですよね。年だって結構離れているし……」

「現実主義の関白が、中務卿なかつかさきょうの実力を買ったんだろう」


 墨をりながら官吏たちが、そんな風にうわさをしていると、左大臣家から帰ったばかりの官吏のひとりが菓子を渡す。


 彼は左大臣家でお土産にもらった、真ん中に穴の開いた不思議な唐菓子を、みんなに配り歩いていた。


中務卿なかつかさきょうが、唯一ほめることのある女君を知ってる?」

「それは知っていますよ、有名ですから」

「帝の同腹の妹宮で、中務卿なかつかさきょうの腹違いの兄妹、生きる伝説の美女、元女三宮。現在は左大臣家の北の方で……あれ?」


 右手に墨、左手にもらった唐菓子を手に、官吏は首を傾げた。


 彼らは忙しすぎて、巷のうわさには乗り遅れがちであったが、さすがに左大臣家の姫君の高すぎる評判は聞き及んでいたし、姫君は中務省なかつかさしょうに所属する、内侍司ないししを統括する“尚侍ないしのかみ”として出仕なさる。ある程度のうわさは努めて聞いていた。


「昨日、左大臣家の女房をしている子に直接聞いた、確かなうわさだけどね、左大臣家の姫君は“三条の大宮”に、本当に瓜ふたつだそうな……」

「国宝といわれた、あの“三条の大宮”に?! 盛った話じゃなかったの?!」


 美貌が自慢で、いつも姫君に生まれたかった。そういっている少輔しょうゆうは、少し体が重くなった気がするが、唐菓子の誘惑に負けて、何個も菓子を頬張る。泊まり込みで疲れていたので、甘いものが食べたかったのだ。


 唐菓子を配り歩いている官吏の横で、行儀悪く唐菓子を食べつつ、他の官吏がつけ加える。


「しかみょ、しかも姫君、中務卿なかつかさきょうに結構、懐いているらしいです。モグモグ……」

「嘘でしょう……」


 実の父である右大臣にでさえ、“触らぬ神に祟りなし”とすら言われる弘徽殿女御こきでんのにょうごも一目を置き、その姫君である内親王なんて、こわもて過ぎて、姿を見ただけで泣いてしまったと評判なのが、ウチの上司なのに……。


 首筋にまでう火傷のあとが、致命的な悪印象であるのに加え、彼の顔立ちは凛々しく精悍で整ってはいるが、女君のような優しく美しい顔がよしとされる、この時代には、ややキツ過ぎた。


 そして葵の君には想像もできないが、政治的な実力は評価されながらも、仕事上の人当たりも結構キツかった。


「如来の化身と呼ばれる尊い姫君の御評判は、伊達ではないのかもしれませんね」


 彼らは唐菓子を頬張りながら、一瞬、悟りを開いて温和になった中務卿なかつかさきょうの顔を、想像して見ようとしたが、やはり想像はできなかった。


 その日、珍しく中務卿なかつかさきょうが、有給を取ったこともあって、省内ではしばらくうわさ話に花が咲いていたが、やがて山積みの書類に、我に返った彼らは、明日、参内した中務卿なかつかさきょうに怒鳴られまいと、一心不乱に仕事に取り組み出す。


 それぞれが、さまざまなことを思っていた日はすぐに暮れ、夜を迎えた頃、人払いをした中務卿なかつかさきょうのやかたには、かなり着崩れた小袿こうちきをきた、大人サイズの葵の君が、再び姿を現していた。


 美しさは微塵も損なわれてはいないが、紙よりも白い辛そうな姫君の顔。中務卿なかつかさきょうが心配そうに、寄り添っていた。


 あとのふたりは、庭の端近にある高欄(手すり)の近くまで離れて、結界を張りつつ周囲を見張る。


“六”の推測は、果たして大当たりだったのであった。

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