第103話 運命の女神の介在 1

『左大臣家では、光源氏の正室であり、我が子を身ごもっている、物のに取り憑かれた葵の上を、誰もが心配していたため、光源氏は気の毒なことに、忍び歩きをすることもできず、左大臣家の自分の部屋で、祈祷の手配をするなど、無為な時を過ごしていた。帝をはじめ、世の誰もが葵の上を心配し、心を寄せる中、六条御息所ろくじょうのみやすどころの重い容体のうわさを聞いた、心優しい光源氏は、御息所みやすどころのことが心配になり、彼女の元に人目を忍んで出かける……』


「はー、本当に心優しくて、輝くように美しく麗しい、わたくしの悲運の皇子様……」


『源氏物語』を紡ぎだし、支配する運命の女神は、ふと筆を持つ手を止めると、首を僅かに傾げて、今後の展開を考える。


『源氏物語』は、彼女が作り出した箱庭であり、世間から絶賛されている絵巻物語であった。


 葵の上には、このあとすぐに、舞台から消えてもらうつもりだが、摂関家に生まれ何不自由なく育ち、光る君の正室と言う栄誉の中、最後には光る君の心からの賞賛を受け、彼の子供を産むという、素晴らしい役どころ、本望だろうと思う。


 葵の上を弔う時に、経文を読む光る君の、尊く優美で気品溢れる姿を想像するだけで、女神の胸の内は高鳴った。思いつきを書きとめようとするが、あいにく料紙が切れている。


 忘れる前に書きとめておきたかった彼女は、書き損じの料紙の裏側にでもと思い、部屋の隅に置いてあった、書き損じの料紙が入っている籠を開けて、まばたきを繰り返す。


 籠の中の書き損じは、なぜかこよりで綺麗に束ねられており、一旦は書こうかと思い、蛇足だそくだと取りやめた、葵の上の幼い頃の話がはじまり、預かり知らぬままに進んでいた。


「なんなのこれ……」


 ところどころは読めないが愕然とする。美しくも気品の溢れる王朝絵巻物語を書きつづっていたはずの書き損じは、話が捻じ曲げられ、あさっての方向へと進んでいた。


 薄気味の悪い陰陽師、前世のごうの深さしか感じられぬ、醜く優美さの欠片もなき元皇子、とうに亡くなっているはずの、表向きだけは、朝廷に対して礼を尽くしながら、常に傲岸不遜な関白に、こちらもなぜか生きている桐壷更衣きりつぼのこうい。幼い光る君の気高く優美で美しい姿だけが、そのままであった。


 桐壷更衣きりつぼのこうい身罷みまからねば、舞台が土台から引っ繰り返ってしまう。たかが紙の上の出来事なのに、なぜか恐ろしさを感じた彼女は、急いで筆を取って、訂正の墨を入れようとするが、どうやっても桐壷更衣きりつぼのこういの身の上を、書き直すことができない。


 料紙をめくってもめくっても、自分の知らない、考えたこともない、なんの美しさもおもむきもなき、散々な人物ばかり。眩く美しい光る君の寂しさと、麗しさを増すために用意した葵の上と言えば、ただただ、台無しとしか言えないことばかりしている。


 せめてうわさに高い光る君のことを思って、皇子である彼に入内することを夢見るならともかく、この女童めわらがすることは、とにかく突飛で残念なことばかり。


 自分が取りやめた話では、病から九死に一生を得た葵の上は、床に伏したまま、耳に入る光る君へのうわさに、うっとりと耳を傾けていたはずなのに、なぜかやたらと元気になった姫君は、はしたなく身のほどもわきまえず、教養をひけらかし、あろうことか、それをとがめるべき周囲の大人たちは、葵の上を『薬師如来の具現』とすら持ち上げていた。


 尊き皇子である光る君のことよりも、下賤な民草や下々のことを考えているなど、ありえないことである。天下国家を考えるのは、二官八省の公卿たちの仕事であり、元々、それもすべては帝の徳の上に、問題なく流れてゆく些末なものだ。女である葵の上が、しゃしゃり出るなど、見苦しいこと、この上なしだ。


「なんと身のほどを知らず、下品な姫君なのでしょう!」


 これではとても、光る君の正室にはできない! そう思った彼女は思わず、こよりで綺麗に束ねられている料紙を手に取って、文机の前に戻ると、姫君の回復のうたげのあたりで、早い目にたたられて身罷みまかるようにと、再び訂正の墨を入れようとするが、やはり筆は空を泳ぐばかり。


「この酷い姫君は、わたくしの光る君に、ふさわしくないわ!」


 女神は経文を唱えながら、なんとか物語に墨を入れようとするが、彼女にできたことといえば、ただ一滴の墨を紙の上に、まるで曇天を作り出すかのように、紙の上に落とすことだけであった。


 それでも目を凝らしていると、墨は料紙の上にたどりつき、自分の意志を反映するかのごとく、葵の上に不幸をもたらし、光る君と葵の上の夢の中での出会いを、料紙の上に話を広げていたが、拝むほどに美しい光る君に出会った、一目で彼に恋焦がれるべき葵の上は、“麗しいわたくしの皇子様”である、光る君を、にべもなく酷いあしらいようであった。


 あまりのことに息をのむが、先が気になって、顔をしかめながら読み進める。些末なことはさておき、どうやら、どうしようもなく愚かな葵の上は、大切な光る君ではなく、こともあろうに醜い元皇子に、さらわれてしまったようだ。


「ほほ、ほほほ……そうよ、貴女あなたみたいに、地位以外に価値のない女が、光る君と結ばれるなど、はなから気に入らなかった。お似合いの境遇ね!」


 女神は、葵の上のひとまずの不幸を、安堵のため息と共に読み終わり、光る君の引き立て役にならぬのなら、さっさと身罷みまかればよかったのだと思い、くだらない話を読んでしまったと、料紙の束を火鉢の中にくべた。


 幸いなことに、すぐに新しい料紙の束が、さる筋から大量に届けられ、運命の女神は、自分の作り出した、絢爛たる王朝絵巻『源氏物語』を再びつづり出し、燃やしたはずの料紙の束が、いつの間にか、また書き損じの籠の底に戻っていることには、気づかなかった。


 なにせ女神は早く話の続きをと、ひっきりなしに急かされていたし、あんな優雅さの欠片もない姫君がいる世界は、早く忘れてしまいたかったから。


『光る君の、光る君による、光る君のための、王朝絵巻物語』


 運命の女神は、それだけしか思っていなかったし、これ以上に素晴らしい皇子は、存在しないと思っていた。


 すべての姫君の理想の皇子様である光る君が、まさか千年以上後の世界からやってきて、葵の上と中身が入れ替わった『葵』の字だけが被っている女に、時代背景が違いすぎて、毛虫以下にしか思われないなんて、想像の範囲外であった。


 女神がそんな出来事を、すっかり忘れて数か月後、また書き損じの料紙を探して籠を開け、燃やしたはずの料紙の束に驚愕し、読むか読まぬか煩悶はんもんの末、少し目を通してから、やはり深いため息をつくと、今度は、気味の悪い料紙の束を、高僧に託して焚き上げてもらうことにした。

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