第116話 三箇夜餅 3

〈 中務卿なかつかさきょうの胸の内 〉


 中務卿なかつかさきょうは定時で帰る自分を、不思議そうな顔で見送る部下を無視して内裏をあとにすると、左大臣家の東の対に足を運ぶ。


 遠目に姫君が御簾の向こうで、パタパタと屏風のうしろに隠れたのが見えた。女房に案内されて御簾内に入ると、文机の上に何枚もの書き損じが散らばっているのが目に入る。手に取ってみれば、すべて自分宛の反省文の下書きの山。姫君なりに大層、反省はなさっているようであった。


 それでも今日はきつく説教をせねばと思い、側仕えの幼い女房が慌てて止めるのも構わず、屏風のうしろをのぞき込む。案の定、そこには小さくなっている葵の君。


 あれほどしかられたあとだ、もう顔も見たくないと、泣き出されるのを覚悟するが、姫君は自分の顔を見ても怯えた様子もなく、上目遣いで恥ずかしそうな笑みを浮かべ、小さな声で謝りながら、こちらを拝むように、手を合わせていらっしゃった。


 大の男でも自分に怒鳴られると、寝込む者もいるくらいなのに。傲岸不遜さは見当たらぬが、姫君は関白から受け継いだ、豪胆さを持ちあわせていらっしゃるらしい。


 申し訳なさげな、母君に瓜ふたつの幼いかんばせは、花がこぼれるように愛らしく、彼はあきらめのため息をついた。 どうしても自分は大宮同様、否、それ以上に姫君には、ことのほか甘くなってしまう。


 しかし、ひととおりの説教だけはせねば、姫君のためにならぬと、再び自分に言い聞かせた。


 姫君を屏風の影からそっと連れ出して、豪華なへりにふちどられた畳の上に乗せ、向かいに腰を下ろすと、小さな両手を自分の手で包んで重々しく言葉を発する。


「昨日は心配の余りとは言え、姫君を怯えさせるような、しかり方をして申し訳なく思います。しかしながら……」

「え、いえ、わたくしが悪かったのです! でも、よかったです……」


 なにがよかったのだろうか? そう思ったのが、顔に出ていたらしい。姫君は自分を拝んだまま口を開く。


「もう呪われたわたくしのことは、嫌いになられたかと思って……」

「葵の君……」


 幼い姫君が、ご自分のことを、そんな風に考えていると思うと、彼はなにも言えなくなる。突拍子もない行動はともかく、降りかかる出来事は、姫君自身は、なにひとつ悪くはないのだから。


「姫君がわたくしを嫌うことがあっても、わたくしが姫君を嫌いになることはありませんよ」


 そう言ってから、姫君の頭をそっとぜて、先程の反省文を思い出し、甘すぎると分かっているが、あれで手を打つことにした。


 さらさらと流れる黒髪は、“葵の上”になる前よりも、少し伸びた気がする。自分が折れたことに気づいたのか、気づかぬままなのか、嬉しそうにほほえみを浮かべる姫君に、苦笑するしかなかった。



「明後日の夜に、昨日の一件で、真白の陰陽師おんみょうじたちを、こちらにこさせます」

「なぜでしょうか?」

「姫君の安全のために必要なことです。よいですね?」

「わたくしの安全……」


 葵の君は少し不思議そうな顔をしたが、深く信頼している眼差しを向け、なにも問わず、素直に頷いて了承して下さった。


 葵の君の安全のために、自分は真白の陰陽師おんみょうじたちに、姫君の中にいる、中から出ようとする、幻のような天香桂花てんこうけいかの君、そしてその彼女から更に鮮やかに、実態を伴って現れた、未来の姫君であろう“葵の上”を、封印させてしまうつもりだ。


 目の前にいらっしゃる姫君は、自分にとって肉親として、なによりも愛おしい存在であるが、その先にいるはずの姫君は、美しさだけではなく魂の高潔さと、自身をかえりみぬいさぎよさを持ち合わせ、持ちあわせがないはずの、自分の“恋心”を捉えた存在であった。


 いますぐにでも再びお会いしたいと思う反面、“天香桂花てんこうけいかの君”であろうと、“葵の上”であろうと、人目につくことがあれば、今現在の姫君の身の上が危うくなり、最悪の場合、帝に取り憑こうとする生霊は、葵の君だと思われかねない。それでは本末転倒である。


 それに、なんの疑いもなく自分を慕ってくれる、このように幼く尊い姫君を丸め込んで、うまうまと未来の姫君を、いまのうちに手に入れるのは、あまりにも忍びない。姫君の幼くあどけない姿を目の前にすれば、本来の肉親としての情が大きすぎた。


 ひとりで立っていることなど幼い頃より慣れている。このまま時にまかせて美しくお育ちになった姫君を、いつか自分の庇護のもとから解き放つのが、自分の使命だと心に思う。


 それだけが、すべてに恵まれながら后妃としての入内という、姫君としての最大の幸せを、わからぬままに失ってしまった葵の君に、自分ができるせめてものこと。


 葵の君は、そんな中務卿なかつかさきょうの複雑な胸中も知らず、深い考えもなく、この一件を承知したあと、しばらくなにか考えている様子であったが、自分のお腹が鳴る音がして、顔を真っ赤にしていい訳をした。


「あ、その、朝餉を食べてなくて……」

「食事にしましょうか」


 中務卿なかつかさきょうは、姫君の視線の先に、膳をかかげて待機している女房たちを見つけ、笑いをこらえながら運ばせた。



〈 葵の君の胸の内 〉


 一方、顔を真っ赤にした葵の君と言えば、『セーフ! 今回もギリギリセーフ!』などと、なにがセーフなのかは、分からないけれど取りあえず、中務卿なかつかさきょうから嫌われることと、説教を回避できたことに、大いに安心していた。


 お腹の音は少し恥ずかしかったが、「なんだか今日の夕餉は豪華、お客様用だきっと!」などと考え、あとで、どうしてわたしは左大臣家に帰っているのか聞いてみようとか、ついでに剣術の話もしてみようとか、相変わらず、ずれきったことを考えていた。


「あの、わたくし、中務卿なかつかさきょうと、大好きな方と、結婚できることになって、とても嬉しいです!」

「……そうですか、わたくしも大切な姫君の命を救う一助になれたことを、心より喜んでおります。ご出仕されたあと、私的な場では、“将仁まさひと”と、呼んでいただいた方がよいですね」

将仁まさひと様……私的な場……“登華殿とうかでん”とかですか?」

「よくできました。後宮に入れば、いついかなる時も、気を抜いてはなりませんよ」

「はい……」


 葵の君はデザートのプリンを食べる手を止めて、思い切って本音を口に出してみたが、姫君の愛は、その“体”を支配する幼い年齢ゆえに、将仁まさひと様に、まともには受け取られず、また彼自身の未来の姫君に対する愛は、彼が今現在の幼い姫君を大切に思うがゆえに、心の奥底にしまい込まれ、ふたりの愛情は、お互いの間で、緩やかにすれ違うばかりであった。


将仁まさひと様』


 自分で言っておきながら、その後、葵の君の透きとおる声で、そう呼ばれるたびに、将仁まさひと様はしばらくの間、一瞬、身じろぐことになったのだけれど。(なにせ式典など必要な時以外、自分を名前で呼ぶ者など、いままでいなかったから。)

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