第115話 三箇夜餅 2

 紫苑は、夕刻を過ぎても起きない姫君が心配になって、何回かそっとゆすってみると、姫君はようやく目を開けた。


「お風呂でも入ります?」

「うーん、ううん、先に中務卿なかつかさきょうに、お手紙を書いてからにする……」


 葵の君がそう言いながら、目をやった文机の上には、書状や書簡が何通もたまっていた。待ちかねていた内侍司ないししに関する分厚い書簡まで届いていることに気づき、慌てて目をとおす。


 中務卿なかつかさきょうも今回の騒動で、激務に輪がかっていたが、葵の君も出仕前に片づけておこうと思っていたアレコレが、かなりたまっていた。


 やや大げさな騒ぎになっているのは気掛かりだけど、出仕に関する内裏への届け出、自身や女房たちの衣装や身の回りのこと全般を、元内親王である母君や、関白である御祖父君、左大臣である父君が、万全の体制に整えて下さるので、本当に助かっている。


内侍司ないしし、定員百名の大所帯、わたしがトップで、次が四名の内侍ないしのすけと……」


 前世“葵”であった葵の君は、高校時代の部活では主将を務め、部員をまとめていた経験はあった。しかし、せいぜいが、何十人単位であったし、政治家 兼 官僚といった重責だった訳でもなく、お賃金も発生しない、ただの部活動である。


 それがいきなり百名もの知らない人ばかりの政府機関のトップ。団体行動におくする性格ではないが、なにも知らないという訳にもと思い、先に後宮に入っている女房に、内侍司ないししのことを、ざっと調べてもらっていた。


 剣璽けんじ(三種の神器)の管理も、内侍司ないししの役目であると聞いて、いつか箱の中をのぞいてみたいと思ってしまったのは秘密だ。


源内侍げんのないしのすけ澪内侍みおのないしのすけ松内侍まつのないしのすけ、欠員一名……源内侍げんのないしのすけは聞き覚えが……あとのふたりは、太政官だいじょうかんの公卿の姫君たち、いずれも仕事に対する意欲は皆無かいむ……あかんのばっかりやんか……』


 本当の業務は、その下の掌侍ないしのじょうがつとめているらしい。


紅掌侍こうのないしのじょう……」


 この掌侍ないしのじょうを中心に六名(欠員二名)で、現在は皇后宮職こうごうぐうしきの別当の下で、細々と体裁を取りつくろうほどの仕事をしているようだ。


皇后宮職こうごうぐうしきって、後宮の事務とか管理が仕事のはずなのに、内侍司ないししが機能不全なので、ここと所属先の中務省なかつかさしょうに負担が凄いのか……てか、姫君たちは仕事もせずに、後宮で一体なにをしてるんだろう? お賃金なんて、はした金の姫君ばっかりだろうに? え? 名誉職の尚侍ないしのかみと同じではくをつけるため?』


 葵の君の素朴な疑問は、だいたい当たっていた。姫君たちは、ただ「はくをつけるため」だったり「ワンチャン女御になれるかも」そんな理由で在席していた。


 血統主義のこの時代、兄君や父君のようないわゆる『名門貴族』の子弟は『蔭位おんいせい』と呼ばれる制度により、大学での学歴や能力よりも血統が優先され、生まれながらに出世コースが確定しているため、関白のように血統も能力も飛び抜けた存在であれば、早くから能力が発揮することができる利点があるとはいえ、どんな「お馬鹿さん」でも血統さえよければ、かなり出世してしまう、諸刃の剣以上に危うく、あからさまな制度である。


 ましてや女君にいたっては、その大学すらない。葵の君を筆頭に、すべて血統主義で選ばれた存在ばかりであったので、皇后宮職こうごうぐうしきの別当が、はれ物にさわるような扱いになるのは、ある意味当然であった。


「もうこんな部署、いっそのことなくなった方が、世の中のため人のためなんじゃないだろうか?」


 葵の君は思わずそう呟いた。


 そしてそんな大所帯すら、一介の所属部門にしか過ぎない中務省なかつかさしょうのトップである中務卿なかつかさきょうを、あらためて尊敬しつつ、お風呂のことも忘れて書面に没頭していたが、やがて一段落して、お詫びの手紙を書こうと思い、女房が持ってきた料紙を選び、筆を持って思案する。


 日も落ちて、灯された灯火の下、花丸紋の浮かぶ淡い珊瑚色の単衣ひとえに、藤色の袴、藍白色あいじろいろ若草色わかくさいろ白梅色しらうめいろなど、金糸でさまざまな春の花の花丸文はなまるもんが織り込まれた、数枚の重ねうちぎを軽くはおり、文机に広げた書簡に目を落とす葵の君に、紫苑はやっぱり第二皇子より、うちの姫君の方が断然お美しい……などと、密かに胸をときめかせながら、横からそっと美しい彫刻の施された、墨の入ったすずりを差し出していた。


 葵の君は墨に筆を浸し、中務卿なかつかさきょうへ謝罪と反省の手紙を書こうとするが、書き損じを量産するばかり……ついには母君に書いてもらおうと心に決めて筆を手放した。


 昨日、ガッツリ怒られたばっかりのわたしより、母君を通してわたしが真面目に反省していることを伝えてもらった方が、きっと許してもらえるよね。


 中務卿なかつかさきょうに対しては、なんの自信もない葵の君は、母君に手紙を書いてもらおうと決心して筆を置くと、書き損じた手紙をそのままに、お風呂に入ることにした。


 よかれと思ってやったことだけれど、思い返せばアレもコレも、恩をあだで返すようなことばかりしている。どう考えても彼にとっては“不肖の姪”である。


 穴があれば立てこもりたかったが、今更そういう訳にもいかない。


 お風呂から帰って乾かしてもらった髪を、紫苑にゆるゆるとくしいてもらっていると、御簾の向こう、遠いひさしのあたりにいる“伍”のところに、使いがやってきたのが見える。


“伍”は用意されている曹司に下がると、女房越しに伝えてから姿を消した。


 そして昨日の今日で、まさか顔を見ることもないと思っていた、中務卿なかつかさきょうが、“わたしの皇子様”が、北の対の女房を先導にして、渡殿をこちらに向かって歩いているのが見える。


 驚いた葵の君は、紫苑に「いないといって!」そう頼むと、思わず屏風のうしろ隠れたが、沢山の灯りがついていたので、あいにくと向こうからは丸見えだった。

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