第144話 追走曲 11
〈 元の世界にある
「このように朝早く、どうなさいましたか?」
帝の体調など、一度もうかがいに行ったこともない
「先程、帝に薬を処方させていただきましたので、ご報告に参りました」
「まあ、それはそれは、少しお待ちくださいませ」
女官は慌てた様子で、
「そういえば緊急の場合に備えて、こちらに置いてある薬ですが、いまから入れ替えをしてもかまいませんか? 実は勝手ながら丁度よい機会と、官吏に運ばせているのです」
女官はそう言われて、漢方薬の入れ替えの時期が過ぎていたことを思い出した。もちろんそのままという訳にはいかない。彼のうしろには、大きな
「そんな時期にございますね。でも、どういたしましょう……今日は、明日から出仕なさる
「ああ、お構いなく。わたしひとりで十分です。薬の入れてある厨子棚を整理してから、書簡もご用意しましょう。そうすれば、なんのお手間も取らせません」
「まあ、ありがとうございます!
女官は拝むように手を合わせてから、他の女官たちのあとに続いて
空っぽになった
ここにいる女官たちの誰ひとりとして、この薬を利用する知識などないが、彼にとってはそんなことはどうでもよかった。内裏にある
葵の君が、その正直な意見を聞けば、「やっぱり“
几帳を一枚挟んだ
あれは確か、
暗い紫がかった
もちろん国宝という立ち位置の槍であり、左大臣家の姫君が持つ
武器として生まれながらも、美しく持ち腐れているだけの存在である。
「美しい槍であったが、最後に見たのは、なんの儀式だったか、生み出されて一度も使わぬ武器とは、無用の長物以外の何物でもないな」
式典の時に武官が、ふたりがかりで運んでいたのを思い出した彼は、感慨もなくそう言ってから、視線を元に戻すと、夕刻も迫る頃ようやく整理を終えて、戻ってきた女官に目録を手渡して帰ろうとする。
帰ってきた女官は目録を受け取りながら、見覚えのない大きな箱が置いてあることに、けげんな顔をした。
「あの大きな
「新しく配合した“蚊”を除けるために焚く薬草にございます。申し訳ないが、あと数個ほどありますので、夏までに少しずつこちらに置いて頂きたい」
「ああ、それはもちろん問題のないことにございます。いまからご準備とはさすがですわ」
女官は愛想よくそう言うと、美しい字で書き留められた書簡を手に、ほんのりと染まった頬のまま、小ぶりの薬箱を手にした、温和で柔らかな物腰の
そうして、彼女も今日は早めに帰るようにといわれているので、久々に京の公卿の家で女房をしている妹をたずねることにした。
「あっけないな」
いつの間にかすっかり
彼が大内裏に帰ろうと、
「春雷か……」
そう言いながら彼が空を見上げると、みるみるうちに空には暗雲が立ち込め、滝のような大雨となり、やがて赤子の握りこぶしほどの大きな
「これは……」
慌てて格子を降ろしていた女房は、判断を仰ごうと命婦や長門など、
両手で耳をふさいでいた紫苑は、なにか自分に問われているのに気がついて手をはずす。
「
「
またもや雷の轟音がして、紫苑は飛び上がった。
『確か蜜柑の人だよね!! 悪い人じゃなさそうだし、いいよね!』
「助かりました、ありがとうございます」
吹き込んだ大雨に、半分濡れた
急な暗がりの訪れに、急いで灯火が用意される中、光った稲妻に照らし出された彼の顔が、なぜか恐ろし気で不気味にも見えたが、「雷怖い!!」で頭が一杯の紫苑は、「天気が収まるまで、こちらで雨宿り下さい」そう言い置いて、葵の君のところに戻ろうとしたが、なぜか足が動かなかった。
「これは……」
それはついに、ついに、運命の女神の手が直接に、こちらの世界に出だした瞬間でもあった……。
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