第144話 追走曲 11

〈 元の世界にある貞観殿じょうがんでんにある皇后宮職こうごうぐうしきの奥まった一角にある薬司やくし/時系列はうたげの翌朝に戻る 〉


 皇后宮職こうごうぐうしきに所属する内侍司ないししには、内侍司ないししをはじめとする十二司じゅうにしの部署があり、本来ならば帝や後宮に関する医療は、この『薬司やくし』を通して典薬頭てんやくのかみに伝達されるシステムであったが、ここもまた葵の君が頭を痛めたとおり、形ばかりの役職であり、帝の秘書と警備を兼任する蔵人所くろうどどころにもスルーされ、帝になにかあっても宮中の医局長、典薬頭てんやくのかみである刈安守かりやすのかみに、いつも直接、相談事が持ち込まれている。


「このように朝早く、どうなさいましたか?」


 帝の体調など、一度もうかがいに行ったこともない薬司やくしの女官は、朝早くから姿を見せた刈安守かりやすのかみに少し驚いた。


「先程、帝に薬を処方させていただきましたので、ご報告に参りました」

「まあ、それはそれは、少しお待ちくださいませ」


 女官は慌てた様子で、薬司やくしの記録帳を取りにゆく。いくら形ばかりの役所とは言え、こういった記録だけは適切に書き記さねば、あとで中務省なかつかさしょうの監査が入った時に大変なことになる。


 刈安守かりやすのかみの前任であった典薬頭てんやくのかみは横柄な男で、一々なにかと手をわずらわせ、苛立たせる男であったが、刈安守かりやすのかみは物腰も柔らかく、こうしていつも、ゆき届いた気づかいをしてくれるので、薬司やくしの女官たちは、彼に対してとても愛想がよかった。


 刈安守かりやすのかみは、さらさらと先程の帝の症状と、投与した薬を書き込みながら、思い出したように言う。


「そういえば緊急の場合に備えて、こちらに置いてある薬ですが、いまから入れ替えをしてもかまいませんか? 実は勝手ながら丁度よい機会と、官吏に運ばせているのです」


 女官はそう言われて、漢方薬の入れ替えの時期が過ぎていたことを思い出した。もちろんそのままという訳にはいかない。彼のうしろには、大きな葛籠つづらを担いでいる官吏たち。


「そんな時期にございますね。でも、どういたしましょう……今日は、明日から出仕なさる尚侍ないしのかみのために色々と準備に忙しく、その上、本日の貞観殿じょうがんでんは早じまいだと、皇后宮職こうごうぐうしきの別当に、固く申しつけられておりますの」

「ああ、お構いなく。わたしひとりで十分です。薬の入れてある厨子棚を整理してから、書簡もご用意しましょう。そうすれば、なんのお手間も取らせません」

「まあ、ありがとうございます! 刈安守かりやすのかみは、本当にご親切ですわ」


 女官は拝むように手を合わせてから、他の女官たちのあとに続いて薬司やくしを出て行った。


 空っぽになった薬司やくしの曹司には、壁一面に厨子棚ずしだなが並んでいる。葛籠つづらを持たせて同行させていた官吏たちを、仕事を理由に一旦、典薬寮てんやくりょうに戻した刈安守かりやすのかみは、ひとりきりになると、うっすらと笑みを浮かべ、厨子棚の引き出しを開けて、丁寧にひとつひとつ薬を交換してゆく。


 ここにいる女官たちの誰ひとりとして、この薬を利用する知識などないが、彼にとってはそんなことはどうでもよかった。内裏にある典薬寮てんやくりょうから後宮までは遠い。これだけの大荷物を、毎回、大内裏から運ぶことを思えば、保管庫と言うべき薬司やくしの場所を確保できるだけでもありがたい上に、薬と呼ぶには少し危うい品を隠して置くこともできる。


 内侍司ないししの職務といえば、すべてが形ばかりのうつわだけ。邪魔にはならぬが、役には立たぬというのが、彼と大内裏に勤める殿上人てんじょうびとたちの評価だった。


 葵の君が、その正直な意見を聞けば、「やっぱり“え”だけの職場なの?! 誰も仕事をしたことはないの?!」と、頭を抱えたに違いなかった。


 几帳を一枚挟んだ薬司やくしとなり、帝の武器や武具を保管し、取り扱う兵司ひょうしにいたっては、もちろん女の武官など存在せぬゆえ、つらつらと囲碁の盤に向かう女官がふたり、一応、留守役として時間を潰していたが、その姿もいつの間にか姿を消していた。


 刈安守かりやすのかみの目に入った兵司ひょうしには、帝の宝とでもいう武具が入った漆塗りの箱がいくつか置いてあった。すみにはひときわ目を引く大身槍おおみやり(大槍)。収納できるような箱がないのであろう。それは大仰なさやを被って、部屋の隅に鎮座していた。


 あれは確か、大身槍おおみやりの“深緋こきひ”であろう。

 暗い紫がかった緋色ひいろつかは、長さが八尺ほど(約240cm)、根元に龍が彫刻された穂先(刃の部分)は二尺(約60cm)、金細工の精巧なさやに収められている、全長に至っては一丈(十尺/約3m)はあろうかという大槍だ。


 もちろん国宝という立ち位置の槍であり、左大臣家の姫君が持つこと“螺鈿の君”同様に、ただの道具でありながら、自分よりも遥かに高い三位のくらいを持つ帝の宝、実戦に出たことはない。

 武器として生まれながらも、美しく持ち腐れているだけの存在である。


「美しい槍であったが、最後に見たのは、なんの儀式だったか、生み出されて一度も使わぬ武器とは、無用の長物以外の何物でもないな」


 式典の時に武官が、ふたりがかりで運んでいたのを思い出した彼は、感慨もなくそう言ってから、視線を元に戻すと、夕刻も迫る頃ようやく整理を終えて、戻ってきた女官に目録を手渡して帰ろうとする。


 帰ってきた女官は目録を受け取りながら、見覚えのない大きな箱が置いてあることに、けげんな顔をした。厨子棚ずしだなが並ぶ壁際に、漆塗りのかんぬきのついた、人も入るほどの大きな葛籠つづら。薬を入れ替えたのなら、箱はいつも持って帰るのにと思う。


「あの大きな葛籠つづらは、お持ち帰りにはならぬのでしょうか?」

「新しく配合した“蚊”を除けるために焚く薬草にございます。申し訳ないが、あと数個ほどありますので、夏までに少しずつこちらに置いて頂きたい」

「ああ、それはもちろん問題のないことにございます。いまからご準備とはさすがですわ」


 女官は愛想よくそう言うと、美しい字で書き留められた書簡を手に、ほんのりと染まった頬のまま、小ぶりの薬箱を手にした、温和で柔らかな物腰の刈安守かりやすのかみを見送る。

 そうして、彼女も今日は早めに帰るようにといわれているので、久々に京の公卿の家で女房をしている妹をたずねることにした。


「あっけないな」


 刈安守かりやすのかみは『葵の君の収納箱』を、上手く薬司やくしに用意することができたので、自分の薬箱を抱えると機嫌よく外に出た。


 いつの間にかすっかり人気ひとけのなくなった貞観殿じょうがんでんの出入口を通り、渡殿に出ると、待ちかねていたのか、皇后宮職こうごうぐうしきの官吏が、素早く戸締りをして姿を消した。


 彼が大内裏に帰ろうと、貞観殿じょうがんでんをあとにして、ゆっくり渡殿を歩き登華殿とうかでんの前に差しかかる。その時、いきなり大きな雷鳴がとどろきだしたのである。


「春雷か……」


 そう言いながら彼が空を見上げると、みるみるうちに空には暗雲が立ち込め、滝のような大雨となり、やがて赤子の握りこぶしほどの大きなひょうが、広大な庭に打ちつけ出した。


「これは……」


 刈安守かりやすのかみは、わざと驚いた様子で、慌ただしく登華殿とうかでんの格子を降ろそうとしている左大臣家の女房に身分を名乗り、この嵐が通り過ぎるまで、中に入れてもらえぬかと申し出る。


 慌てて格子を降ろしていた女房は、判断を仰ごうと命婦や長門など、くらいの高い女房を探したが、見当たらなかったので、取り急ぎ、幼いながらも姫君の側仕えである紫苑にたずねることにした。

 両手で耳をふさいでいた紫苑は、なにか自分に問われているのに気がついて手をはずす。


貞観殿じょうがんでんの帰りに、殿舎の前で立往生された刈安守かりやすのかみから、こちらに避難したいと申し出がございます!!」

刈安守かりやすのかみがお困りに?! こんな状況ですから仕方ないことです。わたくしのつぼねに……きゃっっ!!」


 またもや雷の轟音がして、紫苑は飛び上がった。稲妻いなずまの光に、見知った顔が浮かび上がる。


『確か蜜柑の人だよね!! 悪い人じゃなさそうだし、いいよね!』


「助かりました、ありがとうございます」


 吹き込んだ大雨に、半分濡れた刈安守かりやすのかみは、大層恐縮した様子であったが、怯えた表情の紫苑に、人のよい笑みを浮かべると、差し出された布で濡れた顔を拭う。


 急な暗がりの訪れに、急いで灯火が用意される中、光った稲妻に照らし出された彼の顔が、なぜか恐ろし気で不気味にも見えたが、「雷怖い!!」で頭が一杯の紫苑は、「天気が収まるまで、こちらで雨宿り下さい」そう言い置いて、葵の君のところに戻ろうとしたが、なぜか足が動かなかった。


「これは……」


 刈安守かりやすのかみはそれを見て、今度は本当に心から唖然として立ちすくむ。なぜなら小さな女房殿は、みるみるうちに絵姿のようになっていったから。


 それはついに、ついに、運命の女神の手が直接に、こちらの世界に出だした瞬間でもあった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る