第145話 追走曲 12

〈 登華殿とうかでん/時系列は刈安守かりやすのかみがくる少し前 〉


 葵の君が朝餉を食べ終わり、明日に向けて出仕の行事ごとに関する書簡に、目をとおしていた頃、すっかり元気になった母君が部屋にやってきて、乳母に抱かれた朧月夜おぼろづきよの君も一緒に顔を見せた。


「かわいい……」


 葵の君は、朧月夜おぼろづきよの君の、小さな“もみぢ”のような、暖かで柔らかな手をそっと触る。抱き寄せた体からは、トクトクという心臓の響き。


 たとえここが現実に存在しない、夢とまぼろしの世界であったとしても、その鼓動に確かな生を実感して思いにふける。

 そこに葵の君の身の回りの品々を管理している女房が、青い顔で報告にやってきた。


「深くお詫び申し上げます! どこを探しても、姫君の髪飾りが見当たりません!」


 女房は早朝から、あちらこちらを探していたが、一向に見つからず、意を決して、姫君に報告をすることにしたのである。


『はっ! そう言えば……』


 葵の君は、本来、お洒落に疎い体質なので、まったく気がついていなかったのだが、恐る々々、後頭部に手を当てる。


「昨日、清涼殿せいりょうでんで落としたのかしら?」

蔵人所くろうどどころの兄君に、問い合わせをしてみてはどうかしら? ほかにも髪飾りはあるのだから、慌てずともよい話です」

「はい……」


 内心は真っ青な葵の君の横で、夜の呼び出しのことを知らない母君は、うたげの時に落としたのねと思い、鷹揚におっしゃった。(国宝級の髪飾りも、母君にとっては百均のペアピンのような物であった。)


『わたしの髪飾り、一体どこに行ったんだろう? まさか昨日、夜御殿よるのおとどで落とした?! 布団の上とか……それ以外なら、なんとでも言い訳はできるけど、それは、それだけはヤバい! 下手をすれば、自分が帝に弱みを握られて……いやいや、部屋の隅にでも転がってるかもしれない』


 葵の君は、内心大いに焦っていたので、朧月夜おぼろづきよの君と散歩といいながら、登華殿とうかでんの中をひたすら探し回ってみたが、もちろん見当たらず、やがて眠たそうな朧月夜おぼろづきよの君は、乳母に抱かれてご自分の部屋へと下がっていった。


『髪飾り、どこで落としたんだろう?』


「髪飾りのことならば、そんなに気にしなくても、見つからねば、また同じものを作って……きゃっ!」


 母君が髪飾りの話を聞いてから、暗い表情の姫君を慰めようとしていたそんな時、不意に空が黒くなり、いきなり大きな雷鳴がとどろいた。


 みるみるうちに空には暗雲が立ち込め、滝のような大雨が降り注ぎ出す。


 女房たちが怯えながら格子を降ろして回り、葵の君も母君と、音に驚いて目を覚まして泣き出した朧月夜おぼろづきよの君をあやしている乳母と一緒に、殿舎の奥まった部屋に引きこもる。


「春雷の季節とはいえ、なにか恐ろしさを感じます……」

「きゃあ!!」


 鳴り響く雷鳴と、滝のように降る大雨に混じって、大きなひょうが、登華殿とうかでんの上に打ちつけ、バリバリと音を立てた。


 やがてようやく天気は持ち直し、葵の君は安心したが、周囲で異変が起き出す。


 雨雲が去り夕焼けの光に包まれる空には、なにやら墨のような液体が滴り出し、文字を形作り、それが周囲の世界をゆっくりと飲み込んで変容させてゆく。外の景色からはどんどん色が消える。


「母君? 紫苑?!」


 葵の君の周囲の人々は次々に時を止め、まるで屏風に描かれた『絵』とでもいうように、ペラペラの紙になり、動かなくなってゆく。


 空から文字と一緒に降ってきたのは、真っ白な毛におおわれた赤い目の、化け物としか言いようのない猿の群れ。

 彼らは葵の君を見つけると、禍々しい光を放つ目に姫君を映し、葵の君に狙いを定めたまま、殿舎に向かって迫りくる。


「やっぱり狙いはわたしやんか!!」


 そう毒づいた葵の君は、唇を噛みしめて空を見上げ、キッと睨みつけていたが、とびかかってきた猿共の攻撃を、素早く体を捌いてかわし、腰に乗せて払いのけたり、相手の勢いを利用して壁や床に叩きつけたり、次々と体で覚えた合氣道の技で仕留めると、自分の部屋に取って返し、刈安守かりやすのかみが見ているのにも気づかず、なんとか御神刀ごしんとうを抜いて振りかぶり、しつこくあとを追う一匹の猿の脳天に打ち下ろす。猿は無念そうな顔で、血の替わりに黒い墨のような染みをひのきの床に残して姿を消した。


「お化け猿で助かった!!」


『人間や動物相手に、刀を使えるかって言われたら、そこはやっぱり無理だけど、これならバーチャル感満載だから大丈夫だ!!』


 葵の君は大急ぎで、華やかに重ねた十二単じゅうにひとえの衣を脱ぎ捨て、一枚だけの単衣ひとえと袴の姿になると、紫苑の部屋から持ち出した掃除用のたすきをかけて、御神刀ごしんとうが入っていた桐の箱に結んであった、淡い藤色のような、楝色おうちいろの組紐で、髪をひとまとめにして高く結わえ、御神刀ごしんとうを背中に背負って、飛香舎ひぎょうしゃ(藤壺)に向かう為に、渡殿に飛び出していった。


「みんな少し待ってて!! すぐに助けるから!!」


 収まったはずの稲妻が一筋、不気味な色を放つ空に走り、彼女の雄々おおしく美しい顔を照らし出していた。


「おやおや、これは一体どうしたことか……」


 刈安守かりやすのかみは、なにもかもが時を止めた世界で、渡殿を風のように走ってゆく、風変わりな尚侍ないしのかみを、目を細めて見送っていた。


 彼は幸いなことに、煤竹法師すすたけほうしに刻ませた経文の威力で、なんの影響も支障も受けていなかったので、尚侍ないしのかみを捕獲する絶好の機会だと思い、念のために庭に降りてあとを追うことにした。


 いつでも使えるように、自分の薬箱から取り出した、法師ほうしに祈祷させた禍々しくも新しい短刀を懐にしまい、薬箱を小脇に抱える。


 広大な庭に降りると、空に一瞬光が満ちて、後光の差したひとりの女君が、まるで天女のように目の前に降りてきた。


「なんと、桐壺更衣きりつぼのこういに瓜ふたつではないか」


 彼は典薬頭てんやくのかみとしての立場上、後宮のすべての后妃たちの顔を知っていた。空から降りてきた女君は、自分のことは目にも入っていないようで、渡殿にふわりと舞い降りると、清涼殿の方角に歩き出すかに思えたが、なんの意思も生気もなき美しい女君は、嬉し気な様子の刈安守かりやすのかみに抱き押せられたまま、あっという間にうしろから首をき切られていた。


「これは……」


 道徳心の一欠片もない刈安守かりやすのかみは、もちろん自分が喉を切った女君の死に驚いたのではなく、首から垂れた、漂う伽羅きゃらの薫りのする墨のような黒い汁に驚いたのだ。


「姫君を追わねばならぬが、“コレ”を手放す訳にもゆかぬ……」


 彼は真剣に悩み、薬司やくしに置いた『尚侍ないしのかみ捕獲用の箱』を思い出し、女君を肩に担ぎあげて、庭から貞観殿じょうがんでんの裏に回ると、やはり紙でできた人形が並ぶ高欄をなんとか乗り越えて、女房たちが利用する裏口から、薬司やくしにこっそりと潜り込み、大きな葛籠つづらに謎の女君を満足げな顔で“収納”した。


 それから彼は騒がしい猿の騒ぎを思い出し、短刀だけでは心もとないと、なにかないかと兵司ひょうしの武器を漁ろうと思ったが、やはりほとんどの武器は、紙となり果てていた。


「案外と本物の宝は見当たらぬな、ああ、これは無事か」


 彼が目を留めたのは、大身槍おおみやり深緋こきひ

 一瞬ためらったが、まあ、なにかの役に立つだろうと、短刀を懐に入れて、なんとか“深緋こきひ”を片手で持ち、反対の手で自分の薬箱を抱え、大槍を引きずりながら、その場をあとにした。

 幸いなことに猿の群れは、あまり自分には興味がないようで、姫君の後を追うように移動しているようだ。


「あの猿の狙いは尚侍ないしのかみか。では、わたしの大切なつるばみの君は無事だな。おびえていなければよいが……ああ、尚侍ないしのかみを連れて帰れば、気を取り直して、さぞ喜ぶだろうね」


 絵物語の人物のようになってしまった周囲の人々、空から降り落ちる滝のような文字や藤の花弁はなびら、常人が見れば肝をつぶして当たり前の光景であったが、彼にはなんの頓着も興味もなく尚侍ないしのかみの姿を求めて、“深緋こきひ”を引きずりながら庭を歩きだした。

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