第52話 幻想即興曲 4

「最近は勉強漬けだったから、ゆっくり寝てなさいって母君に言われているので、“ふーちゃん”を変化へんげさせて布団に入れて置いておけば、本当に大丈夫ですから。これ以上の犠牲者は許されません!」


 元来『武道系女子』であった葵の君は、いまこそ自分の前世が役に立つ時と張り切って、そのまま高欄から身を乗り出していた。


「姫君!!」


 慌てた“六”は、なんとか姫君を受け止めて、姫君を屋敷内に引きとどめようと、大きく息を吐いてから今一度、口を開こうとするが、うまくゆかない。


「ですから……」

「春になれば内裏に行くので協力はできません。分かるでしょう? さあ、行きましょう!」

「あの……」


 葵の君は、まるで大人が青少年を諭すような口ぶりで、理屈の通ったような、通らないような意見を述べると、彼への信頼感を伝えるべく、最後に一言つけ加えた。


「いいですか、これ以上の犠牲が出れば、それこそ世の乱れが人心の乱れを呼び『天下国家』には大打撃です。それに、わたくしが一番適任なのです。だって……」

「だって……?」


『わたくしがおとりであれば、貴方は本気で守って下さるでしょう? であれば、なんの心配もいりませんもの』


 腕の中に抱きとめた姫君は“六”の耳元で小さくささやいた。


 なんという狡猾な言いぐさなのだろう……。


 まるで“己に恋する男を手玉にとって捨てた挙句、嘆くさまこそ愛おしい”などと言う歌を詠んだと伝え聞く、男心をもてあそぶ姫君とうわさに高い、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの妹姫の発言のようだと、“六”は一瞬、思ってしまう。


 喜んでよいのか、怒ってよいのか分からなくなった“六”は、自分に冷静になるようにと言い聞かせる。


 姫君は十歳になられたばかりの幼く神聖な方なのだ。裳着をすぐに迎えるとはいえ、それは特殊な事情ありきで……。


 姫君の言葉の裏に、なにかを無理矢理、見つけようとしてしまった自分を浅ましく思い反省する。自身との短い関係を振り返っても、同じ年端もゆかぬ女童めわらたちを、真剣に思いやっての行動だと理解する。


 ため息しか出ないが。


『この小さき姫の笑顔を守るために、自分にあてられた若苗わかなえ色の手紙と、今宵の細やかな楽しい思い出ゆえに、これから先の自分は喜んで、姫君を光の中で保護するために、あらゆる闇を引き受けるのであろう』


 このように周囲をあまねく慈悲の光で包み込む姫君であればこそ、自分自身の心に光が差し込んだのだ。この心優しき姫君を守るために、なんでもすると、自分はあの日、去年の冬空の下、そう誓ったのではないか……。


 直衣の内側に大切にしまい込んでいる『若苗わかなえ色の手紙』を意識してから、“六”は口を開く。


「……ひとまず中務卿なかつかさきょうの元へ参りましょう」

中務卿なかつかさきょう?」


 なぜ、彼の名前が出たのだろうか? “六”の友人だから?


「彼ならば上層部しか知らぬ情報も、持っているでしょうし」

「さすがですね」

「………」


『彼なら、なにがなんでも、姫君を止めてくれるはず!! 姫君も母宮が実の“兄”と重々しく扱う、腐っても“元皇子”の中務卿なかつかさきょうの説得なら、聞いてくれるはず!』


 自分の言葉に、あっさり納得したようすの姫君への、気づかぬ思いは胸の奥に押し込み、“六”は実に他力本願な願いを、上司 兼 唯ひとりの友人、中務卿なかつかさきょうに託していた。


『なんとか止めて下さい……』


 冷静に考えれば、呪法でも小突いてでも、紫苑を叩き起こしてでも、姫君を止めるように言えば、左大臣家では姫君を事件解決まで『塗籠』に閉じ込めてでも止めたはずなのに、一気に押し寄せた、姫君に対する自分の中の混乱に、“六”の頭の中には、その考えが浮かばなかった。


 彼は、自分の直衣の胸元を、小さな手でぎゅっと掴んでいる葵の君を、大切に腕の中に抱きこんで、まだ暗い左大臣家の庭を、自分の質素な牛車に向かって、姫君を抱き上げたまま歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る