第243話 修羅場 16
はじめ、周囲は懐疑的であったが、彼の
そして彼が雇った
「若様は、なぜ、あっしを殺そうと、なさらないので?」
ニセの叔父がある日、素に戻ってそうたずねると、彼は笑顔で答える。
「お前はもう死がすぐ側にいる。分かっているのだろう? お前からは、
「さすが、
ふざけた口調でそう言う男は、はるか遠い頃は、貧しいながらも、ごく真面目な人生を送っていた。
しかし何年も、何度も国を覆う饑饉で、悪事の道に踏み込んでいた。踏み入れるしかなかった。悪事の道をひた走りながら、もう長く胸の病を患い、とある心配事があり、それを隠し、無理を続けていた。
ある日、男は願いごとを口にする。自分を饑饉で死んだ親の代わりに、必死に育ててくれた姉のことを。
「若様よう、願いがひとつある。
「なぜ、対価もなく、わたしがそこまでせねばならぬ?」
「そりゃそうだ。じゃあ代わりに、ひとつ贈り物をしてやろう。この
「…………」
それから男は、自分の短刀を若様に手渡して、姉の面倒を見てもらう先払いだと、わざと彼に自分を、『
男は、叔父の
「死んでから、地獄に行くのは、怖くはないのか?」
若様が感情も感傷もなく、やかたに役人が到着する寸前、最後にたずねた時、男はニヤリと笑っていた。
「生まれたこの世も地獄、あの世も地獄、なんの違いもねえやなぁ……」
男の姉と言うのは、妹君の側にいつもいた、なにも知らぬ年老いた女房で、呼び寄せた当時は、まだ若さの残るよく働く女であった。
見ず知らずの貴族が、わざわざ自分を探し出し、呼び寄せたことに、不思議そうにしている女に、
生い茂る林から伸びた枝で、月明かりまで消えた道を、長い間歩きながら、昔を振り返っていた
自分が三条の大宮に抱いた気持ちと理由を。厨子棚にあった薬師如来像の顔、あの方とどこか重なる薬師如来像は、菩提樹の木でできていた。
『あの方に抱いたのは恋ではなく、わたしはあの時の救いを、あの方の中に見出していたのか……』
自分自身で消してしまった救いを思い、天をあおいでから、少しの間揺らいだ、なくしたはずの感情を、彼は、もてあましていたが、それもまた、自分に似合いの話だと思う。
どのくらいの時間、歩いたであろうか? ようやく山荘の近くにある大きな滝が見えて、山荘に続く大きな坂も見える。
滝にせり出した岩場の近くで馬を止めて、下をのぞく。月明りに光りながら、水が轟々と音を立てて落ちていた。
『カタン』
うしろから箱が空く音が聞こえ、振り向くと、上に乗せていた死骸は、地面に転がり落ち、目覚めたらしい
「私ガ 誰カ……分カルカシラ?」
「
『覚エテ イル カシラ?』
妹君の顔に、うっすらと、見覚えのない
『覚エテモ イナイノネ。デモ、イイコトヲ 教エテアゲル。 オ前ガ愛シタ 三条ノ大宮ハ ゴ無事ヨ。 驚イタ? 残念ソウデ 嬉シイワ……』
「そんな馬鹿な、確かに三条の大宮は……」
死んだはず……。そう言おうとした次の瞬間、暗い緑色の光が見える遥か下、滝つぼに妹君の体が、ふわりと舞い上がる。
『代ワリニ 貴方ガ 一番 愛シタ者ヲ 消シテアゲル……』
「
彼は必死に手を伸ばし、妹君を助けようとしたが、とてもその手は間に合わず、あっという間に、彼も、
『この世も地獄、あの世も地獄、なんの違いもねえやなぁ……』
それが、落ちてゆく
翌朝、不審な荷車の報告を受けた、検非違使の別当が、手勢を連れてあとを追い、滝つぼのあたりまでくると、
「まだ息があります!!」
なんとか引き上げて、女を連れて帰ってみると、それは
息も絶え絶えの彼女は、それでも厳しい取り調べを、彼女の側仕えの老いた女房と共に受けたが、ほかの奉公人も彼女も、どう調べても
後日、報告を受けた帝は、哀れに思し召し、それでもこのままでは、罪は免れぬことから、密かに
葵の上が目覚めぬいま、大火から始まった騒動で、多くの死者を出したいま、これ以上、苦しむ者を増やすのは、彼には耐えられなかった。
彼女は、亡くなるまでの短い間、なにも知らぬままに、兄に運命を断ち切られた被害者、この度の大火で亡くなった人々のことを思い、毎日涙をこぼし、読経三昧の日々を過ごす。
『……わたくしは、日の当たる場所に立てる身ではなかった』
そう思いながら、この世を旅立った彼女は、空に近いところから下を見ると、
会ったことも、一目ですら見たこともなかったのに、恋い焦がれるように、あの方に執着した理由が、いまやっと分かった。
「あの時、兄君と一緒に連れ去られた時に、わたくしはあの方に、お会いしていたのね……」
幼い記憶の奥底、暗がりに灯った小さな灯りに浮かんだ薬師如来像。あの方に生き写しの、わたしたち兄妹の救いであった薬師如来……。
「だからわたくしはあの方に、これほどまでに、憧れていたのね……」
手を合わせ、そう思いながら、
「貴女もご一緒に、天の世界へ……わたくしたちは、雲でできた船に乗って、次の世界へ旅立つの……」
「え……?」
手をつながれたまま、少し考えていると、視界の隅に、下の世界、京をのぞきこんでいる
「あの子はあそこで、姉君を見守るんですって」
「え……?」
そっと近づくと、
「
「……違うわ、わたくしはその側にいる、わたくしの姉君を見守っているの」
「そう……」
そんなことを思い、せめてもの自分にできることをと、「わたくしが貴女の代わりに姉君をきっと見守っていますから、貴女はみなと一緒に次の世界へ……」そう言うと、
彼女は、自分をじっとみつめたまま、次の世界とやらへ旅立ち、
そこが、彼女にとっての浄土だった。
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