第243話 修羅場 16

 はじめ、周囲は懐疑的であったが、彼の典薬守てんやくのかみとしての実力は、すぐに評価される。


 そして彼が雇ったも、ある時はさむらいや奉公人、ある時はニセの叔父として、器用に仕草と立場を変えながら、影では彼を若様と呼び、裏社会との仲介まで取り持ちながら、側で暮らしていた。


「若様は、なぜ、あっしを殺そうと、なさらないので?」


 ニセの叔父がある日、素に戻ってそうたずねると、彼は笑顔で答える。


「お前はもう死がすぐ側にいる。分かっているのだろう? お前からは、黒酒くろきみずがねを混ぜたような“死者”の匂いがする……」

「さすが、典薬守てんやくのかみ!」


 ふざけた口調でそう言う男は、はるか遠い頃は、貧しいながらも、ごく真面目な人生を送っていた。


 しかし何年も、何度も国を覆う饑饉で、悪事の道に踏み込んでいた。踏み入れるしかなかった。悪事の道をひた走りながら、もう長く胸の病を患い、とある心配事があり、それを隠し、無理を続けていた。


 ある日、男は願いごとを口にする。自分を饑饉で死んだ親の代わりに、必死に育ててくれた姉のことを。


「若様よう、願いがひとつある。武蔵国むさしのくにに俺の姉がひとりいる。あんたにとっての妹君みたいなモンだ。贅沢をさせてやってくれとは言わねえ、ただ、安楽に暮らせる居所を用意してやってはくれねえか?」

「なぜ、対価もなく、わたしがそこまでせねばならぬ?」

「そりゃそうだ。じゃあ代わりに、ひとつ贈り物をしてやろう。この刈安守かりやすのかみの地位だ。飢饉であっても、国で最大の穀倉地、悪くない収入だ。それに、分かっているだろうが、いずれは俺が、ニセの叔父だとバレるだろう。いまなら俺が、若様にごっそり、譲れるようにしてやれる。そうすれば若様の大切な妹君は、何不自由のない暮らしを手に入れ、若様も本当にやりたい研究ことができるだろうよ……どうよ?」

「…………」


 それから男は、自分の短刀を若様に手渡して、姉の面倒を見てもらう先払いだと、わざと彼に自分を、『典薬守てんやくのかみの地位を強奪しようとした叔父』と告発させた。


 男は、叔父の刈安守かりやすのかみの地位を、朝廷に取り上げさせ、彼の叔父として、短い最後の時間を牢獄で終える道を、みずから選んでいた。


「死んでから、地獄に行くのは、怖くはないのか?」


 若様が感情も感傷もなく、やかたに役人が到着する寸前、最後にたずねた時、男はニヤリと笑っていた。


「生まれたこの世も地獄、あの世も地獄、なんの違いもねえやなぁ……」


 男の姉と言うのは、妹君の側にいつもいた、なにも知らぬ年老いた女房で、呼び寄せた当時は、まだ若さの残るよく働く女であった。


 見ず知らずの貴族が、わざわざ自分を探し出し、呼び寄せたことに、不思議そうにしている女に、流行病はやりやまいで亡くなった、お前の弟の遺言だと言うと、ああ、出稼ぎにゆくと家を出た弟が、不相応な仕送りができた理由が、やっと分かりました。女はそう言いながら、彼が建ててやった、中味のない墓の前で泣いていた。


 生い茂る林から伸びた枝で、月明かりまで消えた道を、長い間歩きながら、昔を振り返っていた刈安守かりやすのかみは、唐突に大切なことを、ひとつ思い出して理解する。


 自分が三条の大宮に抱いた気持ちと理由を。厨子棚にあった薬師如来像の顔、あの方とどこか重なる薬師如来像は、菩提樹の木でできていた。


『あの方に抱いたのは恋ではなく、わたしはあの時の救いを、あの方の中に見出していたのか……』


 自分自身で消してしまった救いを思い、天をあおいでから、少しの間揺らいだ、なくしたはずの感情を、彼は、もてあましていたが、それもまた、自分に似合いの話だと思う。


 どのくらいの時間、歩いたであろうか? ようやく山荘の近くにある大きな滝が見えて、山荘に続く大きな坂も見える。刈安守かりやすのかみは、一度休息することにした。


 滝にせり出した岩場の近くで馬を止めて、下をのぞく。月明りに光りながら、水が轟々と音を立てて落ちていた。


『カタン』


 うしろから箱が空く音が聞こえ、振り向くと、上に乗せていた死骸は、地面に転がり落ち、目覚めたらしいつるばみの君が立っていた。


「私ガ 誰カ……分カルカシラ?」

つるばみの君?」


『覚エテ イル カシラ?』


 妹君の顔に、うっすらと、見覚えのない女童めわらの顔が重なる。


『覚エテモ イナイノネ。デモ、イイコトヲ 教エテアゲル。 オ前ガ愛シタ 三条ノ大宮ハ ゴ無事ヨ。 驚イタ? 残念ソウデ 嬉シイワ……』


「そんな馬鹿な、確かに三条の大宮は……」


 死んだはず……。そう言おうとした次の瞬間、暗い緑色の光が見える遥か下、滝つぼに妹君の体が、ふわりと舞い上がる。


『代ワリニ 貴方ガ 一番 愛シタ者ヲ 消シテアゲル……』


つるばみの君!!」


 彼は必死に手を伸ばし、妹君を助けようとしたが、とてもその手は間に合わず、あっという間に、彼も、つるばみの君も、凄まじい水音と共に、滝つぼに落ちて行った。


 刈安守かりやすのかみのやかたの捕り物騒ぎや、やかたの一部が焼けた火事が落ち着き、心配顔の夕顔や紫苑たちが、三条の大宮を涙ながらに出迎える頃、例の滝つぼには、烏帽子えぼしがひとつ浮かんでいた。


『この世も地獄、あの世も地獄、なんの違いもねえやなぁ……』


 それが、落ちてゆく刈安守かりやすのかみの脳裏を、最後によぎった言葉であった。赤い火の珠が、しばらく烏帽子えぼしの上をグルグル回って、じっとしてから姿を消した。


 翌朝、不審な荷車の報告を受けた、検非違使の別当が、手勢を連れてあとを追い、滝つぼのあたりまでくると、刈安守かりやすのかみが踏み外したらしい足跡が滝の上にあり、かずらつたに巻きつかれ、崖の端にぶら下がっている女を、武官のひとりが見つける。


「まだ息があります!!」


 なんとか引き上げて、女を連れて帰ってみると、それは刈安守かりやすのかみの妹、つるばみの君であった。


 息も絶え絶えの彼女は、それでも厳しい取り調べを、彼女の側仕えの老いた女房と共に受けたが、ほかの奉公人も彼女も、どう調べても刈安守かりやすのかみの所業は知らぬ様子であり、その上、つるばみの君は、生きているのが不思議なほど、重く患った身であった。


 後日、報告を受けた帝は、哀れに思し召し、それでもこのままでは、罪は免れぬことから、密かにつるばみの君を出家させ、女房と共に目立たぬように、小さな寺に住まわせる。


 葵の上が目覚めぬいま、大火から始まった騒動で、多くの死者を出したいま、これ以上、苦しむ者を増やすのは、彼には耐えられなかった。


 彼女は、亡くなるまでの短い間、なにも知らぬままに、兄に運命を断ち切られた被害者、この度の大火で亡くなった人々のことを思い、毎日涙をこぼし、読経三昧の日々を過ごす。


 つるばみの君は、密かに忍んできては、永遠の愛を語る、光る君を無視したまま、やがてひっそりとこの世を去る。不思議なことに、最後まで側にいた、尼となっていた年老いた女房も、時を同じくして、あの世へと旅立っていた。


『……わたくしは、日の当たる場所に立てる身ではなかった』


 そう思いながら、この世を旅立った彼女は、空に近いところから下を見ると、尚侍ないしのかみを見つける。


 会ったことも、一目ですら見たこともなかったのに、恋い焦がれるように、あの方に執着した理由が、いまやっと分かった。


「あの時、兄君と一緒に連れ去られた時に、わたくしはあの方に、お会いしていたのね……」


 幼い記憶の奥底、暗がりに灯った小さな灯りに浮かんだ薬師如来像。あの方に生き写しの、わたしたち兄妹の救いであった薬師如来……。


「だからわたくしはあの方に、これほどまでに、憧れていたのね……」


 手を合わせ、そう思いながら、つるばみの君の魂が、ふわふわと空を漂っていると、今度は光に包まれた大勢の女童めわらたちの魂に出会う。


「貴女もご一緒に、天の世界へ……わたくしたちは、雲でできた船に乗って、次の世界へ旅立つの……」

「え……?」


 手をつながれたまま、少し考えていると、視界の隅に、下の世界、京をのぞきこんでいる女童めわらがひとり。


「あの子はあそこで、姉君を見守るんですって」

「え……?」


 そっと近づくと、女童めわらはこちらを見て、かすかに反応して、また、下を見ていた。


尚侍ないしのかみ……」

「……違うわ、わたくしはその側にいる、わたくしの姉君を見守っているの」

「そう……」


 つるばみの君は、名前も知らない女童めわらは、きっと兄君の被害者だと気づく。兄君がしでかしたことを思えば、彼が地獄に落ちたことは、確実であっても、弱すぎた自分が、彼に罪を負わせたのかもしれない……。


 そんなことを思い、せめてもの自分にできることをと、「わたくしが貴女の代わりに姉君をきっと見守っていますから、貴女はみなと一緒に次の世界へ……」そう言うと、女童めわらは少し迷っていたが、やってきた同じ年恰好の別の女童めわらに手を引かれて、雲でできた船に乗る。


 彼女は、自分をじっとみつめたまま、次の世界とやらへ旅立ち、つるばみの君は、そこにとどまり、女童めわらたちと、彼女の姉君、そして尚侍ないしのかみの幸せを祈り、兄君がいつか救われる日がくるように祈っていた。


 そこが、彼女にとっての浄土だった。


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