第244話 入れ替わる光と影 1

〈 すべてが終わったあとの中務卿なかつかさきょうのやかた 〉


「それでは、やはり刈安守かりやすのかみがわたくしの妹を……」

「幸い火事は、ぼやで済みましたが、妹君の遺骨が、最早あったのか、なかったのかということすら、残念ながら判別ができませんでした。しかしあの男が犯人であったことには、間違いありません」


 検非違使の別当の報告を受け、夕顔は息をのんでいた。


 それから何日もたって、三条の大宮が患われていた目の病は、帝が手配された医師や陰陽師の祈祷によって、じょじょに回復する。


 臣下へ降下が決まっていた光る君は、必死に刈安守かりやすのかみの縁者ではないと、帝に、朱雀帝に申し出たが、この騒動での心労が祟って、桐壺更衣きりつぼのこういの母君、つまり祖母が亡くなったので、縁者であるとも、縁者でないとも証明ができず、光る君は、ひとまず祖母の葬儀のために京を離れ、そのまま祖母が住んでいた小さな山荘にとどまるしかなかった。


 彼の処遇に関しては、密かで長い審議の末、表に出せぬ騒動であるし、新しい御代への障りになってはならぬと、彼は祖母の元へ初めから避難していた。そういうことで、公式には決着がついていた。



〈 関白のやかた 〉


「さて、光る君の元服だが、どうしたものか……」


 そう言ったのは、誰より心配していなさそうな関白であった。手には光る君が、桐壺帝にあてて書いていた、事件の夜に押収した手紙。凝りもせず、葵の上を手に入れようとしていたらしい。


尚侍ないしのかみの受けた呪いの件もあります。ひとまずは元服をさせ、大学寮に通わせましょう。世間のことを知るよい機会にもなるでしょうから。先帝が残された六条院を、そのまま相続させれば、やかたの問題もないでしょう」

「……おおせのとおりに」


 関白と帝のやりとりを、横で聞いていた弘徽殿女御こきでんのにょうごは、険しい顔を隠しもせず、檜扇をイライラと、もてあそんでから、口を挟もうとしたが、ついに帝となった最愛の朱雀の君が、なにやら含みがある表情で、そうおっしゃっているし、関白がチラリとこちらに視線を投げて、ニヤリと笑ったので、ふたりには、なにか深い考えがあるのだろうと思い、帝の寵愛していた元皇子が、臣下に降りて、大学寮へ通うだけでも、よい恥さらしだと、なにも言わなかった。


 そんな弘徽殿女御こきでんのにょうごの元に、女房の萩が使者の訪れを告げる。部屋に戻って話を聞いてみれば、右大臣が寝込んで、母君である北の方が、荒れ果てたやかたを、どうしてよいか困り果てているらしい。


「屋敷内の差配はともかく、倒れた木々や崩れた橋など、やかたの大掛かりな修繕がまったくおぼつかぬとか……」

「なんと! はようたくみの手配を!! ああ、我が家は娘しかおらぬゆえ、とにかく、すぐに頭中将とうのちゅうじょうにも手紙を書いて、相談に乗ってもらうようにいたしましょう」


 東宮が帝となったいま、弘徽殿女御こきでんのにょうごは、今度は父君が寝込まれているので、実家の総領娘そうりょうむすめという立場の責任を果たすべく、右大臣の代わりに、今度は御実家の用事に、忙しく差配に奔走されていたが、そのお顔は、後宮のどんなうたげに出ている時よりも、晴れやかであった。


 そんな風に、京中を騒がせた事件は、すべて秘密裡に処理されて、尚侍ないしのかみは表向き心労が重なり、出仕を休んで長く休養される。そう大内裏にて発表される。訳を知っている公卿たちは、さもありなんと納得していたし、里に帰っている先帝の后妃たちも、この大火のあとも、大変なご多忙だったと聞く尚侍ないしのかみに、深く同情していた。


 そうして世界は、葵の上を置き去りにすべてが動き出し、善政を行う朱雀帝の御代に、国中が喜びに沸き、世の中は明るい希望を抱いて、次第に活気づいてゆく。


 元のことの姿に戻った『螺鈿らでんの君』は、中務卿なかつかさきょうのやかた、葵の上の枕元で、主人の目覚めを待つことにし、眠りについた。




〈 中務卿なかつかさきょうのやかた/季節は冬のはじめ 〉


 葵の上は、ぼんやりと目を開ける。枕の横でなにかが動いた気がしたが、酷く疲れていたので、再び目を閉じて、ゆっくりと横になっていると、「今日は特別に冷えるから、葵の上のお部屋はもっと火鉢を増やした方がいいわね」そんな紫苑の言葉が聞こえた。側にいるのは菖蒲あやめ撫子なでしこのようで、ああ無事だったんだと安心する。


 どうやら知らない間に、中務卿なかつかさきょうのやかたまで、帰ってきていたらしい。いや、ひょっとしたら、夢だったのかなとも思ったけれど、あの痛みはしっかり覚えていた。


『思いっきりさやを、おでこにぶつけたから、ガチで目から星が出たもんね、痛かった!!』


「大丈夫……そこまで寒くは……けほっ!!」

「……姫君?」

「また姫君って言っているわよ? わたしはもう……」


『北の方なのに』


 葵の上が、そう言おうとした瞬間、紫苑が大粒の涙をポロポロこぼしながら、大声で「姫君!!」そう言って飛びついてきた勢いで、せきが止まらなくなった。


「やっとお目覚めになったんですね……もう、本当にいままで心配で心配で……」

「え? わたし、何日も寝込んでいたの?」

「五年です!」


 その言葉に仰天した葵の上は、あの日、この源氏物語の世界にきた時と同じように、自分の体に異常に体力と栄養が不足しているのに気づく。


 違うのは咳き込んだ拍子に、知らぬ間に口から火のついたトカゲの尻尾が、ごぽりと出たこと。尻尾は気づかれぬまま、しばらく床でうごめいていたが、どこからか聞こえた小さなかけ声と共に姿を消した。


 紫苑の泣き声を聞きながら、横で固まっていた菖蒲あやめ撫子なでしこは、はっとした顔で、もう里内裏である関白のやかたに向かおうとしていた中務卿なかつかさきょうが、まだいるであろう牛車のある車止めの方に、けつまろびつ必死に袴を捌いて走ってゆくと、葵の上が目覚めたことを告げる。


「あの! その! お目覚めに!」

「北の方が、お目覚めになりました!」

「なんと……あの龍の姫君は、本当にやってくれたのか!」


 すでに牛車に乗り込んで、出立しようとしていた中務卿なかつかさきょうは、手にしていた杓を取り落としたのにも気づかず、慌てて牛車から飛び降りると、葵の上がいる母屋の御几帳台の方に走ってゆく。


「葵の上!!」


 そう呼ばれ、体を起こそうとしたが、首を、声のした方向に動かすのが、いまの彼女には精いっぱいだった。


将仁まさひと様?」


 自分の横にそっと座り、優しく抱きしめてくれたわたくしの元皇子様は、相変わらず超かっこよかった。


「あの僧侶はどうなりましたか? 母君は? 母君を早く助けに……けほっ!!」


 そう言いながらも、まったく動かない体に、あせっていると、どこからか聞きなれた衣擦れの音がして、やっぱり、この源氏物語の世界に、初めてきた時と同じように、心配の余り全力疾走してきたらしき、誰よりもお美しく素晴らしい、母君の姿が現れる。


 うしろにいるのは、朧月夜おぼろづきよの君だろうか? 五年の月日の間に、あの幼かった子は、まるで小さな弘徽殿女御こきでんのにょうごのような、生きた人形のように美しい少女になっていた。


 それでも初めに口にしたのは、心配でならなかった母君のこと。


「ああ、母君、ご無事だったのですね……」

「それはわたくしの言葉です!」


 かけつけた母君に、握り締められたわたしの手は、すっかりやせ細り、息をするだけでも精一杯だった。母君は感極まったのか、涙をあふれさせ、手を握ったまま気を失い、将仁まさひと様は、慌てて今度は母君を抱き留めながら、大声で御簾の向こう側にいる誰かに指示を出していた。


『相変わらず声までカッコいいな』


「帝と関白に知らせを! いや、文使いではなく、早馬を走らせろ! 尚侍ないしのかみが無事に目覚めたと! わたしもあとからすぐに参内する!」

「???」


 声を聞いた随身のひとりが、素早く返事をして、嬉しそうな顔で姿を消した。


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