第242話 修羅場 15
〈 その頃の
なぜこうなったのか、彼には分からなかった。
右大臣のやかたでの騒動の日、夜遅く、そろそろ宴の松原を出て、やかたに帰ろうと考えていると、なにやら検非違使所が騒がしいと報告を受ける。
嫌な予感がした彼は、自分の牛車に疲れているだろうと、人のよい顔で、何日も泊まり込みをしていた副官を乗せた。
「また、ここに引き返すように、言ってくれればよい。わたしはまだまだ、帰れそうにないから」
「ありがたき、お心遣いでございます」
しきりに恐縮しながら、彼は牛車に乗って帰ってゆき、案の定、道の途中で止められていた。
それを見届けた
道にはどんどん侍たちが増えていた。この分では大宮どころか、妹君を連れて京を出るのも難しいだろう。
寝殿の様子をうかがうと、なにも気づいていない第二皇子が、少し気分が持ち直した様子で、文机に向かっている。先に始末して、どこぞのやかたに、放り込めばよかったと思うが、いまはそれどころではない。
彼を放置して、そっと東の対に足を運び、かけ忘れたのか、鍵が開いたままの曹司の中に入る。隠し部屋を入り口から、チラリとのぞくと、目覚めたらしき大宮は、恐ろしさに
少し思案して、手放すくらいならと、曹司の扉の回りに油をまいて、小さな火を置いて外に出ると、なにも知らぬ様子で、内裏から預かって、そのまま亡くなった者を、
これだと思った彼は、彼を刺し殺してから、死人を入れた箱を、大宮を隠してきた二重底の箱に入れ替えた。
あとは妹君を、しばらく眠らせて、まだまだ裏路地では続いている死者を運ぶ列に紛れよう。
そう思い、妹君を探しにゆくと、部屋はがらんとして誰もいない。裏手の門の方からなにやら、大きな音が聞こえ、そちらに向かってゆくと、青い顔の妹君が急に現れた。
「兄君、恐ろしい野党かもしれません! 大きな音がして見に行くと、門が壊されるような音が!」
「大丈夫、大丈夫だから。きっと検非違使が、なんとかしてくれよう。それでも京は危険だから、お前を連れて、しばらく郊外の山荘へ逃げようと思う」
「京を離れるのですか?」
腕の中で不安そうに震えている妹君を、慰めるように髪を撫ぜて、「目が覚めた時には、もう安全なところについている」そう言って、強い薬を飲ませ、例の二重底の箱に、貴重な本と共に妹君をしまい、上の箱には本物の死骸を乗せた。
「……結局、京を去るしかないのか……欲をかいたばかりに……」
それから
入れ替わるように、邸内に踏み込んできた武官や侍たちの荒々しい足音が響き、女房や奉公人の驚いた悲鳴が響く。赤々とした松明が、暗いやかたの中を走り回っていた。用意した火が小さすぎたのか、曹司からは少し煙が出ているだけだったが、確かめるすべはない。
途中で数人の検非違使に呼び止められたが、「内裏の大火にて逃げ遅れ、手当の甲斐もなく亡くなった官吏の死骸にございます。翌朝、
彼は山奥にある山荘を目指す。そこは元々、
幼い頃、叔父に監禁されていた当時は、廃屋同然になっていたが、密かに手入れをし、いまでは秘密の研究所を兼ねた作業小屋のように使っている。
最低限の快適な暮らしはできるので、ほとぼりが冷めるまで、妹君と一緒に身を隠し、
月あかりの他は、なんの明かりもない。妹君を乗せた荷車を引く馬と、トボトボと、幼い頃を思い出しながら、夜の道を、時間をかけて歩く。
僅かな幸せの日と、
母君は横で、まだ這うことしかできぬ赤子の妹君を抱き、父君の気の早さに苦笑し、それでは我が家の将来は安泰ですねと言いながら、彼を幸せそうな顔で見つめていた。
しかし、幸せな家庭に育ち、天賦の才を持ち合わせていた彼は、その後すぐに、両親の突然の病と死で、生きたまま奈落に落ちる。密かにうわさされている彼の物語は、過酷という言葉では表せぬ残酷なものだった。
つき合いもなかった、祖父に勘当されていた下卑た叔父、前の
しかし、署名したとてその先は、野垂れ死にするしかないと、理解していた彼は、頑なに拒否をした。署名をさせるために、何度も繰り返される拷問。
食べるものがなにもない中、見張りの目を盗んで、小さな壁際の窓の外に自生する野草から、食べられる草を探しては、手を伸ばして引きちぎり、すり潰し、寝たきりになった妹君の口に流し込んでいた。
まだ幼い妹君は、あっという間に、生きているのか死んでいるのか、そんな状態になっていたが、女であったので、叔父には、なんの興味もない土塊に見えていたのが、幸いであった。
自分にあった幸せを現実だったと、証明してくれる妹君が、彼に残された唯一の光だった。
そんな風に彼は、なにをされても言うことをきかぬので、病で弱って死んだことにしようと、あえて餓死をさせるために、叔父に放置されてから何日もたった頃、自分が閉じ込められた曹司には、隠し部屋があることに気づいた。中にあった幾つもの大きな
『わたしには、どうも怪しく思えるのだよ。もしやあれは毒ではないかと……』
『父君……』
亡くなる寸前に父君を呼んで、そう言い残していた祖父君の言葉が、彼の脳裏にまざまざと、よみがえっていた。
隅にあった屏風で仕切った部屋には畳。その上には、小さな薬師如来像が乗った文机と、ずらりと本が並んでいる厨子棚。それは、
手に取った本の中を見て、祖父君が黙っていた理由を、もうひとつ察した。そこに並んでいるのは、禁忌とされる生き物の臓腑を使う、動物性生薬を取り扱う本が混ざっていた。
なぜかあった、少しばかりの食料を見つける。火を起こす道具や鍋に器など、最低限の生活の道具もあった。崩れた屋根の穴の下には、大きな水たまり。
妹君をそっと畳に寝かせて、目についた布地でくるみ、米をついて粥を炊きながら、彼は、むさぼるように、本や記録を読んだ。
何時間たったのだろう? いまにも途絶えそうな妹君の泣き声に、はっと我に返ると、でき上がった粥を、そっと食べさせてやる。やがて幸せそうに、また眠りについたのをみて安心し、再び記録を読み、本の内容を頭に叩き込んでゆく。
それから数日後、様子を見にきた叔父の奉公人が、曹司の中をのぞくと、誰もいないことに慌てて、中に入ると、奉公人は用意していた焼いた火箸で、彼に腹を刺されていた。
大声を上げて転げまわる奉公人の頭をつかんで、何度も置いてあった石臼に叩きつける。
「や、やめてくれ!! 助けてくれ!!」
そう泣きわめきながら、男が彼の関心を引こうと口にしたのは、両親の死が、「叔父によって毒を盛られた」その事実で、男の胸に今一度、火箸を刺して殺したあと、大声を上げて彼は泣き叫び、涙が枯れ果てたあと、妹君以外の人に対する感情は、一滴も残ってはいなかった。
血と、肉が焼けただれる匂いが、部屋中に充満する中、幼い彼は男の臓腑を取り分け、生薬の本を片手に、死んだ奉公人のはらわたを、平然とかき回してから呟く。
「熊と人では勝手が違い過ぎて、参考にならんな……」
感情が消えたあと、その先は簡単だった。戻らない奉公人を不審に思って、様子を見にきた叔父に、
叔父はそれを聞いて、婚約者の父が首を突っ込むことを恐れ、このまま彼が亡くなれば、大事になるかも知れないと、奉公人のことも忘れて、慌てて扉の鍵を開ける。
幾日も放置し、衣から見えぬ場所には、ありとあらゆる傷や
「それで、わたしをお雇いになったと……これまた恐ろしいお話で……」
当時、苦笑しながらそう言ったのは、いかにも
平然とした顔で、返り血で赤黒くなった服を着て、赤子を抱いている少年は、まるで、いきのよい魚かなにかを見るように、男を見ていた。
「あの食料は、お前が隠していたのか。見たところ、まともな人間ではないな。だが礼を言う。おかげで助かった」
「……それはようございやした。見れば大変なご様子、これからどうするおつもりで?」
そう言いながら、目の前の
金さえ用意すれば、すべてを請け負う、出会ったばかりのそんな男を雇った彼は、叔父の衣服をはぎとると、彼を叔父に仕立てて京に舞い戻る。
田舎者の叔父の顔は知られておらず、その上、叔父が事を秘密にするために、奉公人は、数人連れてきただけであったので、やすやすと残りの数人を始末すると、作業小屋に運び
それから具合が悪いと、かねがねうわさに聞いていた関白の北の方に、かつての父君の人脈を通じて、自身を紹介させて病を治し、信頼を獲得すると、それから何度も出入りしているうちに、彼は北の方に、意外な秘密の相談を受けていた。
『息子を疎む関白を、
「では、少しずつ食事に塩を増やし、酒を多く飲ませればよいでしょう」
そんな彼の言葉に北の方は、不満そうな顔をしたが、「食事というものは、扱いようによって、毒にも薬にも変化するものですから」そう言われ、その言葉通りにすると、じょじょに自分の夫が弱って行くことに満足し、内裏に手を回し、ニセの叔父を使って元服した彼を、幼過ぎるという言葉を押し切って、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます