第241話 修羅場 14

〈 二条院 〉


 桐壷帝が身罷り数刻もたった頃、疲れてつるばみの君の中に帰っていた玉鬘たまかずらは、遠くから流れてきていた、僧侶の気が消えたことを感じ、自分の部屋で大人しく寝ている宿主が、息絶えようとしていることに、眉をひそめる。


 あの僧侶が永らえさせていた宿主の命も、僧侶が最後を遂げたせいで、力が及ばなくなり、か弱い宿主は、この世から消えてしまうのだろうか? 


 つるばみの君には、なんの恨みもなかった。胸は少し痛むが、なにも知らぬままに、兄の狂気に飲み込まれていた妹君の不遇を思うと、これで幸せだったのやも知れぬと、密かに手を合わせ、自分がこの世に留まれる時間も、どのくらい残っているのか分からないと、気持ちが焦る。


 地獄道・餓鬼道・畜生道、修羅道・人間道・天道、六道輪廻ろくどうりんねの世界に生死を繰り返す人の身で、本来であればとっくの昔に、自分は他の開放された女童めわらたちと一緒に、人間道か天道を選び、次の世界に生まれ変わっているはずであった。


 しかし、たとえ悪道と呼ばれる地獄道に落ちてもよい。その覚悟で、玉鬘たまかずらは復讐を果たすために、この世界での犠牲者をこれ以上ださぬために、この世にとどまっていた。


 つるばみの君の中にいる玉鬘たまかずらは、部屋の厨子に置いてあった、あの法師が残していた呪札のすべてを飲み込み、最後の力を振り絞って、消えそうな彼女の命と自分を、なんとかこの世につなぎとめる。


 周りを見回すと、もうすっかり真夜中になっているが、まだ格子は上がっている。今日も今日とて、第二皇子の世話と、頼まれた手配りで、使用人は忙しいようだ。


 なにやらやかたの外から、小さな聞きなれぬ音がする。空に上がって見下ろせば、大勢のさむらいたちが、静かにここに向かっている様子が見て取れた。どうやらようやく男の悪事が露見したらしい。


「ちょうどよかった。この様子なら、あの方を助けることができるかもしれない……」


 人気がなく暗い東の対をゆくと、見覚えのある鍵のかかった、あの男の曹司が現れた。つるばみの君を操って、ここまできた玉鬘たまかずらは、鍵を見て面白そうな顔をする。


 彼女が手をかざすと、呪札のなくなった鍵のかかった扉は、なんなく開き、中に入ると自分がかつて閉じ込められていた曹司の奥、隠された扉を開く。


 真っ暗な奥の隠された空間、そこから細く透き通った声と、よく知った弱々しいうしろ姿が見えた。


「そなたは誰? なにも見えないわ、ここはどこ?」


 ああ、やはりこの方は、尚侍ないしのかみの母宮。先程見た尚侍ないしのかみと瓜ふたつのお顔に、玉鬘たまかずらは改めて確信する。どうやら目が見えぬらしい彼女に、少し戸惑ってから返事をした。


「わたくしは、わたくしは……尚侍ないしのかみにお仕えする、女房の夕顔の妹にございます。どうぞこちらに、裳抜けの殻にして衣は置いたままの方が、時間が稼げましょう」

「そ、そうね……」


『もぬけの殻/裳抜けの殻』


 同じ響きのこの言葉には、実はふたつの意味があった。ひとつは蛇などの脱皮した時の抜け殻。もうひとつは、いま、玉鬘たまかずらが、三条の大宮に勧めた通り、重い十二単とを、そっと脱いでしまえば、その重ばり具合で、衣装は倒れることなく、障子の向こうや几帳の影からは、まるで女君がその場にいるかのように、しばらくはごまかせるので、相手をしたくない男から逃げる時にとる最終手段のことであった。


 幸い大宮がいた空間は、厨子が石の台を取り囲み、少しのぞいたくらいなら、ごまかせそうである。


 単衣一枚と袴姿になった大宮の手を引いて、渡殿に出たつるばみの君に取り憑いた玉鬘たまかずらは、大宮をさっき空から見た、一番位が高そうな貴族がいた裏門の前まで連れてゆくと、驚く大宮に自分が羽織っていた衣を一枚かけて、お顔をなるべく見えぬようにしてから、扉に手を当てさせてささやいた。


「外に救いが到着しております。お急ぎになって下さい」

「危ないわ。そなたを置いて行く訳には行きません!」


 そう言う大宮に、彼女は少し迷ってから、背後に迫刈安守かりやすのかみの気配を感じて、焦って口を開く。


「あとからすぐに参ります。どうか姉を、夕顔をよろしくお願いいたします!!」


 目の見えぬ大宮をそのままに、玉鬘たまかずらの体全体がぽうっと赤い光を放つと、大急ぎでつるばみの君の体を抜けて、ひょいと門を飛び越える。目の前には驚いた様子の大勢の武官や侍たち。その中で先程、尚侍ないしのかみにつき添っていた貴族を見つけた。


 いきなり現れた怨霊のような、女童めわらの霊に、彼の周囲はざわついていたが、彼は冷静に手で制すると、名前をたずねてきた。


『私ハ 尚侍ないしのかみニ仕エル 夕顔ノ 殺害サレタ妹デゴザイマス 扉ノ向コウニ 三条ノ大宮ガ イラッシャイマス』


「そなた……」


 突然現れた女童の霊は、それだけ言うと姿を消した。


『クケ、クケケケケ』


 そんな声が聞こえ、ふりあおいだ門の上では『螺鈿の君』が、嬉し気に飛び跳ねている。


「三条の大宮、いらっしゃるのですか?」


 そうたずねる中務卿なかつかさきょうの声に、確かに扉の向こうから、か細く透き通った三条の大宮の声が答えるのが聞こえ、彼は大宮に少し下がるように言ってから、さむらいたちに門を打ち破らせた。


「よくぞご無事で……大宮?」

「目が、目が見えないの……」


 顔を周囲に見せぬように、素早く腕の中に引き寄せた大宮の瞳は白く混濁し、ほとんどなにも口にしていなかったのであろう。彼女の体は驚くほどに軽かった。


刈安守かりやすのかみの罪は明白である! やかたの中をくまなく探せ! 縁続きである第二皇子も、共犯の可能性がある。必ず確保せよ!」

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