第151話 追走曲 18

〈 運命の女神が暮らす平安の世界/飛香舎ひぎょうしゃ(藤壺)にある女神のつぼね 〉


“運命の女神”のつぼねに、どこから入ったのか、突然、子猫ほどの小さな生き物がひらりと現れる。

 小さな生き物は少しの間じっと身を竦ませていたが、やがて女神の文机の方へと近づいてゆく。


 果たしてソレは、『華麗なる王朝絵巻物語』の捨てられた料紙の世界に転生を果たした『葵の君』であった。


『こっちとは、サイズが違うんだ! なんで? 物語の中の世界だから、現実世界? のこっちより、あっちは全部小さいのかな?』


 さっき穴をのぞいて、そこが運命の女神のつぼねだと気づいた葵の君は、女神がいないのをこれ幸いと、彼女が手を入れはじめていた、いまは自分が住む『絵物語』が書きつけられているらしき、少し黄ばんだ料紙の束を文机の上に見つける。


 葵の君が予想した通り、それは捨てられたもうひとつの『王朝絵巻物語』で、ちらりと見た内容は自分が生きて過ごしてきたままだった。


 新しく足されたらしきうしろのページには、案の定、女神の逆鱗に触れて、途中まで書き入れられた『捨てられた世界の終わり』が読みとれる。

  

 葵の君は大慌てで、なんとか大きな料紙の束を抱え、元の世界に戻ろうと頭上の穴を見上げた。


 すぐ手が届きそうなくらい近かった穴は、なぜか遥か高い位置に見える。

 穴の淵には心配そうにこちらを見ている中務卿なかつかさきょう。女神が留守で助かったが、いまのうちに帰らねばと気持ちを焦らせていると、几帳の向こうの遠い暗がりから、こちらに近づく灯りが見える。


『ヤバい! 超ヤバい!』


 見つかる前になんとか帰らなきゃ! そんな風にあせった気持ちでつぼねをぐるりと見回した。香炉こうろからは例の『沈香と乳香』薫りが漂っている。


 やがて葵の君はすぐ目の前に、とんでもなく巨大な衣架いか(着物を掛ける調度)があることに気付く。


 これをよじ登れば穴の上に届くはず! そう思った彼女は、肩にかけていたたすきを解いて、器用に料紙の束を背中に背負い、長い袴の裾を捲り上げて、腰の隙間に押し込んで股立ちを取ると、なんと衣架いかをよじ登りはじめた。


『のぼり棒を思い出すなぁ……』


 葵の君は『壺漬けの恐怖』から考えを逸らすかのように、小学校時代の校庭の隅にあった、いまでは使用禁止遊具となっているらしい『のぼり棒』を思い出し、黒い漆塗りの衣架いかの棒を、両手と両足を使って必死に登る。


『いや、めっちゃ必死な状況なんだけど、ほんとになんでも挑戦しておいて損はないよね! のぼり棒は小学校以来だけど、金具の飾りがある分、素早く登れる!』


 そんなこんなを考えながら、ようやくてっぺんにある横棒にたどりつき、両腕に渾身の力を込めて棒の上に体を乗り上げ、立ち上がってバランスを取りながら中務卿なかつかさきょうに手を伸ばす。


 すぐそこにあったはずの穴から伸ばされた中務卿なかつかさきょうの手に、なぜか手が届きそうで届かない。その上、段々距離は遠くなってゆく。


 どうしようと思っていると、長い棒が一本スルスルと降りてきて、少し悩んだが、穴はどんどん小さくそして遠くなってゆく。

 つぼねに誰かが入ってこようとする絶体絶命の気配に、腹をくくった彼女は、降りてきた棒に飛びついた。


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