第82話 二人の邂逅 3

 御息所みやすどころは、はじめて見た葵の君が、大宮と一緒に懸命に謝るのを見て、かえって申し訳なく思う。


 姫君に非はないことであるし、そもそも蔵人少将くろうどのしょうしょうが、自分のうしろ姿を見間違えたのも、本当に不幸な偶然が重なった出来事のようであった。(ご自分の妹君の住む東の対で、妹君の衣装を着たうしろ姿では、これはもう間違えても仕方がない。ましてや彼はわたくしがいるのを、聞いていなかったのだから。)


「わたくしも忘れますので、お忘れになって欲しいと、蔵人少将くろうどのしょうしょうにお伝えを……」


 そう言いながら、なんて美しい姫君なのだろうと、御息所みやすどころは、大宮に瓜ふたつの葵の君に、心の中で感嘆する。


 そして不思議なことながら、大宮に似ている自分の姫宮の未来の姿を、葵の君の中に思い浮かべ、境遇の差を思い知った。


 わたくしの姫宮も入内するのに、なんの不足もない身分ながら、葵の君のように、強いうしろ盾がないばかりに、后妃への道が塞がっていると思うと、不憫でならなかった。


 気を失ったのは僅かな間だったようで、くずれ落ちていた自分の周囲には、大宮や姫君、女房たちが取り囲み、御簾の向こうには心配そうな蔵人少将くろうどのしょうしょう


 女房が御簾の端近によって、彼に自分の言葉を伝えているのが見える。彼は、ほっとした雰囲気で、御簾の向こうで丁寧に自分に頭を下げていた。


「仲がよろしいのね」

「ええ、優し過ぎるほど、優しい兄君です」


 姫君の輝くような笑顔に、京中の姫君が憧れる蔵人少将くろうどのしょうしょうは、いまのところは妹君に、かかりきりと言ううわさは本当だと、御息所みやすどころは思い、右大臣家の四の君の心配は、彼の人気ゆえの空回りだとも思った。


 自分の姫宮には、多少の后妃同士の軋轢があるとはいえ、四の君のような名門の家柄の姫君でも、夫の愛情が薄く一度、足が遠のけば縁が切れてしまう。そんな心配を永遠に抱かねばならぬ臣下との結婚よりも、女御として入内して、穏やかな人生を歩んで欲しいと願う。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの北の方など、よい家柄の姫君であったのに、泥沼の境遇であることを、彼女は知っていた。


 御息所みやすどころの少し乱れた小袿こうちぎも女房たちが素早く直し、気を取り直して三人で朝の膳を取ろうと、立ち上がった時、母屋から先導の女房が現れた。


「申し上げます。関白と左大臣、右大臣が参ります」

「え? 右大臣?」


 葵の君は思わず、露骨に眉をしかめてしまった。御祖父君と父君はともかく、右大臣がなぜいる?


『なにしに……ちょっと、立て込んでるから、遠慮してくれない?』


 断る理由を捻り出す余裕もなく、国の重鎮たちが東の対に現れた。


六条御息所ろくじょうのみやすどころに御挨拶に参りました」


 なにか考えているらしい御祖父君を先頭に、不思議そうな顔の父君と、興味津々の顔をした右大臣が、御簾の向こうに顔をだす。


『騒ぎを知ってて、やってきたよね?』


 葵の君は平たい目になったが、母君にうながされるままに、御息所みやすどころと揃って、御簾の端近から奥に下がり、見かけは優雅に腰を落ちつけた。(過去の勉強地獄の経験から言って絶対怪しい! 御祖父君が、あの黒い扇子をプラプラさせている時は、高確率でとんでもないことを言い出すの!)


『いま、生霊対策に忙しいから帰って! また今度!!』


 そんな彼女の願いは、当然通じる訳もなく、御簾の向こうで兄君が、いまの出来事を、汗をかきながら、釈明しているのを見ていることしかできなかった。母君と二人で心配そうな顔の御息所みやすどころを力づけるように、左右から彼女の手を握る。


 兄君は、御祖父君と父君、舅である右大臣、政界の重鎮の問いかけに、馬鹿正直に先程の“出会い頭の交通事故”といった、出来事を話していた。


『おバカ! なぜ“しら”を切り通さない?! 兄君はよくても、御息所みやすどころは大恥やんか!』


「そなたは六条御息所ろくじょうのみやすどころに対して、なんということを……」


 関白である御祖父君は絶句している。(でも、なんだろう、なにかおかしい……あの扇子、ご機嫌な時の動き方をしている)


「これが世間に知れましたら、六条御息所ろくじょうのみやすどころは、とんだ大恥ですな!」


 右大臣は他人事なので面白そうである。


『黙れ! 他所事よそごとだと思って!! これがきっかけで、生霊になって祟られたら、どうしてくれる?!』


 葵の君は御簾越しに右大臣を睨んだが、彼はまったく気づいていなかった。


「まあまあ、なにも悪気がなかったことですし……」


 左大臣である父君は、ことなかれ主義を発揮して、取り繕うような発言をしているが、いかんせん存在感が薄かった。


「まだ元服前の男君であれば、そんな言い訳もできましょうが、常々に思っておりましたが、蔵人少将くろうどのしょうしょうは……」

 蔵人少将くろうどのしょうしょうに小言が言いたかっただけの右大臣は、自分に続いた関白の言葉に、ぎょっとして思わず腰を浮かせた。


「普通であれば責任を取って御息所みやすどころを、正妻にお迎えせねばならぬほどの行為。しかしそうなると、御息所みやすどころの御身分ゆえ、右大臣の四の君は正妻の座を降りるか、離縁ということになるのう……よい縁組だと思っていたが、こうなればいたし方なし……」


 至極残念そうな口振りながら、関白の黒い扇子は相変わらず、プラプラゆれ動いていた。


『えっ、ちょっと待って! そんな話はないから! 六条御息所ろくじょうのみやすどころには、いまから“光源氏”の売り込みをしようと思ってるのに! 無理強いしないで! 生霊になっちゃう!!』


 御息所みやすどころを置き去りに、どんどん進む話に葵の君は心の中でそう叫び、話の流れに取り残されて、母君同様ただの傍観者になりそうになったが、ギリギリ踏ん張っていた。


『ちょっと待って、よく考えなきゃ! 丹田たんでんに意識を集中するのよ!』


「よろしければ中務卿なかつかさきょうに、今日中に戸籍を差配するよう手配いたしますが?」


 頭が真っ白になって、なにも考えていないっぽい父君は、自分の父である関白の言葉にだけ反応して、内裏を退出後でよいから、中務卿なかつかさきょうを呼ぶよう、女房に手配しようとしていた。


『そんなところだけテキパキするな! それにそこの全員は、仕事にいかなくてもいいのか?!』


 葵の君は、またもや心の中で絶叫していたが、あまりの展開に、またグラグラしてきた御息所みやすどころから、いつ“生霊”が飛びだすかと、自分の魂も口から飛びだしそうな気がしていた。


 この状況では、“生霊”が出たとしても、恐ろしいとはいえ、彼女を責められない。


『そりゃそうだよね、いきなり顔を見られたと思ったら、今度は自分の結婚話が勝手に進んでいる!』


 しかし、責める気はなくても、祟られるのは勘弁して欲しい。右大臣の踏ん張りに期待しながら、なんとかこの状況を打破すべく脳をフル回転させる。


「少し待て、待って下され! わたくしはなにもそんなつもりで!!」


 右大臣は大いに焦った。先ほどの言葉は、いつも年の割に気位の高い六条御息所ろくじょうのみやすどころと、なんかと右大臣家よりも実家を大切にする婿君への、ちょっとした舅の意地悪とでも言ったセリフであった。それがなぜ、なぜいきなり我家の四の君が、正妻の座を追われるような話になる?!


 兄君の蔵人少将くろうどのしょうしょうといえば、重役出勤が許されるフレックスな出勤の三人を残して、そろそろ出勤時間なので、大内裏に寄ったついでに、中務卿なかつかさきょうに父君の伝言は僕が伝えるから、とかなんとか女房に言いながら、東の対をそそくさとあとにしていた。


『伝えんでいい!! おバカ!!』


 妹君の心の叫びは、もちろん、この場を早く逃げだしたいだけの兄君には届かなかった。


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