第81話 二人の邂逅 2

〈 裳着の翌朝/左大臣家/葵の君 〉


『わたし、どうしたんだっけ……?』


 葵の君はそう思いながら、布団の中で目が覚めた。今日も今日とて体調だけは絶好調と、彼女は思った。


 その頃、沈痛な面持ちで、内心、頭を抱えていた中務卿なかつかさきょうが、葵の君の心の声を聞けば、安堵のため息をついたと思われる。


「おはようございます! 姫君は裳着の途中で、気を失われたそうですよ。全然、起きていらっしゃらないので心配になって、いま起こそうかと思っていたんです!」

「えっ?」


 目が覚めるまで、側でじっと控えていたらしい、紫苑の声に首を傾げる。


 そうだっけ? 確か『夢』の話をして……それから、あんまり覚えてないなぁ。御祖父君にすすめられて、中務卿なかつかさきょうことを弾いていたような、弾いてなかったような……。ついでにキスされたような、されなかったような……マジか?!


「裳着で気を失うのは姫君の淑やかさの表れと、出席者の皆様一同、感動されていました!」

「そう……」


 ちぇっ、やっぱりアレは夢か、保護者同席でキスされるはずないよねー。前日の睡眠不足がたたって、きっと寝落ちしたんやね……。


「姫君、お急ぎ下さい! 朝の支度が遅れに遅れております!」

「えっ? もう、そんな時間?」


 今日のわたしはかなり寝過ごしたようだ。まあ、『夢』の話をできただけでもいいか!


 酔いと共に記憶が、ほとんど飛んでいる葵の君は、そんな風に残念に思いながら、気をとりなおすと、女房たちに急かされながら、いつものようにハト麦茶で顔を洗う。(そうか、今日は母君と朝の膳を御一緒する約束をしていた! ダッシュ! といっても、着せてもらっているだけだけど。寝過ごして申し訳ない!)


 女房たちが大慌てで姫君の髪を梳き、小袿こうちぎを着付けてゆく。


「あ、そう言えば、蔵人少将くろうどのしょうしょうが……」

「兄君がどうか……」


 兄君がどうかしたのかと、聞こうとしたその時、東の対に女君の悲鳴が響き渡った。


「な、何事ですか?!」

「どうしたのでしょう?!」


 女房たちが慌ただしく几帳の向こうで行き交う気配がする。葵の君は声のした方に素早く袴を捌いて駆けつけた。(ただの野次馬根性であった。)


 臨時に作られていたらしき、几帳の向こうにできていた大きな部屋には、気絶した見知らぬ綺麗な姫君と女房たち。その横で小さな葛籠つづらを持って、茫然と立ち尽くしている兄君。


 そして同じく声に驚いて駆けつけて、瞼をパチパチさせている母君の姿があった。(体育館仕様だから、声はかなり遠くまで響いたみたい。)


「わ、ワザとじゃない! うしろ姿で葵の君だと思って! 昨日、ゆっくり会えなかったから、出仕前に渡して行こうと……ほら、例の花弁はなびら!」

 兄君は無罪を主張するように、小さな葛籠つづらを、葵の君に押しつけて、同意するように目と口で訴えている。


「え、あ、そうですね……。はい、頼んでいました。ありがとうございます」


 葵の君は葛籠つづらの中をのぞいて、生返事をしていたが、母君が額に手を当てため息と共に口にした言葉に驚愕した。


「そちらは、六条御息所ろくじょうのみやすどころです……」

「えっ……!」

「二人にもお泊り頂いているのを、伝えようと思っていたのですが……間に合わなかったわね」


 そう言いながら母君は、取りあえず兄君を、御簾の向こうに追い出している。


『ひえっ! いきなり出会ってしまった!』


 葵の君はそう思い、気絶している六条御息所ろくじょうのみやすどころに、慌てて今一度、視線をやる。いま一瞬なにか“モヤモヤ”した物が出てなかった? 気のせいかな?


『いきなり大変なことになってる!!』


 葵の君は、気絶している六条御息所ろくじょうのみやすどころの側に素早く近づき、前世の部活の合間に受けた、救命講習の内容を必死で脳内検索をかけ、そっと手首を取り上げる。


 少し脈が速いが顔色を見るに、そう心配な状況でもないと内心ほっとした。心配な状況だったのは、昨夜の自分であったが、そんなことはもちろん都合よく忘れていた。


 六条御息所ろくじょうのみやすどころは透き通るように美しい姫君であった。


 いや、未亡人だから姫君じゃないけど! この年で未亡人って、なんだかもう……。


 葵の君は、またもやいつものように、心の中で年齢に十を足し、とりあえず御息所みやすどころの衣装を緩めてみた。


 幸いすぐに反応があったので、紫苑に水と玄米茶を持ってくるように頼むと、うっすらと目を開けた彼女の上半身をなんとか抱え上げ、すぐに用意された水を、そっと御息所みやすどころの口元に近づけながら、小さな声をかけた。


「まだ動いては危険ですから、そのままゆっくり飲んで下さい」

「……」


 ぼんやりと水を飲みながら、六条御息所ろくじょうのみやすどころは自分を抱き寄せて、テキパキと女房に指示をだす、見たこともないくらい美しい姫君に、きっとこの方が、“葵の君”だと思った。


 水を飲んでいた自分を、姫君は心配そうな顔でのぞき込んでいたが、もう大丈夫だと伝えると、姫君が今度は、不思議な薫りのするお茶を差し出す。恐る々々と口にした。


「不思議な味ですね」

「心が落ち着く効果があるお茶“玄米茶”です」

「玄米茶……」


 お茶は薬として飲むこともあるが、なるほど姫君は、お茶にも精通されているらしい。


 本来の『源氏物語』では、葵の君に取り憑きはしたが、直接会うことがなかった六条御息所ろくじょうのみやすどころは、葵の君の“虚仮の一念”が通じたのか、いまは左大臣家で葵の君に寄り添われながら、玄米茶を飲んでいた。


『GABA、テアニン、γオリザノール効果で、リラックス!!』


 葵の君は、自分も飲んだ方がいいと思いながら、心の中で効能を呪文のように唱えていた。いきなりの出会いに驚きながらも、母君の完璧な笑顔を思い浮かべ、真似してニッコリとほほえんでもみる。(くらえ? 内親王スマイル!!)


『光る君との縁を取り持たなければ!! わたしの無実? を証明しなければ!! それ以前に、でも、コレがきっかけで、兄君が祟られたらどうしよう?』


「本当に申し訳ございません。兄がとんでもないことを……」

「まさか今朝帰ってくるとは思わず、伝え忘れてしまい……」


「もう大丈夫です」


 六条御息所ろくじょうのみやすどころは笑みを浮かべ、心配を隠し切れない大宮と葵の君に、優しく声をかけた。


 母屋の方からやってくる災厄には、まだ一同は気づいていなかった。


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