第80話 二人の邂逅 1

〈 裳着の翌朝/左大臣家/六条御息所ろくじょうのみやすどころ 〉


 左大臣家の東の対に泊まっていた、六条御息所ろくじょうのみやすどころは起きるなり、用意された角盥つのだらい(洗面器)の中身に驚いていた。


「これはなんですか? えっ、ハト麦茶?! 肌によいと大宮と姫君がご愛用?」


『あら、わたくしとしたことが少しはしゃぎ過ぎてしまったわ』


 御息所みやすどころは、姫君の不思議な逸話は色々と耳にしていたが、ハト麦茶は知らなかった。


 元東宮妃であり、御息所みやすどころと呼ばれる身分、困らぬ生活をしているが、それでもお茶は貴重品。さすが摂関家といえる豪快な話であった。


 自分の側仕えの女房たちも、興味津々の表情である。


 きっと、こういうことが切っかけで、ちまたで喧伝されている“左大臣家の姫君の嗜み”と言われる、さまざまな新しい美容方法が広がっているのだと彼女は思った。こういった類の話が女房たちの間を伝い、京中を駆け回っているのを、彼女は知っている。


『お茶で顔を洗う……確かに大宮は昔と変わらず、いえ、いまの方が美しい肌をされていたけれど……』


 御息所みやすどころは短い東宮妃の時代も、身分にふさわしくなるために努力していたし、いまでも元東宮妃としての矜持きょうじを忘れてはならぬと、自分に言い聞かせて日々を過ごしていたが、今朝は驚きのあまり、日頃の年に似合わぬ思慮深さや、しとやかさを、つい忘れてしまっていた。


 年相応の姫君のようなふるまいをしたことに、心の中で反省をしながら、恐る々々顔を洗う。


(なんだかいつもより、しっとりしているような気も?)


 顔を洗ったあとにと、左大臣家の女房に勧められて、用意された謎のトロミのある液体(くず粉で作ったハト麦の保湿ジェル)も、澄ました顔ながら、実は興味津々で顔につけてみた。


(もっと、しっとりしたような気も?)


『帰る前に手に入るかどうか、女房に確かめてもらわなければ……』


 彼女は元々“新雪”のごとく、ひと際に白く、抜けるような透きとおった肌の持ち主であったが、最近は疲れがたまっているのか、肌の乾燥が気になっていたので嬉しかった。


 のちに出会う予定の光源氏に、知性と気品、美貌を褒め讃えられ、熱心に口説かれながらも、いざ恋人になると、気位が高くて息が詰まるなどと、散々に勝手なことを言われ、思いつめて生霊になってしまった六条御息所ろくじょうのみやすどころは、今現在は御年おんとし十六歳。凛とした佇まいながら、年相応なところも十分に持ち合わせていらっしゃった。


 急なことで、なんの用意もなかったが、目の前には、『小袿こうちぎ/とびきり豪奢な普段着 兼 お出掛け着』


 小袖こそでに袴、いく枚かの薄いうちぎかさねが、自分で選べるように数種類ずつ用意されている。


 明るく若々しく、華やかな色合いが多いのを見るに、左大臣家の姫君のために仕立てられていたころもであろう。どれもこれも美しく素晴らしい。


 未亡人という立場から、品がありながらも、地味な色合いの小袿こうちぎばかり着ていた御息所みやすどころは、しばらく躊躇ちゅうちょしていたが、自分についてきた女房たちも、是非にと熱心に勧める。


「そうね、せっかく、大宮がご用意して下さったのですから……」


 御息所みやすどころは、とうとう根負けしたという呈で、なるべくしとやかな雰囲気になるよう、衣装を選びだす。側仕えの女房たちは、いつも凛とした中にも、暗い雰囲気の女主人が困ったと言いながら、少し明るい表情なのを嬉しく思う。


 屋敷に引きこもって暮らす女君にとって、衣装選びは楽しい時間。ましてや、目の前に用意された衣装の数々は、後宮での華やかな生活に慣れていた御息所みやすどころや女房たちですら、目を見張るような品々。


 美しい衣装は、女主人の深く沈んでいた心すら浮き立たせてくれたようで、これだけでもきた甲斐があったと、彼女に忠心を持つ女房のひとりは心密かに思った。


 厨子棚に用意されていた、新しい絹白粉きぬおしろいを塗り、紅を引く。すっかり身支度を整えた御息所みやすどころは、周囲の女房たちから沸き上がった称賛の声に、少し気恥しそうな顔をした。


 藤紫色の袴に白の小袖。石竹せきちく色、躑躅つつじ色、春の色を表現したようにかさなる何枚もの単衣、重袿、打衣うちぎぬ、表着。一番上に羽織った、朱鷺とき色の小袿こうちぎは、金糸と銀糸が複雑に織り上げられ、亀甲霰地文きっこうあられじもん臥蝶丸上文ふせちょうまるうわもんが美しく浮かび上がる二十織ふたえおり


 上品で優しく若々しい姿は、常日頃、精一杯の背伸びをしている御息所みやすどころの装いよりも、彼女のためにあつらえたようによく似合い、まるで春風はるかぜの具現であった。


 生活に不自由はなくとも、頼りになる両親もなく、幼い姫君とふたりで心細く暮らしていた彼女は、大宮の優しさと気づかいを、なによりも嬉しく感じる。


 東宮の亡きあとも、いつでも頼りにしてくれと、お手紙を頂いていたのに、亡き東宮の言葉ゆえ、つい遠慮していたが、大宮のおっしゃるとおり、わたくしと大宮は、義理とはいえ近しい姉妹の間柄。


 なにかにつけて、思い詰めることの多い性格の自分は、おおやけでの心構えといった、亡き東宮の言葉を、四角四面に受け取り、堅苦しく考え過ぎていたと、今更ながら思う。


「朝の御膳が整いましてございます」


 しばらくして、そう左大臣家の女房が伝えにきたと聞いて、御息所みやすどころは、はじめて会う『葵の君』への興味に胸を膨らませながら、大宮と姫君がいる昼御座に向かおうと、優雅に立ち上がり、袴を捌き歩き出す。暖かく心地よい朝であった。

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