第83話 二人の邂逅 4

「あのっ、わたくしが、なんとかしますから……しっかりなさって!!」


 そんな透きとおるような声を、うっすらと耳にしながら、六条御息所ろくじょうのみやすどころは、その日、二度目の意識の混濁に陥っていた。


 母君は気絶寸前の御息所みやすどころに、オロオロと寄り添っていらっしゃる。生霊が怖い葵の君は、手早く女房に御息所みやすどころの前に屏風を立てさせると、今度は気つけ薬の代わりに玄米茶、なにか季節の果物を、紫苑に持ってくるように言ってから、特急で『真白の陰陽師』を左大臣家に派遣してくれと『式神/ふーちゃん』に、中務卿なかつかさきょうに伝えるように、ささやいて空に放つ。


『ヤバい! めちゃめちゃヤバい! 御息所みやすどころのうしろに、なにか分かんない“モヤモヤ”が出てるやんか!! アレが生霊?! 気絶したら、完全体の生霊が出てくるかも!!』


 いますぐにでも逃げ出したかったが、ここで逃げ出しては本末転倒である。葵の君は念仏のように食品栄養素を心の中で唱えてから、御祖父君に抗議する。


『果物の栄養素で、ストレス排出! イライラ解消! 幸せホルモン“セロトニン”活性化! 玄米茶のGABA、テアニン、γオリザノール効果で、リラックス!!』


 ここで御息所みやすどころの味方をしておけば、彼女からの信頼を得られ、取り憑かれる危険性が、ぐっと下がるはず!


「あんまりですわ! いきなりのお話に、御息所みやすどころが、どんなに驚かれましたことか!」


 葵の君の関白への抗議の声に、御息所みやすどころは遠くなりかけていた意識をやや取り戻す。


『あっ“モヤモヤ”が薄くなった! やっぱりアレが生霊か!!』


「ま、ま、まったくです。関白のお言葉は、昔であれば正論ではございますが、御息所みやすどころは元東宮妃として分別をわきまえた方、そのような無理事は、おっしゃるはずのないこと。それにいまの時代、そこまで責任を負わずとも……」


 右大臣も声をしぼり出し、必死に延々といまの時代は……などと、いい年なのに、『若者の主張!』といった呈で、昨今の時代と儀礼の変化について、壊れた録音盤のように関白に進言し、自分が招いてしまった事件を、うやむやにしようとしていた。


 四の君のため、否、右大臣家のために、この危機をなんとか回避せねばならぬ。彼はどんな朝議よりも真剣に熱弁を繰り広げる。


『ちょっと待って、基本的に正論なの?! あれなの? 顔を見られるって、知らない人に全裸を見られるより、恥ずかしいことなの?!』


 葵の君は、顔を見られるのは酷く恥ずかしいことなんだとは思っていたが、つきつけられた、今生、いまの自分が生きている世界の常識に改めて驚愕する。


『顔を見ただけで結婚って! じゃあ、わたしも責任を取って中務卿なかつかさきょうに結婚してもらいたい!』


 彼女は心の中でそう思ったが、残念ながら、裳着と公務はノーカンであった。


「まだ喪が明けてそう立ちませぬし、いまのところは、まあまあ……」


 左大臣が口にした言葉に、右大臣はキッと左大臣を睨みつけて叫ぶ。


「なにがまあまあか?! もう少し時間を置いてからなら、我家の四の君と取り換えるとでも、そう言わっしゃるのか?!」


 そして、その言葉が聞こえたらしい、御息所みやすどころの意識が再び遠のいたと見えて、葵の君にしか見えていないらしい“モヤモヤ”は濃くなり、御息所みやすどころの体から、真上に上がってゆく。


『あかん!! 駄目なヤツだ!』


「気を確かに!!」


 あせった葵の君は、御息所みやすどころを“モヤモヤ”に近づけようと、気がつけば彼女を“お姫様抱っこ”して持ち上げていた。


「えっ?!」


 腕の中の御息所みやすどころは、驚き過ぎて意識を取り戻した。


 もちろんまさか姫君が、自分を“持ち上げた”なんて思わずに、『御仏みほとけ御業みわざ』を持って、姫君がご自分を“救い上げた”(宙に浮かばせた)と思い込み、葵の君の腕の中で、うっとりと姫君を見上げた。


 御息所みやすどころの視線は、まさに『神仏』を見詰めるソレであった。


 生霊パニックの葵の君は“お姫様だっこ(自分が持ち上げる方)”をしたまま、御息所みやすどころを、真剣な眼差しで見つめる。どうやら“モヤモヤ”は、持ち上げ効果で一旦くっついたようだ。


 前世の葵の君は、お姫様を夢見る自分的には、まことに遺憾ながら、長身の体育会系の、どちらかといえば、イケメンカテゴリーの女子であった。


 小学校からはじまって、学校生活における彼女の学芸会の演劇ポジは、大体は『王子様』であったので、勢いにまかせて、その時のよくあるセリフを言ってみる。


「ご安心下さい。姫君はわたくしが全力でお守りします!」

「はい……」


『葵の君は本当に御仏の具現……』


 六条御息所ろくじょうのみやすどころは、葵の君のうしろに後光が差して見えた。姫君と呼ばれたのも久々で、間違いながらも思わず頬が紅潮してしまう。


 つね日頃、姫宮のことがなければ、自分も早くはかなくなってしまいたい……。彼女は、そんな風に心が体から抜け出すような、不安定な気持ちで過ごしていたが、葵の君を通して、『御仏の救い』を受けたと思い込み、そんな考えから抜け出して、姫君を信じてみようと思い、そんな姫君にうっとりと見とれていた。


『よ、よかった! 火事場の馬鹿力って、ほんまやね!』


 葵の君は御息所みやすどころを抱っこしたまま、女童事件の失敗にもめげず、あれから強化してきた自分の体幹が誇らしかった。


(最近、お腹に腹筋の縦線が!)


 しかし案の定、ただテンパって、アドレナリンが出ただけのようで、すぐに腕の限界を感じ、御息所みやすどころをそっと畳の上に降ろす。


(衣装20㎏+体重45㎏としても、65㎏だから、よく一瞬でも上がったな! 頑張ったわたし!! だっていまはまだ十歳なの!)ころもの袖の中で、小さくガッツポーズを決める。


 そして驚きの色を浮かべながらも、なにか言いたげな視線で、こちらを見ている御祖父君の思惑に気づいて、誰にも気づかれぬように、視線だけを関白に流して目を細めた。


 彼は、葵の君にだけ分かるように、ニンマリとした笑みを一瞬浮かべる。関白は自分の薫陶を受けた、賢くも尊き葵の君が、自分の意図を正しく受け取れると、理解していたから。


 関白の見せた表情の意味を、葵の君は考える。先程の御息所みやすどころと兄君の再婚発言は、彼の真意であろう。


 しかし、本当の狙いは、四の君と違って実家のうしろ盾のない御息所みやすどころが兄君と再婚すれば、その彼女が生んだ姫宮を『レアなオマケ』として摂関家に引き取ることができるから。


 元の源氏物語で光源氏が明石の君を、紫の上に育てさせたように、高貴な身分の正妻に姫君が生まれなかった場合、数多い妻の中で姫君が生まれれば、『血のロンダリング』ともいうべき、育ての親による姫君の身分の確立は高位貴族の中では、ままあること。


 ましてや六条御息所ろくじょうのみやすどころが生んだ秋好姫宮あきこのむひめみやは、元々、なんの不足もない尊き身分。


 子を育てるのは、基本的に母方の実家であるが、実家が消滅している御息所みやすどころの場合、父方の実家である摂関家を頼りに、御息所みやすどころと姫宮を兄君が引き取っても、おかしなことではない。


 勉強地獄の一環で覚えた摂関家につながる血統一覧には、御息所みやすどころの夫であった前東宮の名もあった。


 そんな訳で、彼女は関白が欲しい物を、すべて持ち合わせているのだ。まあ、帝につながる血筋であれば、ほぼほぼ、なにかしら摂関家とは、つながってくるんだけどさ!


 秋好姫宮あきこのむひめみやを取り込めば、姫君は“摂関家の姫君”として、摂関家の大きな『手駒』のひとつになる。


 摂関家が右大臣家に現在、遅れを取っているのは、正にその“摂関家の姫君”という『手駒』が、自分ひとりしかない部分であった。


 健康を取り戻した関白が、どんなに秀でた存在で、臣下の頂点にあっても、摂関政治をおこなう上で、数多くの姫君を有する右大臣家と違い、それは大きな不利であり、逆転できないハンディであった。


『そういう政治的な目のつけどころは凄いケド、わたしの命の危険的に、御息所みやすどころの意見は、聞いておかないと……』


 葵の君かわいさゆえの、関白の行動であったが、彼女自身は、ややこしくなってきたなぁと思い、取りあえず時間稼ぎして、よく計画を立てないといけないと、気を引き締めた。


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