第84話 錯綜する蜘蛛の糸 1

 葵の君が関白の様子から、狙いを正しく推理して、彼を凝視していたころ、姫君の奇跡を目撃していた大宮や左右の大臣は、葵の君が物理的に御息所みやすどころを抱き上げた、などと思うことは、もちろんなく、ただただ姫君のまとう“神仏の力”が起こした奇跡に感嘆していた。


 あたりに漂う自分を拝まんばかりの空気に勢いを得た葵の君は、関白をよそに、周囲に重々しく言い放つ。


「ここは一度お引き下さい。元東宮妃でいらっしゃる御息所みやすどころを、ないがしろになさる行為は許されません。わたくしが、ゆっくりとご意向をうかがって、今一度、協議の場を設けるという方向で、調整いたしとうございます。ご他言のなきよう」


 葵の君がきっぱりと政界の重鎮たちにそう告げると、すっかり正気を取り戻した御息所みやすどころから、その言葉を合図にでもしたかのように、“モヤモヤ”は、綺麗に消えてなくなった。


『取りあえずセーフ! ぎりぎりセーフ!』


 命拾いをしたと思いながら、母君に甲斐甲斐しく快方される御息所みやすどころから目を離して、右大臣の方を向き再び念を押す。


「今後のためにも、かさねがさね、ご他言はなきように」

「は……」


 そして、一瞬にして可愛らしい雰囲気になった姫君は、父君に問いかける。


「父君、いくらなんでも、皆様、ご出仕の時間では?」


 葵の君にせかされるように、三人の重鎮たちは、左大臣家をあとにした。


 姫君を『薬師如来の具現』と信じている左大臣は、自分の娘ながら、そら畏ろしいほどの神々しさに胸が一杯になり、結局、仕事を停滞させたまま、一日中、周囲の目も気にせず、感激の涙で袖を濡らしていた。


 右大臣は目撃した姫君の“超常現象”に、度肝を抜かれながらも、そこは関白が復帰するまで太政官を、実質、ひとりで切り回していた存在、なんとか立ち直って政務に向きあっていた。


 昨日は四の君の夫である蔵人少将くろうどのしょうしょうに愚痴を一晩中、言いつのり、つい左大臣家に泊まってしまったが、中務卿なかつかさきょうまでとは言わなくとも基本的に多忙であった。


 彼が抱えている問題はそれだけではない。摂関家は元々、農耕地に加え椎茸シイタケを筆頭に、特用林産物や海産物、質のよい鉱山を抱え、近年の農産物の不作を、そちらで穴埋めできた上に、関白の回復と葵の君の奇抜なアイディアで、荘園の生産力の向上、新たな輸出品、外洋船の造船技術革新など、財政面でも次々と大きな成果を上げていた。


 それに比べ、右大臣家の管理する多くの荘園は大部分が農耕地。国の直轄地と同じように、慢性的に不作が続き、なにか抜本的な改革が必要なのは分かっていたが、手をこまねくばかりで悩みは深かった。


「わたくしの信心が足りぬのか……まこと葵の君は、うらやましき姫君よ」


 彼は、東宮位に最も近いとされる、第一皇子の外戚であり、『姫君』という政治的に効果の大きい駒を、数多く手にしていたが、摂関家のように揺るがぬ地位や、不可侵の特権の持ち合わせはなく、右大臣家の内政の立て直しも大きな課題であった。


 門閥の頂点に立つということは、それすなわち多くの責任も伴うのである。


 その日も右大臣は彼なりに精一杯、山積みの仕事をしていたが、ふと開けた厨子の中に、先帝の后妃であった、兵部卿宮ひょうぶきょうのみやの母宮からの手紙を見つける。


 彼は第四皇女(藤壺の姫宮)の件で相談があり、ぜひ立ち寄って欲しいとの手紙を受け取っていたのを思い出して、ウンザリした顔になった。


 兵部卿宮ひょうぶきょうのみやが、妹宮の入内を強く希望しており、弘徽殿女御こきでんのにょうごの実父であり、貴族派の二代派閥のひとつ、右大臣家の当主である自分の顔色を伺っているのは、気がついているが、今楊貴妃いまようきひである桐壺更衣きりつぼのこういが既にいるというのに、あの男の頭には、おがくずでも詰まっているのかと思う。


「どうかなさいましたか?」

「いささか面倒なことが……いや、そういえば関白は、まだいらっしゃるか?」

「え? ええ、いらっしゃいますよ。先程、八省へ回す書類を受け取りました」


 そう言う中納言のうしろに続く官吏の手元には、自分の倍以上の決済書類。よわい、六十歳を超えて化物か……などと、右大臣は内心で思ったが、口には出さずに、関白が帰るそぶりを見せたら、自分に教えるようにと伝え、厨子棚にしまっておいた、刈安守かりやすのかみに調合させている、体力と気力を増進してくれるという漢方薬を、女房を呼んで煎じさせ、不味さに閉口しながら飲み干した。


 そうこうしてから、右大臣は偶然を装って、夕刻、車止めに向かう関白に、いそいそと寄り添うと、誘われるままに、左大臣家へと牛車をならべ、内裏をあとにする。


 東宮が決まらぬいま、四の君の返品まで決まってしまっては、関白よりも先に、自分の寿命が尽きそうな気がする。


『ここは、なんとしてでも、話を撤回してもらわねば!』


 葵の君のように、命にかかわる悩みではないとはいえ、彼も大貴族である右大臣家の当主、国家や自分の家、門閥貴族たちのために、今日も今日もとて、日々、ここ一番と自分に言い聞かせ、漢方を飲みながら精一杯、頑張っているのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る