第191話 大火のあとの変 3

 葵の上の提案を聞いた頭中将とうのちゅうじょうは、しばらく考えこんでいたが、妹君の言う通りにが運べば、摂関家の威信に傷がつかないことから、御祖父君も説得できる確率が高い上に、父君も少しは安らかに暮らせる。母君のことは別にして、自分の日々の暮らしに平穏も訪れると素早く計算すると、覚悟を決めて、すっくと立ち上がった。


「兄君、朝餉はよろしいのですか?」

「大丈夫! あまりゆっくりしていると、父君のやかたの門が、竹で封鎖されるかもしれない。中務卿なかつかさきょうには、よろしく伝えておいて!」


 そう言って頭中将とうのちゅうじょうは、妹君の入れ知恵、もとい、父君のお立場、それから自分のプライベートスペースを確保するべく、父君の宇治療養と、自分と四の君が左大臣家で暮らす話を携えて、驚いた顔の道行く人々や検非違使に眼もくれず、騎馬で朱雀大路を駆けて行った。


 なお、ちらりと聞いてみた、夕顔を自分の側仕えの女房に欲しいという申し出は、ご機嫌の悪い母君に瓜ふたつ、そんな冷たい笑顔を浮かべた葵の上に、にべもなく却下されたが、少しだけ疚しいことを考えていたので、いまはそれどころではないと、心の中でひとり反省をしていた。



〈 関白のやかた 〉


 息を切らせてやってきた孫息子に、その話を聞いた関白は、心配そうに自分を見ている頭中将とうのちゅうじょうの前で、何通かの手元の文書に目を通すことを止めて、少し思案していたが、左大臣が宇治で療養するとなれば、大宮の姿が見えぬのも自然なことと、周囲も思うであろうし、その跡継ぎである頭中将とうのちゅうじょうが、左大臣家に正妻である四の君を迎えて、臨時とはいえ、やかたの差配をさせるのも、ふたりの将来を考えれば、おかしくはない。


 いきなりの里内裏への決定で、せせこましいやかたの中で、右往左往しているであろう右大臣には、やらせることも多い上に、恩も売れると、許可を出すことにした。葵の上が踏んだ通り、彼は情よりも実利と、体面を取ったのである。

 自分の答えに大いに安堵した様子の頭中将とうのちゅうじょうに、自然な様子でたずねる。


「葵の上は息災であったか?」

「ああ、髪が大変なことになっていましたが、母君を必ずや無事に取り返すと、大いに息巻いて……あ、いえ、大いに力を落としておりました!! とても御祖父君にも申し訳なく思っていますと!! ええ、それはもう!!」

「そうか……」


 関白は頭中将とうのちゅうじょうが慌てて、妹君をかばう言葉を長々と述べるのを、聞き流しながら、葵の上のことを考える。


 牛車がなくなっていたことから、大宮のことを葵の上に漏らしたのは、あの紫苑とかいう命婦であろうと、容易に想像していたが、夫である中務卿なかつかさきょうのやかたにいるのならば、ひとまずは安心である上に、こちらに帰れと言うのも筋が違う。自分には手出しのしようがない。孫娘の機転には苦笑するばかりだ。


「しかし、この対価には、それなりに働いてもらわねばならぬ……」


 そう呟いた関白は文机に向かい、みずから右大臣充てに、一筆したためて文使いを走らせる。頭中将とうのちゅうじょうには、左大臣へのふみを持たせ、信頼のおける少数の女房たちや奉公人と共をつけて、早々に宇治に出発させるよう差配をするように言いつけると、すぐに隣のやかたに使いに出した。


「四の君にも、あとで文を忘れるでないぞ」

「はっ!」


 頭中将とうのちゅうじょうのうしろ姿が消えてから、彼は自分の女房を東の対に使いにやると、東宮を誘って六条御息所ろくじょうのみやすどころと姫君たちの元を訪れる。


 二年前の婚約の儀で、顔を会せてはいるが、まだまだおぼつかぬ幼子の印象しか持っていなかった東宮は、母君とよく似た『朧月夜おぼろづきよの君』の隣にいる、どこからどう見ても、葵の上に瓜ふたつの『秋好姫宮あきこのむひめみや』が、御息所みやすどころを真似て、丁寧にご自分に挨拶をするのに、内心の驚きを隠しきれぬまま、優しくほほえんだ。


「……少し見ない間に、すっかり姫君らしくおなりですね」


 時々、後宮で顔を会せていた朧月夜おぼろづきよの君はともかく、自分のことをすっかり忘れていたらしい、汗衫姿かざみすがたに身を包んだ秋好姫宮あきこのむひめみやは、長い睫毛をパチパチさせると、不思議そうに、そして少し恥ずかしそうにしていたが、朧月夜おぼろづきよの君に、手をつながれて安心したのか、あどけない顔で、ほほえみ返してくる。


 葵の上と結ばれることはないのは、この先ずっと胸の痛みとして抱えてゆくのだろうが、それでもまっすぐにたみと国を思うあの方とは、国政という自分が一番に取り組むべき存在を間に置いて、手を携えてゆける。


 この縁の深い姫君たちが、未来の東宮妃として入内された時は、あの方の化身として大切に扱わねばならぬと心に思い、そっとふたりの小さな頭を優しくなぜていた。


 それから東宮は、つかの間の休息とでもいうように、あどけないご様子で、無邪気にたわいもない話をしたり、雛遊びをするふたりの相手をしていた。


 その和やかな光景を目にしていた御息所みやすどころは、この大きな災厄の中に訪れた、ひとときの小さく幸せな時を過ごしながら、ただただ、大宮の御無事と平安な世が再び訪れることを願っていたが、炎は形を変えて更に広がって行った。


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