第190話 大火のあとの変 2

 母君のことは、最悪でもわたしと人質の交換に応じて、わたしがなんとか悪党から逃げるなり、成敗すればいいと、腹はくくっているけれど、父君は一体なにをしたかった……いや、まあ、きっと母君と元の暮らしをしたかったんだろうね。


 早朝の『狐騒動』で大変なことになっている東の対を、目を丸くした夕顔たちが、なんとかしている頃、葵の上は、例の『離縁状』を思い出し、遠い目をして最近の父君の様子を思い浮かべていた。


 はじめの頃こそ結婚騒動には、大いに不服そうであったが、わたしが存外に嬉しそうなのに、父君は最近では、すっかり諦めた様子で、ここのところは、「大宮が内裏から帰ってきて下されば……」そんな風に、後宮にやってきては、帝が母君を手放さないので、顔を見ることも叶わずに、「母君と本当によく似ていらっしゃる……」わたしの顔をしみじみとながめ、そう言ながらいつも目にうっすらと涙を浮かべていた。


 どうせ、母君を返してやるから、ここに署名をとかなんとか、悪徳商法かなにかみたいに、そそのかされたんだろう。父君は“オレオレ詐欺”に、ホイホイ引っかかるような性格なのだ。


 葵の上の想像は、大方のところ正解であり、優しい父君を、そこまで追い込んだ遠因は、自分にもあると思うと、一方的に御祖父君に大きな雷を落とされたことを、少し申し訳なく思い、帝に腹を立て、奥歯を噛みしめてから、とりあえず母君のことに集中するためにも父君と兄君、そして夕顔のことを、先になんとかしようと知恵を絞る。


 御簾の向こうに見える築山を、見るとはなしに、ながめていると、ふとひとつの考えを思いついた。


「……兄君、母君の捜索は、もちろん最優先のことではありますが、一度、御祖父君のところに父君のことを、に行ってもらえませんか?」

「え? それは無理だと思うよ? 父君がしでかしたことは、摂関家の当主の面目を正面から潰した。御祖父君の立場的に、許せるものではないからね」

「きっと父君は母君のことで、なにかしら帝に脅されたのでございましょう。あのお優しい父君は、心がお病みになっていたのです。母君がお帰りになれば、きっと元に戻られましょう」

「そんなことで同情する御祖父君じゃないのは、分かっているだろう?」


 秒で返事を返された葵の上は、少し唖然としたが、それでも、ここで諦める訳にはいかないと、兄君から説得にかかることにした。こればかりは摂関家の事情、中務卿なかつかさきょうに負担をかける訳にはゆかない。御祖父君のことは、兄君が頼りである。


「左大臣である父君が不祥事を起こして、当主である御祖父君に、京の街中で蟄居しているのは、摂関家の体面に関わることと、おっしゃってはいかがでしょうか? それよりも先日の大火の心労のあまり、帰ってきた母君と一緒に、どこぞの山荘で療養すると世間に発表した方が、摂関家の体裁に傷は入らぬことを強調して下さい。母君の姿が見えぬのを、ごまかす時間稼ぎもできる利点も併せて、ご説明してはいかがでしょうか?」

「う――ん、まあ、それはそうだけど、御祖父君が、僕の説得なんか聞いてくれるかどうか……そうだ!」


 なにかひらめいた顔で、頭中将とうのちゅうじょうは妹君の手を取る。


「あとで一緒に行こう! 御祖父君は葵の上には、とても甘いから!」

「あ、それは無理です。実はわたし、ここに家出してきていますので」

「はあ?!」


 自分の夫のやかたに『家出』というのは、なんだかとても変な話だけれど、要は母君を見捨てるという御祖父君への抗議の意味もあって、ここに紫苑と二人で夜中にこっそり家出をしてきた。そんな打ち明け話を今更する妹君に、彼は驚いた顔で固まったまま、声を絞り出す。


「……そんな、そんなことなら、いま御祖父君のところに行けば、僕が生贄になってしまうじゃないか!」


 断固絶対拒否する! そんな態度の頭中将に、葵の上はニッコリとほほえみながら説得を続けた。大猿事件の光源氏ではないけれど、ここは、何が何でも兄君に頑張ってもらわねばならない。


「大丈夫です。摂関家の跡取りである兄君が、情ではなくを説いて、心を配って説明なされば、御祖父君もご理解いただけましょう。父君はわたくしが御祖父君に頂いた宇治の山荘に、早々に移って頂こうと、あわせて具体的な提案をしてみてはいかがでしょうか?」

「宇治の山荘に? まあ、よい案だと思うけれど、それでは左大臣家のやかたがからになってしまう! やかた(実家)が閉まれば、僕はどうすればいいんだ?!」

「……はい?」


 葵の上は、それからしばらくの間、頭中将とうのちゅうじょうが、右大臣のところは、元から居場所がないも同然な上に、いまは帝が里内裏として移られた。


 御祖父君のやかたは、東宮がいらっしゃるし、左大臣家が閉まってしまえば、残された自分が、右大臣の四の君の小さな部屋で、居心地悪く暮らすことになるとブツクサ不平を言うのを、平たい目で眺めていたが、すぐにコレだと閃く。


「御祖父君には、父君が御留守の間は、兄君が左大臣家のやかたに、四の君と、お住まいになるとおっしゃって! 是非!」

「はい?」


 運命の赤い糸が、五本も六本もついている。そんな兄君と光源氏の将来を思い出し、とりあえず兄君と夕顔との運命の赤い糸を、ぶっちぎろうと思った葵の上は、そう言ってからそっと手を口の横に当てて、兄君の耳元でなにかを熱心にささやいていた。


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