第189話 大火のあとの変 1

 葵の上は、くつろいだ中にも、上品で愛らしい『細長』と呼ばれる装束に身を包み、脇息にもたれると、露骨にがっかりした顔を、檜扇で隠し天井を仰ぎ見た。


 明るい朝の光に浮かび上がった『京中の姫君のアイドル』兄君のお顔の破壊力は、半端なかった。元の物語では、とかく光源氏の引き立て役ポジの兄君であるが、これはこれで、相当なものである。


『駄目だ! 夕顔の目が釘づけになってる!』


 幼い頃から見慣れているので、さすがに耐性のある紫苑は、知らぬ顔で、葵の上のご機嫌を取るように、あれこれ言い訳をしながら、顔色をうかがっていたが、ちょっとした探しものを言いつけると、これ幸いとばかりに、そそくさと姿を消した。


 気は進まないけれど、夕顔は兄君に関わると、後々は不幸どころか、命の危険もあることだからと、チラチラと兄君のいる方向を意識しながら、しどろもどろに、ことの成り行きを説明していた夕顔を、少し説教をすることにする。残りの二人も問題ありだ。紫苑はあと回し。


 夕顔は、基本的な運命の女神の初期設定が働いているのか、不遇な境遇が人格形成に影響を及ぼしたのか、しとやかで優しくて素敵な性格だけど、とにかく芯が弱い。


 なんというか、この時代的には素晴らしい長所なんだろうけど、硝子細工よりも繊細で、変な例えだけど、『雨に打たれるティッシュペーパー』より打たれ弱いと思う。


 今日も話を聞くに、偉そうな惟光バカみつ……たしか前世? で夕顔の怪死した話でもチョロチョロしていた光源氏の乳兄弟の『ロクでなし』に強く言われて、押し切られそうになっていたところを、紫苑たちが助けたようだ。


 この性格を、押しに弱過ぎる性格を、とにかくなんとかしなきゃ……。御祖父君のあり余り過ぎる『自己肯定感』を、スプーン一杯でいいから分けてくれないかな? このまま生きて行くのは、あまりにも心配だ。


 わたしがずっと見張っている訳にもいかない。誰かに夜這いをされたら、三角締めで応戦しろとまでは言わないけど、せめて大声を上げられるくらいにはならないと! このままだと、いつかまた、誰かにうまいこと言われて、ひとりで子供を産んで失踪……怪死……ヤバい、ヤバい、超ヤバい……。


 この時代の恋愛至上主義文化?(恋は貴族のたしなむべき雅、なんだってさ!!)は、お互い割り切っている者同士ならともかく、夕顔にとっては、とにかく危うい。彼女のように、自分の意思を主張できないような性格であれば、理解できないままに、すぐに雰囲気に飲まれ、分からないまま巻き込まれ、引きずり込まれるのは目に見えている。


 彼女の未来を、現代に置き換えてみれば、モラハラ、パワハラ、レイプまがいの酷い境遇が、美しい愛の悲劇と言う名前のキラキラしたラッピングで、包まれているようにしか思えなかった。


 そういえば元の話でも、そんな人が、何人もいたような? よく考えると超怖い時代だなぁ。


 葵の上は、そんなことを、つらつらと考え、いままでの彼女の行動を振り返り、たとえ兄君や光源氏との“運命の赤い糸”を、自分がぶっちぎったとしても、先々、同じような人生の予感しかしない、夕顔の恐ろしいまでの弱腰を心配し、この子に必要なのは、とにもかくにも『メンタルの強化!』そう思った。


 しかし、急に達成できるものでもないと、大きくため息をつき、ふと文机の上にある光源氏からのふみに目をやる。


『相変わらずというか、コイツは初期設定まんまやね! 八歳のくせに!』


 元が絵巻物の世界であるせいなのか、時代背景が違い過ぎるせいなのか、恐ろしいほどの才という言葉ではあらわせない、心の中で十歳を足しても余りある異様なまでに早熟な光源氏の顔を思い出し、何年あとか知らないけど、こんなのと出会ったら、夕顔が勝てる訳ない、ひとたまりもないなと思うと、大いに気を悪くして、みなが慌てるのを無視すると、やっぱりふみを読むのをやめて、ポイとそのへんに投げ置いた。


「夕顔、貴女が周囲に気を使ったのは分かりましたが、主人の差配はひとつひとつ意味のあるものです。勝手な判断で動くなど、今後は決してしてはいけませんよ」

「はい……」

菖蒲あやめ撫子なでしこも、少し気ままが過ぎるようですね。ここは実家ではありません。近いうちに内裏より下がった女房たちを中心に、こちらにも数多くの女房たちがくるように差配します。はじめから学び直すようになさい」

「はい!」

「はい!」


 まあ本音を言うと、厳重注意のあとは、ちゃんとフォローしなきゃだし、あんまりしたくないのだけどね。言っているわたしも時代的には大概だしさ。


 葵の上は、そう思いながらひと匙のフォローをつけ加えた。これは100%本音でもある。うん。


「……しかしながら、第二皇子の不躾な使いを、力を合わせて追い払ったことは、よくやりました。いくら尊き血筋からの使者とはいえ、官位もないわらしが取った態度は、決して許されるものではありません。夕顔もこの大変な時に、ひとりでよく働いてくれていますね。貴女の手際のよさと心配りの細やかさは、常に素晴らしいものです」


 いつもは優しい葵の上に、怖いお顔で厳しくとがめられ、すっかりしおれていた三人は、最後にそれぞれ褒められると、少し恥ずかし気にお辞儀をしていたが、葵の上はすぐに今後のことをフル回転で考えていた。


 内侍司ないししのことは、火事の夜に最後に姿を見た皇后宮職こうごうぐうしきの別当が、別れ際に全員を知らせがあるまで、実家待機の扱いにするので、ご心配なくと言ってくれている。まず大丈夫だろう。


 彼女たちは早めに避難していた上に、完全に血統主義で選抜されている、全員どこかしらの良家の出自。内裏から逃げさえすれば、路頭に迷う心配は絶対にない。縁故採用が、はじめて役に立ったね! 最初で最後かもね!


 でも、二官八省や他は大内裏に拠点があるからいいけど、皇后宮職こうごうぐうしきは全焼しちゃったから、どうするんだろう? そこはわたしが考えても仕方がないかな? とにかくわたしは兄君と夕顔を、いまのうちに引き離さないと!!


 葵の上がそんなことを、あれこれと考えていると、ちょうどそこに、二人の別当のところの使いが、手荷物を持ってやってきたので、北の方のご判断を頂きたいと、奉公人のひとりが、恐縮しながら菖蒲あやめに取次を頼む。彼女はなにか考え込んでいる葵の上に、そっと声をかけた。


「昨夜からお泊りになっているお二人のことは、いかがいたしましょうか?」

「ああ、そういえば……」

「あ、あと、猩緋しょうひから、一応、本日のやかたの予定も預かっております」

「…………」


 撫子なでしこはそう言って、ぎっしりと、なにかを書きつけてある料紙を、葵の上に手渡した。それは、本日のやかたでの家政に関する予定表であった。


「…………」


 そういえば、いつもは猩緋しょうひに任せっきりだけど、このやかたの家政は北の方、つまり実はわたしの仕事なのだ。共働きなんだけど、そこはオマケなしなのワンオペなのかな? 猩緋しょうひが抜けるとやること多いな! 女主人は見かけ以外、全然、優雅じゃないな!


 そう思った葵の上は、とりあえず供人も数人連れて、お二人の朝の支度のお手伝いをするようにと、三人を東の対に向かわせようとしたが、そこにようやく、なにか小さな物を手にした紫苑が帰ってくる。


「これをどうなさるのですか?」

「夕顔の首にかけておきなさい。夕顔、今回のように、なにか不穏なことがあった時は、思い切って鳴らしなさい。みなには駆けつけるように、言っておきますから」

「はあ……」


 夕顔は少しだけ困った顔をしたが、北の方のおっしゃることに逆らうなど、それこそ及びもつかぬことであったので、素直に首からかけて、東の対に姿を消した。


『まあ、おいおい、心身共に鍛えることにして、とりあえずアレで間に合うよね!!』


 夕顔に持たせたのは、防犯ブザー代わりになると思いついた、警備に当たるさむらいや検非違使たちが持ち歩く、竹でできた『呼び子笛(※現代のホイッスル)』だった。どこかに在庫があるはずと、紫苑に探しに行ってもらったのである。


「あれは結構うるさいよ?」

「防犯目的ですから構いません」


 京の街中での捕物にも使う“呼び子笛”の音量の大きさを知っている頭中将とうのちゅうじょうは、妹君にそう言いながら、あの女房殿のところに忍び込んだ男が、呼び子笛を鳴らされるところを想像して眉をひそめた。姫君や女房たちが全員アレを首にかけだしたら、街中が大変な騒ぎになるだろうと思ったのである。


 それからふたりは、紫苑を遠ざけてから、お互いに自分が知らなかった、さまざまな情報を交換し、顔を見合わせ深々とため息をつく。


 母君のことに合わせて、大火の被害によるあまりの大きさにショックを受けた葵の上は、目の前に用意された朝餉に手をつける元気もなくなって、暗い表情になっていたが、兄君に貴女まで倒れては、亡くなった者も浮かばれない。なにより貴女の身代わりとなった母君を取り戻さねばと、両手を握って強く言われ、その通りだと大いに反省した。


 落ち込んでいる時間などないのだ。自分にできることを精一杯することが、せめてもの功徳であり、大切な母君や家族、そしてこの世界の人々のためだと、自分を鼓舞する。


「……では、父君はいまのところは謹慎処分に?」

「う――ん、いまのところというか、引退は確実な上に、このままでは、たとえ母君が戻ってきても、事実を知った母君には離婚されるんじゃないかな? そもそも御祖父君の尽力と、母君ので御降嫁して頂いていた上に、葵の上のの話を聞いて無事に済む訳ない」

「……そうでしょうね」


 実の息子なのに、父親への評価に容赦がないなと思いながら、世間に広がっている『龍を降臨させて大火を消した尊き尚侍ないしのかみ』の話を知らない葵の上は、あの美しくも凍てつく冬の氷のように冷たい母君の怒りを表した“氷の微笑”を思い出して、でも“氷の微笑”でもいいから早く母君の無事なお顔を見たいと思い、絶対に救い出すとの決意も新たに、ぐっと拳を握り締めていた。



 *


〈 後書き 〉


※“呼び子笛”は、時代劇などの捕り物で、よくピーピー鳴っている笛です。(多分、この時代の侍や下級武官は持っていなかったと思いますが、このお話では持ってます。)


『たぶん本編と関係のない小話』


 ピーピー! ピーピー! 押し込み強盗が出て、真夜中に街中で検非違使の呼び子笛が鳴ってる。すごくうるさい。


“四”「…………」夜に弱いから、早くから布団に入っていたのに、むくりと寝たまま起き上がって、寝言で呪いの“呪”を唱えている。


“参”「おい! 目を覚ませ!」ゆすっている。


“伍”「寝ていても睡眠の邪魔を許さないんですね……」あきれてる。


“壱”「いいから寝てろ……」うしろから御利益のある壺で殴って、完全に気絶させていました。


“弐”「その壺、高いから止めて下さい!」なんだかんだと、副業をしているのでした。


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