第188話 幕間の復讐あるいは出会い 4

 葵の上は、大きなかけ声と共に、手にしていた衣架いかの棒を、検非違使の別当の顔に投げつける。


 別当は反射的に、両腕を顔の前に交差させて棒を避けた。その拍子にがら空きになった彼の鳩尾みぞおちめがけて、葵の上は渾身の蹴りを入れ、すれ違いざまに逃げようとするが、さすがに現役の武官であり、検非違使の長である別当を務めている彼は、瞬時に体を捌いて蹴りを避けると、その拍子に体勢を崩した葵の上の右の手首を捉え、ねじり上げて大声を上げた。


春嗣はるつぐ殿! 起きて下さい! 狐が出た!」

「痛い! いたっ! 降参! 降参! え……狐?!」

「この狐め! 今更、しっぽを隠しても無駄だ!」

「狐じゃない! 狐じゃな……痛い!!」


 この時代の貴族の女君にしては、あり得ないほど短く、見たことのない、奇妙な『いでたち』(道着に袴)にポニーテールで、夕顔が去ったあと、再び東の対を不思議そうな顔で、のぞいていた葵の上は、六条御息所ろくじょうのみやすどころの女房たちが、道場を普通の寝殿の部屋に模様替えをしたことや、検非違使の別当と蔵人所の別当が、その模様替えをした東の対に泊っているのも知らなかった。


 そして検非違使の別当は、朝、目を覚ましてすぐのぼんやりした頭で、几帳越しにうっすらと透けて見えた“葵の上の姿”を、“しっぽの見えた変化した狐”だと思い込んだのであった。


「なんですか、こんな朝早くから……もう二日もほとんど寝ていないのに……朝早くから騒がし……え?」


 大騒動の中、自分の上に倒れてきた几帳にも気づかず、ぐっすり眠り込んでいた『春嗣はるつぐ殿』こと蔵人所の別当は、美しい顔を曇らせたまま、不機嫌を隠さず、自分に倒れかかっている几帳を無造作に横にやると、単衣を軽く羽織った姿で声のした方へ顔を向け、目の前に広がる光景に、思わず自分の目を疑った。


 一旦、瞼を閉じて、「これは夢だ……」そんな風に自分に言い聞かせ、眉間に手を当てたまま、深呼吸をする。しかし、常日頃、内裏でよく耳にしている透きとおる美しい声が、自分に助けを求めているのが聞こえて、観念して目を開けた。


「別当、助けて下さい……」

尚侍ないしのかみ……」

「え……?」


 蔵人所の別当は、自分と尚侍ないしのかみの顔を、大いに焦った顔で、交互に見ている検非違使の別当の側に素早く近づくと、油断している彼に締め技をかけて、手早く気絶させる。


 それから尚侍ないしのかみに、覆いかぶさっている彼の体を、そのあたりに転がして、驚いた顔でまつ毛をパチパチさせている彼女の両脇に手を入れると、そっと立ち上がらせながら、再び自分の目を疑った。


「一体、その髪はどうなさいました?!」

「え? ああ、あの大火で焦げてしまって、短くするしかなくなったんです」

「なんと……」


『蔵人所の別当の名前、春嗣はるつぐって言うんだ! はじめて名前を知った!』


 葵の上は、そんなことを考えながら、髪が燃えそうになったことや、ここが部屋になっていて驚いたことを手短に説明していたが、『髪は女の命』それが比喩でなく、ほとんど現実の時代であり、立場上、葵の上のお顔や姿を、直接に見知っていた彼は、あの夜の滝のように長く美しかった髪が……そんな風に絶句して、思わず涙がこぼれた。


 しかし、いつまでもこうしている訳にもいかない。驚きの余り、尚侍ないしのかみは失念していらっしゃるようだが、こうして御簾もなしに、身内や夫でない男と顔を合わせるなど、あってはならないことである。


 常日頃から、公務で顔を合わす自分だけであれば、職務上の要件があったと、なんとか言い訳もできようが、検非違使の別当に顔を見られたなど、論外の出来事であり、大きすぎる不名誉である。


忠景ただかげの目が覚める前に、早く北の対にお戻り下さい。彼はわたしが上手く言いくるめておきますから!」

「え、でも、そこまで気になさらなくても……」


 そう言う尚侍ないしのかみに、日頃から同僚として近しい間柄である彼は、まるで諭すような口ぶりで言葉を続けた。


尚侍ないしのかみ、貴女は裳着を終えてすぐに出仕されたゆえ、実感がなくなるのは仕方ございませんが、ここは内裏ではございません。このたびの大火の騒ぎで、いまはどこのやかたも人の出入りが多い。気軽に御簾内から出てはなりませぬ。中務卿なかつかさきょうのやかたに戻った以上、ここにいる間は、公式なお立場ではなく、貴女は押すに押されぬ大公卿のひとり、中務卿なかつかさきょうの北の方です。ゆめゆめお忘れなきよう。今回のことも決して人に知られてはいけませんよ?」

「はあ……」


『検非違使の別当の名前は、忠景ただかげって言うんだ! それにしても、また、めんどくさい生活に……いや、それより狐ってどうなの? この世界では本当に人を騙すの?!』


 でも正直に言って、わたし的には顔を見られるとか、見られないとか、もうホントにどうでもいいし、なんなら母君を探すために、検非違使の別当には、顔合わせをして、母君はこの顔によく似た顔だと、教えたいくらいなんだけど。


 それにしても、蔵人所の別当が武芸を修めてるって、本当だったんだ! びっくり!!


 葵の上は、『人を顔で判断してはいけない』彼のたおやかで美しい顔を見ながら、そんなことを考えていたが、別当に急かされて、東の対をあとにすると、大きなため息をついてから、檜扇を顔にかざし、とりあえず中務卿なかつかさきょうがいるはずの母屋に行ってみようと、外御簾の内側を歩く。


 するとなにやら、言い争いが向こうから聞こえた。


「なんの騒ぎ?」


 出どころは母屋の端にある家人の猩緋しょうひの部屋のようである。そっと中を覗くと、紫苑を先頭に三人姉妹が、兄君のところにも行かずに、わーわー、なにか文句を言っている。猩緋しょうひはといえば、そんな三人が存在などしていないかのように、黙々となにか書状に目を通していた。


「葵の上!」


 突然顔を出した自分に驚いた様子の三人は、さすがにピタリと口を閉じて、猩緋しょうひも手を止めて、居ずまいを正すと、丁寧に頭を下げてかしこまる。


「あの、その、葵の上のお世話をする女房の数が少なすぎると、ここに言いにきていたのですけれど……」


 そう言いながら、モジモジしている紫苑は、どこか居心地が悪そうだった。それもそのはず、なによりも自分が優先してしかるべき葵の上のお世話もせずに、その上、こんなところまで探しにこさせてしまっているのだ。


「こんなところで命婦殿は、北の方のお世話を放り出して、なにをしているのでしょうねぇ?」

「…………」


 猩緋しょうひは、ちらっと紫苑に視線をやって、嫌味を言う。紫苑をはじめ皆は『ぐうの音』も出なかった。


 そそくさと、葵の上のあとについて、北の対に帰った紫苑たちを見送った彼は、「なにをやっているんだか……」そう呟いてから、それでも先ほどの第二皇子の使いの騒動を聞いて、警備にあたっている随身の筆頭を呼ぶと、今後、誰であれ自分かあるじである中務卿なかつかさきょうの許しなく、やかたに入れぬようにと、強い口調で注意してから、関白の懐刀である白蓮からきた呼び出しに応じるべく、中務卿なかつかさきょうに断りを入れて、やかたをあとにした。


 そして、紫苑たちに手伝ってもらいながら、朝の身支度を整えていた葵の上は、そう言えば兄君は、どうしたんだろうと思う。


「兄君はまだ眠っていらっしゃるの? さきほど、夕顔に菖蒲あやめ撫子なでしこに、兄君のお世話を頼んでいたでしょう?」

「え? 聞いていませんけれど」

「はい、夕顔とは会っていません」


『え? 嫌な予感しかしない……』 


 葵の上は、二人の答えにそう思い、あせりながら、北の対に急遽作られた『兄君の部屋』に目をやる。するとちょうど兄君が姿を現した。若き日の関白に瓜ふたつな“京中の姫君のアイドル”そんな兄君の顔に耐性のない菖蒲あやめ撫子なでしこは、案の定、チラチラと兄君の様子をうかがいながら頬を染めている。


『ますます嫌な予感しかしない……』 


「兄君おはようございます。朝のお支度の手伝いが遅れて、申し訳ございません」

「ああ、おはよう。昨日は迷惑をかけたね。身支度なら先ほど可愛らしい女房殿が……夕顔だったかな? 彼女が手伝ってくれたから大丈夫だったよ」

「……まあ、そうですか」


『うそ――! 二人が出会わないように、わざわざ、夕顔には休みをあげたのに!』


 頼むから、運命の女神Part2だけは! 質量保存の法則だけは!


 そんな風に頭を痛めていた葵の上は、自分の手首にくっきりと浮かびはじめた、先ほど検非違使の別当に強く握られてついた青あざには気がつかなかった。


 *


『たぶん本編に関係のない小話/別当』


葵「別当はいらっしゃいますか?!」


検・蔵・皇「「「なにかご用でしょうか?!」」」


 検非違使の別当と、蔵人所の別当と、皇后宮職こうごうぐうしきの別当が一緒にいた。


葵「………」うわ、めんどくさいことにと思ってる。


 ・検非違使の別当→忠景ただかげ 

 ・蔵人所の別当→春嗣はるつぐ

 ・皇后宮職の別当→?


 本当の平安時代と同じく、同じ苗字が多いので、みんな、役職で呼んでいるけど、別当にいたっては、地位が一緒なので、集まられると、すごくややこしい(めんどくさい)のでした。


葵「苗字どころか、地位まで被ってる……」


紫苑「みなさま、ほぼほぼ、ご親戚ですからねえ」


 まるでなにかのトーナメント表のような家系図を横から覗いているのでした。


葵「………」


 いちいち面倒なので、あだ名で呼ぶわけにはいかないのかな? とか思っているのでした。


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