第198話 収まらぬ火の粉 5

 三の君は、しばらく固まっていたが、実は頭の中には、蔵人所くろうどどころの別当を実際に知る女御の言葉が、何度も繰り返し響いていた。


『格段に美しい……』


 実は三の君は、とにかく美しいお顔の男君が大好きだった。彼と頭中将とうのちゅうじょうにまつわる話も耳にしたことがあったが、葵の上とは違い、いわゆる平安の『恋バナ』が大好きな彼女は、そんなことは気にならなかったし、そこまで美しい方なのかと、密かに憧れさえ覚えていた。


 姉君がきっかけとはいえ、やがてひっそりと(いまは大騒動だけれど)した右大臣家の自分の元に、ふみが届き……わたくしの返事を目にした蔵人所くろうどどころの別当が、なんと美しい筆の跡……とか、そんなことになってしまって、それからそれから……。


 先ほどまでの悲しみも、体調の悪さもどこへやら、三の君は、そんな妄想に頬を染める。姉たち同様に、平安貴族の姫君の一番のお楽しみ、「恋のやり取り」もできぬままに、父君に夫を決められていた三の君は『わたくし、字の美しさには、かなり自信が……いつか有名な書家が、美しさで有名な葵の上の筆の跡と、わたくしの筆の跡は、まるでおもむきは違うけれど、並べてもまったく見劣りがないと言っていたわ……』そう思うと、せっかく女房がまとめていた葛籠つづらを、彼女たちが慌てるのも気づかず、解いて硯箱を取り出し料紙を周囲に舞散らかして、手習い(習字)をはじめていたが、ふと手を止める。


「姉君……?」

「待ちの一手と言うのも……芸がないわね……」

「姉君?」


 不審そうな顔の五の君の声にも気がつかず、先ほどの姉君、弘徽殿女御こきでんのにょうごのご様子であれば、きっと蔵人所くろうどどころの別当に、なにがなんでも話を持ってゆくだろうと思う。(夫が女御に太刀打ちできるはずがない。)


 それを案じた自分が先に『謝罪のふみを送った』のであれば、女である自分からふみを送っても、決して体裁が悪い話ではない。むしろ細やかな心遣いのできる方だと、好印象を持っていただけるはず……。


 三の君は生まれて初めて訪れた平安女子の最大の楽しみ『恋文のやり取り』の最初で最後であろう機会と、蔵人所くろうどどころの別当への期待に胸が膨らみ、薄情な蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやのことは、その他大勢の恋多き平安女子と同じく、綺麗さっぱり忘れると、散らかった料紙に囲まれて、うっとりと物思いにふけっていた。


「母君、姉君のご様子がおかしいです……」

「あら、また疲れが出たのかしら? 三の君は早く布団に入りなさいね。五の君は三の君の分まで、頑張りなさい」

「ええぇ――」


 そう言って母君は、忙しい忙しいと言いながら姿を消した。右大臣家は、どこもかしこも大騒ぎであった。


 そんな大騒ぎも知らない帝は、相変わらずなにも知らず深い眠りについていて、弘徽殿女御こきでんのにょうごは宣言通り、親王である蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやを自分の部屋に呼びつけていた。


 四の君がキッチリとした形で、摂関家に連なる北の方として迎えられる。慌ただしい中にもそんな朗報を聞いた右大臣的にも、もはや蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやは、とり立てて意味がない婿君である。


 女御にょうごの剣幕と、それ以外にも里内裏のやかたの主としての悩みごとを背負い込み過ぎて、心が潰れそうになっている右大臣は、もう蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやなど、どうにでもなれと、嫌味を炸裂させている女御にょうごの横で、すっかり置物状態になって、他のことを考えていた。


 そんな訳で帝の意識もなく、東宮もいない右大臣のやかたで、唯一、弘徽殿女御こきでんのにょうごを止められる可能性のある右大臣は、ぽ――っとした様子で、明後日の方向をながめていた。


 孤立無援の蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやは、ひたすらに平身低頭といった呈で謝罪を繰り返し、どうにかやり過ごして女御にょうごの御前から何度も下がろうとしたが、まだ話は終わっていないと、帰ることを許されず、まるでウッカリ蜂の巣に頭から転げ落ちてしまったような、いきなり大嵐に巻き込まれてしまったような、そんな状況に陥っていた。


 あとでその『世にも恐ろしい話』を聞いた葵の上は、夕顔は絶対に兄君に関わらせてはいけないと、再び心に固く誓ったものである。


 そんな哀れな蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやを救い、右大臣が顔色を変えたのは、御仏よりも第二の宮中と呼ばれる特権社会の中でも、ほとんどすべての官僧たちの『心のよりどころ』であり、帝が彼による御仏の教えを、心の支えとしていた桐壷更衣への寵愛と、巷にまで広く聞こえる加持祈祷の実力を耳にして、身分に釣り合わぬほどに厚遇し、官僧の頂点に近い大僧正だいそうじょうの地位を授けた、神祇官の頂点に並ぶ地位を持つ『北山の大僧正だいそうじょう』の訪れであった。


 彼の訪れを耳打ちされた右大臣は、急に血相を変えて車止めまで足を運ぶ。帝が大いに重く扱っていた北山の大僧正だいそうじょうは、右大臣をしても『要取扱注意』そんな人物であった。



〈 その頃の蔵人所くろうどどころの別当 〉


 大内裏にある検非違使所とは違い、内裏内にあった蔵人所くろうどどころは全焼していた上に、右大臣家に臨時の蔵人所くろうどどころを置く広さもないので、彼は警備や実務のことは部下に任せ、ひとまず自分のやかたの蔵の中で、持ち出した蔵人所くろうどどころの重要な資料の点検に追われていた。


「は、は、は……はっくしゅん!」

「まあまあ、どうかなさったの?!」

「大丈夫です……姉君にはお気遣いはありがたいのですが、こちらはまつりごとの重要な文書を一時保管しております。姉君といえど、許可なく立ち入りなさらぬようにお願いいたします」


 先帝の女御であった姉君は、弟君が心配でしかたがないのにと思い、不満げな顔で唇を尖らせながらしぶしぶ母屋に戻って、あちらこちらからくる見舞いのふみに目を通したり、返事を書いたりしていたが、女房があとで届けたものかどうかと、彼女の元へ相談と共に持ち込んだ弟君あての『ふみ』に目を輝かせた。


「なにかしら? どなたからかしら? お見舞いのふみかしら?! それとも恋文かしら?!」


 それは弟君にあてて届けられた、どこから見ても非の打ちどころがなく美しい、かなりの身分と思われる姫君からのふみのようで、どんなふみより輝いて見えた。


 素早く女房の手から奪い取ると、陽の光に透かせて、なんとか中身を見ようと、姉君は必死になっていたので、その隙に呆れた顔の弟君が、コッソリ出掛けたことには気づかなかった。


 こんな前に出過ぎる自分の気遣いという名の過干渉が、弟君を縁遠くしている原因のひとつだとは、姉君は、まったく気づいてはいなかった。


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