第199話 収まらぬ火の粉 6

『北山の大僧正だいそうじょう』と呼ばれる腰の曲がり年老いた僧侶は、この大火を利用して、削り取られる一方の特権を取り戻し、その上、いままでは、手をこまねいているだけであった『神祇官の長』という、内裏での権力を獲得する大きな機会と、よる年波からくる腰痛を我慢して、数年ぶりに京に入り、みずから右大臣家にやってきていた。


 大僧正だいそうじょうは、帽子もうすと呼ばれる白い頭巾をかぶり、袍裳ほうもと呼ばれる法衣として最高の衣を身につけた豪華絢爛ないで立ちで、左手には数珠、右手には扇子、大勢の官僧と呼ばれる僧侶があとに続いていた。つき従う僧侶たちの中には、なぜか煤竹法師すすたけほうしが混じっている。


 右大臣は、大僧正だいそうじょうへの帝の厚遇ゆえに、先ぶれもなしにやってきた無礼を咎めることもできず、帝に直接の見舞いと祈祷に参上したと言う、大僧正だいそうじょうに内心では舌打ちをしながら、どうやってこの坊主を追い返したものかと、頭を悩ませる。この大僧正だいそうじょうは徳の高さでもつとに評判の者、下手をすれば自分の立場が悪くなる。


 しかし、古すぎる話ゆえに、いまは消えてしまっている話ではあるが、元はといえばこの北山の大僧正だいそうじょうは、出家する以前は平安貴族にしても派手過ぎる夜遊びを繰り返し、美貌でうわさに高かった某貴族の姫君のいるやかたに忍び込んで、そっけなく袖にされて逆上したあげくに、姫君を持っていた刀で袈裟けさ斬りにして、あまりの出来事ゆえに、父親が一族を守るため回せるだけの手を回して、縁のある寺に出家をさせた……実はそんな、いわくつきの人物であった。


 大僧正だいそうじょうは、そんな大きな障りのある人間であったが、その話は当時でもごく少ない貴族の間に、深く秘められていた話であり、時がたったいまとなっては、真実を知る者は存在せず、その上、彼は生前の桐壷御息所きりつぼのみやすどころの信心が特に厚く、その縁で帝からの格別な取り立てがあったので、近々、前例のなきことながら、神祇官の長となり、政の世界も手に入ろう……周囲はそう思っていたし、己自身もそんな算段をしていた。


 ところが彼は、『薬師如来の具現』と呼ばれる尚侍ないしのかみによって、関白が奇跡的な復活を遂げてからというもの、アテが外れてばかりの日々を送っていたのである。


 復活した関白が、とかく自分たち官僧の特権や地位を侵害して来ることに、彼は大いに憤慨をしていたが、その緻密な大義名分に表立って反論もできずに、苛立たしい限りであった。しかし、この大火をきっかけに、これ幸いと、すべて『御仏を疎かにしている摂関家や貴族たちの所業の呼んだ結果』と位置づけようと目論もくろみを抱いていた。


 そして煤竹法師すすたけほうしの姿があることから分かる通り、彼が起こしたとされている数々の祈祷による調伏ちょうぶくの奇跡は、実は彼のような『法力はあっても、世間に出るには差し障りのある破戒僧たち』を、上手く利用してきたことによるものであり、今日もそういった“いわくつき”の僧侶を引き連れていた。


 そんな大僧正だいそうじょうの狙いを、さすがに察知した右大臣は、どうしたものかと、またひとつ沸いた大きな悩みに頭を抱える。帝は、いまは眠っているが、最近の不安定過ぎる様子をかんがみて、大僧正だいそうじょう案内あないして、不意に目を覚ましでもしたら、一体、なにを言い出すか分かったものではない。かといって関白とは違い、自分には帝に対して意見をする権限などありはしない。


 この坊主は帝に、なにかよからぬことを吹き込み……いや、この坊主は、あらぬことですら、『帝がおっしゃった』そう言いかねないし、なにか怪しげな祈祷をするやもしれぬ。昨日から内裏で儀式を執り行っている真っ最中であろう、朝廷の祭祀を司る神祇官の長や、官僧の長である僧官そうかんを呼ぶのは無理だ。


 大僧正だいそうじょうを、釣殿に案内させてから、右大臣は自分の部屋もないので、どさくさに紛れて、蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやが、そそくさと姿を消した弘徽殿女御こきでんのにょうごのところで、ブツブツ文句を言いながら、グルグルと歩き回って悩んでいると、なにかが烏帽子えぼしに当たって、突然かなりの衝撃が頭に走った。


 床の上に目をやると、そこには檜扇ひおうぎ


 本来、檜扇ひおうぎは名前の通り『ひのき』の薄板を装飾して作られるものではあるが、これは、弘徽殿女御こきでんのにょうごが、高価な檜扇をあまりにも壊すことに根を上げた右大臣が、その固さと強さで有名な『槻木つきのきケヤキ)』で新しく作らせた特注品であった。ゆえに槻木つきのきでできた檜扇ひおうぎは、なんの損傷もなかったが、投げつけられた右大臣は、たまったものではなく、目に涙をにじませながら、痛みが消えない頭を手でさする。


「いつまでもうろたえておらず、さっさと関白にご連絡をして、尚侍ないしのかみに、こちらにきていただきなさいませ!!」

尚侍ないしのかみ……?」


 右大臣の愚痴でしかない独り言から、大体の話を把握した弘徽殿女御こきでんのにょうごは、そう言ってから大きなため息をついた。父君はこの騒ぎですっかり頭が回らなくなっているようだ。ここはわたくしがしっかりせねばならぬと思う。それから万が一を考えると、東宮を関白のやかたに留め置く差配をした蔵人所の別当に、心密かに感謝した。


「いくら大僧正だいそうじょうといえど、尚侍ないしのかみのように、正式に帝の命を口上で告げる資格はありません。尚侍ないしのかみの母宮は、帝の同腹の元内親王、父君は摂関家の嫡流。たかが更衣が取り立てた、素性も怪しい坊主より血筋も立場も格は遙かに上!! なによりもあの大火を鎮めた御仏の使い。あわせて関白がいらっしゃれば、帝が目を覚まして、途方もないことを言い出したとて、押さえ込んでさっさと追い返せましょう!!」


『その手があった!!』


 そんな顔をしてすぐにまた、右大臣は困った顔をする。


「しかし……いまから使者を出して、きていただくにしても時間がかかりましょう。それまでに帝に会わせろと言われては、あやつは帝に、お出入り自由を認められている身、止めることができ……」


 止めることができない……そう言おうとした右大臣は、女房が拾い上げて、弘徽殿女御こきでんのにょうごの手元に戻した檜扇ひおうぎを、再び投げつけられていた。


「わたくしに挨拶にこさせればよいでしょう!! わたくしは帝の最高位の女御にょうごであり、次期帝である“東宮”の産みの母です!! 北山の大僧正だいそうじょうなどど、たかが“老いぼれ坊主”、なにほどのものですか!!」

「!!!!」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは、いまは自分から見捨ててしまった帝に、いくら粗末に扱われようとも、折れることがなかった気性であり、『北山の大僧正だいそうじょう』と呼ばれ、帝が重く扱う存在であっても、身分に関しては、女御にょうごである自分が上、へりくだったり媚びたりする気などサラサラなかった。


 彼女は右大臣に堂々と言い切ると、テキパキと女房たちに北山の大僧正だいそうじょうをこちらに案内させるように言いつけて、父君である右大臣には、「わたしが時間稼ぎをしておくから、さっさと自分で馬に乗って、関白のところに行ってこい!」そのくらいの勢いで、檄を飛ばすと自分の部屋から追い出した。


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