第200話 収まらぬ火の粉 7

 弘徽殿女御こきでんのにょうごに呼ばれた北山の大僧正だいそうじょうは、他の僧侶たちをその場に待たせ、あくまで正式な立ち位置では、自分よりも上である女御にょうごからの呼び出しを無視はできぬと思い、それでも待たせるだけ待たせてやろうと、勿体ぶった仕草で、老いを言い訳にゆるゆると足を運び、長く時間をかけて、ようやく弘徽殿女御こきでんのにょうごの部屋に姿を現した。


 大僧正だいそうじょうが、御簾の向こうの女御にょうごに挨拶を述べようとしていると、そこに本当に関白のやかたとの間を、馬で往復してきた右大臣が、再び女御にょうごのいる御簾内に戻ってきて、大僧正だいそうじょうを無視したまま、なにやら耳打ちをしている。


 女御は無言のまま目を見開いた。


 なんと関白は大火の日に、尚侍ないしのかみに降りた『御仏の御告げ』によって、既にこの騒動を予測していたらしい。


 しかしながら次期東宮や、自分たち貴族を排除しようと企み、国を混乱に陥れようとする北山の大僧正だいそうじょう一派の勢力を徹底的に潰すには、とにかく夕刻までは、時間を稼げと言われたと父君は言う。


 きっと、その頃合いを見計らって、なにかしらの算段がある関白が、尚侍ないしのかみを伴って、こちらに現れるのであろう。


弘徽殿女御こきでんのにょうごであれば、この東宮と貴族派の命運がかかった大役を、無事に果たしてくれるはずとのこと……」


 右大臣は耳元で小さくそうささやくと、女御にょうごの顔色をうかがった。


 弘徽殿女御こきでんのにょうごは少し考えると、任せておけとばかりに、檜扇で合図を送って、右大臣を追いやる。


 それから御簾の向こうで、こちらを眇めた視線で見ている大僧正だいそうじょうを一瞥し、側にいた女房の萩に視線をやる。すべてを聞いていた彼女は、心得顔でそっと下がって行った。


 そうして、葵の上たちが到着するまでの間、弘徽殿女御こきでんのにょうごと、北山の大僧正だいそうじょうの間には、どす黒い『言葉のつばぜり合い』という、時間稼ぎの言い争いの火ぶたが、切って落とされた。


 女御にょうごの前を下がった萩は、この分野に置いては負けを認めたことのない、弘徽殿女御こきでんのにょうごに心の中で声援を送りながら、他の女房たちに矢継ぎばやに指示を出してゆく。


 女房たちは、外に二人の声がなるべく聞こえぬように、素早く何枚も屏風を立て、待機している僧侶の元には、右大臣より最上級のもてなしをとのことですと言い、禁じられているはずの酒や肴をふるまい、楽師を何名かやって音曲を奏でさせた。


 呪法の腕は確かでも、常日頃は不自由な暮らしをしている彼らには、それはもう夢のような出来事であった。


 大いに喜んでいる彼らに萩は、「周囲の騒動も里内裏の設えを整えるために、まだなにかと立て込んでおり、お目汚しですので」そう断ってから、素早く指示を出して、四方を見えぬように、こちらも屏風で視界を塞ぐ。


 大僧正だいそうじょうが寺の中では、般若湯と称しては酒に口をつけ、病が治らぬと言っては、薬食いと言い、肉や肴を用いた毎日の食事を取って精進潔斎などしてはおらぬことを、彼らは知っていたので、貴族たちも心得ているのであろうと思い、なんの遠慮もなく箸をつけはじめた。


 日頃、貴族の館になど出入りできぬ彼らは、萩の言い訳に疑問も持たず、出された酒や肴に舌鼓を打っていた。煤竹法師以外は。


 その頃、慇懃無礼な大僧正だいそうじょうの挨拶が終わると、弘徽殿女御こきでんのにょうごは、昨今の僧侶たちの風紀の乱れの当てこすりをはじめていた。


 しばらくの間は、女御にょうごに対するおおやけに置いては、下に叙せられることと、徳の高い僧侶という評判を鑑みて、北山の大僧正だいそうじょうは、ゆったりとした態度で諭すように、重々しく丁寧に受け答えをしていたが、立て続けに放たれる女御にょうごの鋭い舌鋒ぜっぽうに、数刻もするとメッキが剥げ落ちてゆき、元来の女を人とも思わぬ傲慢な『地』が出てくる。


 女などという、悟りを開くこともままならぬ穢れた存在は、桐壺御息所きりつぼのみやすどころのように、ただただ男に導かれるままに仕え、敬いながら生きることこそ、唯一の道だというのに、御簾の向こうにいる女御にょうごは我慢のならぬほどに高慢で、どうしようもない生き物であった。帝が遠ざけるのも無理はない。


 しかし、たしかに彼のそういった女を酷く浅く、低く見る考えが程度の差はあれ、広く見受けられる時代ではあったが、同時に高貴な身分に生まれた女は、それ相応に前世の徳を積んだ存在だというのも、これまた世の常識であった。そこから見れば、次期帝の東宮の母といえば、これはもう別格の存在である。


 が、彼にとっては東宮の母とはいえ、『女』の身である女御にょうごに対する、我慢の限界はとうに超えていて、肩を震わせ拳を握り締めると、大声で弘徽殿女御こきでんのにょうごに『御仏の教え』を盾に、滔々とうとうと長い説教をはじめたが、それこそ時間を稼ぐのが目的であった女御にょうごの『思うツボ』であった。


 長い時が過ぎて、すっかり喉が枯れた様子の北山の大僧正だいそうじょうが所望した茶を運んできた萩は、北山の大僧正だいそうじょうの上に茶を、ほんの少しこぼしてしまう。


 もちろん弘徽殿女御こきでんのにょうごの目配せの結果であった。


 しつけのなっていない女房のことをののしり出した彼に、萩は平身低頭のそぶりを見せながら、すぐに乾かしてまいりますと言うと、それっとばかりに、彼が帝の前に出ることができぬよう、彼の袈裟を手早く脱がせ、帝に拝謁するなど、とてもできぬ姿にしてしまう。


 御簾の内側にいる女御にょうごは、顔に翳した檜扇の向こうでニンマリと笑って口を開いた。


「あらあら、女房がとんだ粗相を……そのようないで立ちで、帝に拝謁するなど、とんだ無礼、今日は帰った方が……よいのう……」

「わざと命じたな……!!」


 弘徽殿女御こきでんのにょうごの指図で動いた萩に激高した北山の大僧正だいそうじょうは、頭巾が落ちるほどの勢いで、御簾内に戻ろうとする萩の髪を掴んで、拳を振り降ろそうとしたが、そこは歳からくる老いの出た、しごくノロノロとした遅い動きであったので、御簾を持ち上げて、飛び出してきた弘徽殿女御こきでんのにょうごに、脳天から檜扇と言う名の、槻木つきのきでできた木の塊を叩きつけられると、綺麗さっぱり気絶していた。


「さすがですわね……」

「ほほほほ、東宮の剣術の稽古を何度も見ておりましたら、自然と体が動きましたのよ?」


弘徽殿女御こきでんのにょうご、見取り稽古している!!』


 それはあとからその大活躍? を聞いて、目を丸くしていた葵の上の言葉であり、感想であった。


 見取り稽古とは、他人の稽古や試合を見て学ぶことであり、この時代で、しかもいわゆる『姫君』カテゴリーの頂点で育ったはずの弘徽殿女御こきでんのにょうごの勇ましさに、葵の上は感心していたが、たいていの女御にょうごの巻き起こす騒動には、とっくに慣れているはずの右大臣は、ドン引きし過ぎて気絶していた。


 しかし、幼い頃からそんな女御にょうごの気性の荒さに慣れている萩は、その時、平然と気絶した大僧正だいそうじょうの横を通り過ぎ、すました顔で別室に控える僧侶たちに、「女御にょうごが、北山の大僧正だいそうじょうのありがたいお話にすっかり聞き入っていらっしゃいます。そのままお待ち下さいませ」と、もっともらしく淑やかに伝えていた。


 数刻のあと、目を覚ました北山の大僧正だいそうじょうは、「お話中にお疲れになって、起こすのもお気の毒なほどに、眠りこけていらしたのですよ」と、女御にょうごが女房づてに嫌味を言うのを、不思議そうな顔で聞いていた。


 ほんの数滴、茶がこぼれただけの袈裟は、布で叩いて乾かして、綺麗に着せておいたので、彼は首を傾げながらも、まさか女御が檜扇で襲いかかるなど、あり得ないので、悪夢を見たと納得するしかなかった。


 それからなぜか酷く痛む頭をさすりながら、さすがに恐縮すると、長々と謝罪の言葉を連ねたが、結局は蛍兵部卿宮ほたるひょうぶきょうのみやと同じような立場になってしまい、御簾の向こうから女房を介して、今度は宮中における礼節を長々と語る女御にょうごの前で、ひたすら平身低頭といった呈で、奥歯を噛みしめながら頭を下げていた。


『身分も知恵も足りないくせに、うちの女御にょうごに口で勝とうなんて、相当老いぼれている証拠よね』


 それが女御にょうごに仕える女房たちの総意であり、あとで真実をこっそりと聞いた紫苑が、女御にょうごじゃなくて、葵の上に仕えられることに、心底安堵した出来事であった。


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